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土石流

十二月九日




 朝になって新兵衛は、牛鬼を捕まえた後の顛末を乾に聞かされた。

 四番隊望月清平の下に池田忠三郎と池田陽三郎というものがいる。最初に牛鬼と接触したのがその四番隊で、忠三郎の方が牛鬼に食われた。その苗字が示す通り両名は兄弟で、その兄を失った陽三郎の怒りはいかばかりか。四年ほどまえに尊皇攘夷派の浪人らが大和国で決起する事件があった。世に言う大和義挙、あるいは大和の乱、浪人らが自らを天誅組と称したことから天誅組の変とも言った。その際、陽三郎はもう一人の兄も失っていた。歳も十七となり大人として認められてもまだ子供である。それがひとり残されたとなれば寂しさはひとしお身にしみよう。それだけに牛鬼に向けられた怒りは尋常ではない。

 咆える牛鬼を前にして、陽三郎は太刀を抜いた。そして出鱈目に振り回す。動けないことをいいことに、その白刃のどれもが牛鬼の顔にかろうじて命中するのだが、刃が皮膚に通らず当の牛鬼はまったくこたえない。牙を打ち鳴らし、ツバキをまき散らしながら応戦してくる。その様子に、陽三郎は癇癪を起こし、もっと出鱈目に太刀を振るう。

 見た目、あまりにいいものではない。十七の子供が目を真っ赤にして、まるで気がふれたようだ。が、しかし、陽三郎を思うと隊長の清平は止める気にはなれない。池田家は清平にとっても親戚筋にあたり、二人を、いや、大和で死んだ佐之助を含め三人をよく知っていた。気が済むまでやらすしかないというのである。

 それを眺めている乾らはというと清平が止めないのだから黙っているほかにどうしようもない。息切れした陽三郎は太刀を杖にするもまた、それを再開する。一体いつまで続けるのやら。その場の空気がそういう風になり始めていた。死んだのは忠三郎だけではない。今夜の騒動で今井村の郷士も鏡村の郷士も死んでいるのだ。下士の世間は狭い。彼らの中にも姻戚関係を結んでいた者らがいたかもしれないし、血縁だってそう。だとしたらぐっとこらえて涙を飲む者だっているであろうし、あるいはその中から、次はわしの番じゃと言い出す者も出るかもしれない。

「止めさせてくれ」

 そんなことは耐えられないと乾が清平にそう言った。それに答えて清平は陽三郎を羽交い締めにする。それでも陽三郎はギャンギャン騒ぎ、暴れる。振り回される太刀が危ないので何人かが加勢する。牛鬼はグルルと喉を鳴らしていた。

 そこに安吾とたえが姿を見せる。騒いでいることなんてまったく気にかける様子もなく、二人は牛鬼の正面に立った。そして腰から拳銃を抜くと安吾はそれをたえに手渡す。おもむろに、たえは銃口を牛鬼の眉間に向けた。そして引き金を引く。


「嫌なものを見ちまった。それが実感さ」

 屋敷の一室で、乾は新兵衛に言った。聞かされている新兵衛もひどくこたえた。陽三郎は仕方ないとして、そんなことを安吾とたえにさせてよかったのだろうか。

「それで一つ相談だが、」と乾が言う。

 そのことがあって隊の空気も重たくなっていた。これから先、安吾とたえに極力殺傷沙汰を見せたくないのがみなの本音だった。安吾の話からまだ、『うわばみ』と『大百足』がいるのは周知されていた。そのどちらかと、あるいは両方ともと弘瀬村に向かう道中で出くわすかもしれない。それで隊は安吾とたえに先立ち出発したい、その後から二人を連れてきてくれと乾は言うのだ。

「なにかあればここの本宮神社に戻るといい」

 昨夜、ことが落ち着くと乾は鏡、今井両村の郷士三人に監察府へ向けて出立させた。大砲一門と援軍を要請するためだ。そしてその収容場所を鏡村にある本宮神社とした。ほかの郷士は鏡村の篝火を絶やさず、軍が来れば迎え入れるよう命じてある。

「あっと、篝火といえば礼を言うのを忘れていた。助かったよ、小松君。あれがなければ全滅していたかもしれない」

 そう言って頭を下げた乾は「では、行くとするか」と席を立つ。戸に手をかけたが、なぜかそこでうつむく。まだ何か言い足りないのか。いや、その雰囲気は自問自答しているようにも見える。その乾が意を決したか、話を切り出す。

「僕も確信が持てないんだが。それにあまり君に責任を押し付けるのも厳正さを欠くしね。だから迷ったんだが、」

 なにを言い出すのだろうかと新兵衛は食い入るように見る。

「ところで小松君。昨夜、なにか気がつかなかったか?」

 気づくもなにも、「それどころでは」

「暗闇だったろ、空は」

 たしかに、そうかもしれない。

「新月だったんだよ。昨日」

「え? 昨日あたりは弓張月あたりじゃぁ」

「それが昨日だけじゃない。おとといもだよ。もしかしてさきおととい、六日の夜もそうだったのかもしれない」

 六日といえばたえが初めて札を捲った日だ。乾は続けた。

「思い過ごしかもしれないが、宇内そのものが呪われている、あるいは宇内の理が別のそれにすり替わったか。いや、そんなことがあるわけない」

 西洋列強の到来で世界が広がった当時、『天下』では用が足りなくなりそれをどうするかと選ばれた言葉が『宇内』であった。

「ないが、ここ二三日、君は感じなかったかね、なにかがおかしいと」 

 新兵衛もそれは感じていた。小さくうなずく。

 乾が続けた。「ただ言えるのは、絶対に終わらせなければならないっていうことだ。そうは思わないか、小松君」

 感じてはいたが正直、新兵衛には世界のことなんてよく分からなかった。確かに『刀鬼』や『牛鬼』を考えると異常としか思えない。それは分かるし、これからまみえる『うわばみ』や『大百足』なぞは目も当てられない。それはそうとしてだ、あの巨大な二体の戦いの最中、安吾とたえを本堂に入れられるのか。どちらかというとその方のが気にかかった。

 弘瀬村に向かう道すがら新兵衛は、その二人に腹が減ったかとか、足は痛くないかとか、あれやこれやと心配したり気を配ったりした。なんにせよ、すでに子供が背負うにはあまりにも重い荷となっていた。気休めでもいい、ちょっとでもその負担をやわらげたかった。

 弘瀬村に着くともう昼を過ぎていた。新兵衛らを待ち焦がれていたのだろう、乾はその顔を見るなり、迎えをやろうと唯八にいまさっき頼んでいたところだったんだと言う。その唯八に今度は、先に行くから隊を率いて来いと命じる。そして、さぁ、行こうと新兵衛らに催促した。

 すでに廃寺の石段には五番隊の姿があった。踏み石にへばりついて境内を覗いている。その隊長田辺豪次郎の横に乾がつく。そして固唾を呑んで見守るところへ、どうかと問う。

 この豪次郎は始め、幡多郡十川村から城下に出て半平太を師事し、それから戻って中村の樋口を師事した。土佐勤王党弾圧の折りにはその対応をめぐって七郡の代表者が城下に結集したのだが、この時、豪次郎も樋口とともに幡多郡代表としてそこに加わっていた。

 乾とは樋口を介して知り合ったという。下士の中にあっては心底、乾の人柄に惚れ込んだ異色である。そしてそれを見込んで樋口は唯八の弟小笠原謙吉を豪次郎の隊に入れたのだ。その豪次郎が、「はい、あれから変わりません」と答える。

 あの二体はあれからずっと睨み合いを続けているのであろうかと新兵衛は思った。みなの様子が落ち着いている。戦っていたのならまず間違いなく生きた心地はしない。蒼白の顔がここにずらりとならんでいるだろう。新兵衛は豪次郎の下で踏み石にしがみついていた。そしてそのさらに下では安吾とたえは不安いっぱいの顔で見上げている。

「小松君、ちょっとおかしなことになっているんだ」

 そう言って乾は手まねきをする。それに答えて新兵衛は乾の横につく。

「覗いてみなよ」と乾。

 恐る恐る新兵衛は石段の最上段から顔を出した。

 えっ、と思った。

 境内に大百足がいない。そしてうわばみがでかい。長さは変わらないようだが、胴の直径が倍になっている。築地塀と本堂しかない殺風景な境内。その本堂までの道に新兵衛らを遮るようにそのうわばみがでんと陣取っている。

 乾が言う。

「面白いじゃないか。やつは大百足を食ったんだ」

 なるほどと新兵衛は思った。確かにうわばみの目はとろんとしていた。満腹で気持ちいいに違いない。動くのもおっくうそうだ。これなら容易に本堂にたどり着ける。新兵衛の顔は自然と笑みが満たされていた。

「さっき僕は急いでいただろ。この状況を喜んでいたわけじゃないんだ、小松君」

 そういえばかなり焦っていた。

「普通のへびなら大物を飲み込めば三日くらいはひもじい思いをしなくても済む。ゆっくり消化すればいいんだ。だがな、飲んだ相手は昨日の牛鬼と同じなんだよ。溶けたところはきっと再生をはじめる。うわばみの中ではいま、消化と再生が戦っているんだよ。な、面白いだろ」

 面白くはなかった。その大百足の様子を想像してしまって鳥肌が立つばかりである。きっと半端に溶けて、外骨格はただれているのだろう。乾が続ける。

「残念だけど、いつかはその均衡が崩れる。たぶん、大百足がうわばみの腹を食い破って出でくるのだろうな。君も想像がつくだろうが、やつらは札を合わせると消える。逆を言えばそうしないと死なない。再生は延々と続くんだ。一方で、消化はというと胃酸の出様で決まってくる。延々という訳にはいかない。わかるだろ、そういうことなんだ。だから僕は急いているんだ」

 そんなことを言っている間に、後続も到着した。隊をおいて唯八が乾の横につく。

「手はず通り、僕らは頭の側を迂回して行く。唯八らはしっぽの方で待機してくれ」

 その乾の言葉に新兵衛は疑問が湧いた。安吾とたえはどうするのだろう。

「さ、行くぞ。小松君」

 言っている意味がよく分からない。「ちょっと待ってくれ。わしらはどうすればいいんだ」

「聞いていなかったのか。僕と行くんだよ」

「さっき、あなたは頭側を行くと」

「そうだよ」

「たえと安吾も?」

「そうだよ」

 なにがそうだよだ。「子供二人が行くんだ。よく考えてくれ」

「小松君、あのうわばみがどうやって大百足を食ったかを考えてほしいな。十中八九、頭からだ。で、その頭はどこにある? うわばみのケツだ。さっきも言っただろ。大百足は遅かれ早かれうわばみを食い破ってくるって。さ、行くぞ」

 乾を先頭に五番隊が続く。それに遅れまいと新兵衛は安吾とたえをその肩から強く抱き寄せ、行く。堂々たる歩きぶりで乾はうわばみの正面を通り過ぎた。豪次郎も臆するところがない。

 だれが見ても、うわばみは満たされている。だが、そんな曖昧なことで危険を冒していいのだろうか。もし動き出したならと新兵衛は考えてしまう。悪戯気分でということもあり得る。なにかの拍子、出会い頭っていうこともあり得る。五番隊がうわばみの鼻づらを順に抜けていき、新兵衛ら三人の番となった。

 まるで大きな岩である。そこに人の頭ほどの目玉が横切る人の動きに合わせてギョロギョロと動く。二つに別れた舌先のその一本一本は人の腕ほどあり、それがチョロチョロと一人一人の匂いを確かめるように空気をまさぐる。どういうつもりなのか。後で食ってやるからなとでも言いたいのか。新兵衛は顔を覚えられたようで気味が悪かった。

 そのうわばみの目がピタッと止まった。全身真っ白い鱗に、際立つ黒目が怪しく光る。それがたえに食い入っている。反射的にたえは新兵衛にしがみついた。だがそれからが動けない。足がすくんでしまったのだ。新兵衛は抱き上げ、安吾の手を引いて本堂まで走った。

 既に唯八らはうわばみの後部に陣取っていた。ところがその中から陽三郎が飛び出す。隊長の清平の静止を振り切り本堂に向かった。その声は乾らにも届いていた。豪次郎がしょうがないやつだと本堂に入る一歩手前できびすを返す。

 留まった豪次郎に構わず、乾は本堂の中に入った。それに新兵衛らも続く。いくつも続く板目の筋をずーっと追っていくとぼやーっと暗い向こう、仏像の影の前にそれらしきものが、あった。そこへ乾は一直線に向かう。

「なるほど、西森君の言ったとおりだ。ん? 待てよ」

 無造作に、いくつもの札が広がっていた。唐草模様とか安吾は言っていたが、新兵衛の目からいえばそれは間違いなく図案化した雲であった。一方でひーふーみーと、乾はそれらを一個一個指差しながら数えている。

「おかしいなと思ったら、やはり十九だ。これじゃぁ最後に一つ余る」

 新兵衛と安吾とたえは互いに互いの顔を見合わせた。余るということが何を意味するのか。当然、だれも答えられない。

「それで桐の箱に二枚か」と乾。

 広がった場の横にぽつんとある桐の箱は札の大きさに寸分の狂いもない。覗けば底には雲の模様がある。何の札か? 針でもなければその札は取り出せないだろうが、それには及ばない。中にあるのは二枚で、『刀鬼』の札。

 これまで化物は四体出た。その内、一体が桐の箱に収まり、三体が発現したままということになる。つまりはあと六体の化物が伏せられた札の下に隠されている。しかもどういうわけか最後に一枚が残る。新兵衛の喉をゴクリとやった音が本堂に響く。 

「やるしかないのだよ、小松君」

 乾のその言葉に、おずおずと新兵衛は場の前であぐらをかいた。そうだ、やらなければならないと大きく息を吸う。

 その傍らに安吾がついた。そして耳元に顔を近づける。や否や、太刀を鞘ごと腰から抜いた乾はその鐺を二人のあいだに入れる。

「小松君にはなにも教えてはならん。もちろん弘瀬君にもだ」

 乾の言う通り、安吾はどの札を捲ったのか、それがなんの札なのか、新兵衛に教えようとしていた。乾はふたりの間から鐺を抜いた。

「考えてもごらん。ちょっと度が過ぎるが、これは基本的に君たちが勝ち負けを競う『遊び』なんだ。ズルすれば罰はあるし、その罰も並大抵じゃない。たぶん、生死に係わるんじゃないかな」

 安吾の顔が青くなっていく。見かねた新兵衛は、大丈夫、心配ないとその頭をごしごしっと撫でて笑顔を投げかける。そして、弱気なそぶりを見せず目の前の札に視線を巡らせた。

 例えば『大百足』を引いたとしよう。だがもうひとつの『大百足』の場所を新兵衛は分からない。そのありかは安吾の頭の中にあるだけなのだ。新兵衛が願うのは強力な化物を出さないこと。そればっかりを念じ、これだという札を見つけた。

 その札に手を伸ばす。南無八幡大菩薩、なにとぞ、なにとぞ。

 ところが外の騒ぎで気がそがれてしまう。陽三郎が、札を捲らせよと息巻いていて、頭にきた豪次郎が怒鳴っているのだ。念じれば念じるほどそれが耳に入ってきて、新兵衛はいらいらしてくる。止めた手を膝の上に置く。静まるのを待つつもりなのだ。乾はというと悠長に構えてはいられない。新兵衛の様子を見て、黙らしてくると席を立つ。

「いや、待ってくれ」と新兵衛。

 化物があと六体も残っていると考えるから重圧に押しつぶされる。目の前にある札の数はたった十九枚なのだ。ちゃちゃっとやったらそれこそ直ぐに終わるのだ。ならば化物の出番はない。陽三郎の騒ぎで目先が変わった新兵衛はそう思った。

「乾さん、少し世間話をしたいんだが、いいか」

 頓狂なことを言う新兵衛に、なにかこの『遊び』について言いたいのだと乾は察した。決まりに反したと裁定されないように、かといってだれがどうやってその裁定を行うかは定かではないのだが、とにかく安全を期したいのだろう、新兵衛は暗にほのめかすつもりなのだ。乾はどかっと腰を落ち着けた。

「いいねぇ、で、君の嫁さんの話かい? それとも君自身のかい?」

 新兵衛はちょっと吹き出した。

「いやいや、親父の話だが、いいか」

 乾は手で打った。「親父の話なら僕はたぶん君に負けないけど、」

 乾の父親も変わっているので有名だった。幕末を予期していたかのように兵法書を読みあさる一方で、馬廻りの身分であるにもかかわらず先代まで家老だった林家に娘を後妻くれと頼み込み、いや、脅し、奇跡的にそれが成るとその初夜にその娘に向けて刀を突きつけてみせりした。「いいねぇ。さ、話してくれたまえ」

 新兵衛が言った。

「乾さんの親父様の話も面白そうだが、わしの親父も面白い。唯一の趣味が将棋だ。四六時中本を片手に勉強しとったが、なぜか早指しは不得手。わしは五回に一回は勝てた。根がせっかちなんだ。それに加えて負けず嫌いなもんで、いつのまにか王を取るより早さの勝負になってしまう」

 乾は大声で笑った。「早指しか!」 安吾とたえを凝視すると言った。「西森君、弘瀬君。小松君の親父さんに勝つなら早指しに限る」

 なんにしろ、遊びのことである。ならば子供はみな、その専門家。新兵衛の言わんとすることが分かったようだ。うなずいた二人の目が輝いていた。

「さ、やろう!」

 そう言うと新兵衛は場に手を伸ばす。が、またそこへ横槍が入った。

「見るだけだからかまわんだろうが」 

 陽三郎が新兵衛の横にどかっと腰を落とす。その後ろから席を立たせようと豪次郎が掴みかかる。が、陽三郎は言う事を聞かない。その手を払い除け、やめろと喚く。

「田辺君、もういいよ」

 乾はそう言うと鐺を陽三郎の鼻先に突きつけた。

「本当に見るだけだぞ。もし邪魔するようなことがあれば二人の兄の仇は取れないと思え」

 この隊の除隊はおろか、討幕の軍に入れないということなのだ。脅されて陽三郎はかっときたのであろう、わかったと口では言っているものの、目の前にある鐺をはたいて払った。

 嫌な雰囲気となった。たえは伏し目がちで黙っているが、安吾の方はというと怒りをあらわにしている。ぎろりとにらみつけていた。

 こういう輩はほっぱっておくのが一番。「始めるぞ」 二人の顔色を確認しつつ新兵衛は手を伸ばす。そして二人の視線が手の甲に集まるのを待って、「行くぞ」と札を捲る。


 九本の尾を持つ金色の狐と『九尾』


 息をのんだ。

 次々行くはずだったがそれを目の当たりにして固まってしまった。間違いなく、絵の中の『九尾』は真っ赤な炎を吐いている。そのうえ空を飛んでいるのだ。いままでの化物とは明らかに違う。こんなのとどう戦えばいい。

 唐突に、コォーンと獣の遠吠えが聞こえた。それが一匹や二匹ではない。滅多矢鱈にあちこちの山々から、それも急激に数を増やしていた。それから察するに獣は呼応して廃寺を包囲しようとしているに違いない。だとしたら、たまったもんじゃない。やつらが仕掛けてくる前に終わらせる! 慌てた新兵衛は場に手を伸ばす。

 ところがその手は宙で止められた。陽三郎が握っていたのである。

「次はわしがやる」

 や否や、陽三郎は札に触った。

 轟音と閃光。

 本堂の中は真っ白になり、乾も新兵衛も安吾もたえも、そして豪次郎ら五番隊全員も音に吹き飛ばされる。何が起こったのか。頭を振り振り起き上がってみると、真っ黒焦げの陽三郎の体から肉の焼ける匂いがし、ぷすぷすくすぶっている。

 雷!

 だれもがそう思った。あの音と光は陽三郎に落ちた稲妻だった?

 衝撃が体はもとより精神にも及んだ。たえなぞは震えて縮こまっている。

 新兵衛の番の邪魔をした。ただそれだけなのに雷に撃たれた。決まりを違反したならば恐ろしい罰が待っている。予想はしていたが滅茶苦茶である。新兵衛は憤りを感じた。が、しかし、そうだといって止まってはいられない。こんなことは序の口だろう。このままにしておけばさらに一層悲惨な目が襲ってくる。一刻も早く終わらせる。

 ところが本堂の奥の壁が破裂した。みな、反射的に札の場から退き、新兵衛も安吾とたえを抱きかかえ部屋の隅に下がった。

 固唾を呑んで見守っていると仏像の影から壁を破壊した張本人というか、獣が姿を現した。大きさのほどは土佐犬であったがそれは犬ではない。狐であった。

 見た目、明らかにあの絵の『九尾』ではない。老狐であろう、灰色がかった体毛に尻尾が一本。ふさふさと長い尾を悠々と左右に振りながら、仏像の前に出てくると牙をむき出しに行ったり来たりする。

 五番隊に依田権吉という者がいる。三十前だが老け顔で、いつも十歳は上に見られていた。だがそれは生れ付きというわけではない。半平太が牢に入れられると、権吉はその牢番をかって出た。牢と外とのつなぎ役になるためである。ところが同じく獄に繋がれていた山本喜三之進という男から毒饅頭を無心された。拷問があまりにもひどかったのだ。そして権吉はそれを目の当たりにしていた。幸か不幸か、毒饅頭を届けるという企みは藩庁に見破られてその任を解かれてしまう。だが、よっぽど恐ろしい夢を見るのだろう、以来ぐっすりと眠れたことがない。

 一方の老狐はというと獣ゆえか、あるいは長く生きてこられた所以なのか、直感で一番弱そうなのは権吉だと狙いをつける。不覚にも意気揚々、本堂に飛び込んだいいが、人間たちに囲まれたかっことなってしまっているのだ。突破口を開かなければならない。

 そんなことは露知らず豪次郎は老狐と対峙すると太刀を抜きがてら、瞬殺とばかりに横に薙いだ。果たして老狐は飛ぶと権吉のすぐ傍を摺り抜けた。それが壁に着地したかと思うとそのまま壁を走って開きっぱなしの戸口から外へ消えていく。

 むざむざ見送った乾らは、どんっと床を打つ音にはっとする。権吉が卒倒していた。その床には血溜りが広がっていく。駆け寄ろうとしたその矢先、老狐に突き破られた壁の穴から狐がどっと湧き出してきた。濁流のように次から次へ、仏像の頭の上から、その脇から延々とそれが続く。権吉はその下敷きとなっていた。乾らは壁に張り付き、固唾を呑んで見守るほかなかった。

 やがてその流れが途絶えると権吉に駆け寄る。ボロボロになってこと切れていた。

 一方で札はなんら変わらない状態で床に張り付いていた。どれだけの狐がその上を通ったというのか。百や二百ではきかない。権吉をボロ雑巾のようにしたのだ。札とてそれは免れないはず。だが傷の一つもついていない。

 そこへ銃声。乾らはきびすを返し、表に走った。本堂を通って行ったのは、狐のほんの一部。総勢五六百はいるだろう、境内は狐に埋もれていた。

 そんな中でも、表で待機していた者らは健在だった。うわばみの背中に上がっていて、そこからおのおの銃を撃ちかけている。一方で銃弾を受けているはずの狐らはというと仲間が次々倒れていくのに反撃する気配も見せない。よっぽどうわばみの方が気にかかるようだ。動き出すのを警戒してか、距離を保ってそれ以上近づいてこない。言うなれば、唯八らのやりたい放題である。

 それにもましてうわばみの上の彼らを喜ばせたのは撃たれた狐が生き返ってこないことである。それから察するに一際大きい狐は札の化物ではない。たぶん、この土佐山の主であろう。あるいはこの数から言って土佐国の主かもしれない。それが子分を引き連れてここにやってきた。

 だとしたらこの狐の大群はなんなのだろう。その考えが頭によぎると彼らは急に心細くなった。それもそのはず、唯八らは新兵衛が捲った札を彼らは知らない。

「小松君、早く続きを」

 その言葉に新兵衛は本堂に入ると札の広がる場の前に座った。一枚拾おうとした時、はっとした。安吾とたえを連れてこなければいけない。新兵衛に続くたえに、さらには安吾に札を合わせてもらわなければならないのだ。泡を食って表に出た。そして安吾とたえの手を握るとまた、中に戻る。ところが二人共、それをとどめた。うわばみの様子が変だというのだ。確かに苦しそうに口をパクパクさせている。

 果たしてうわばみは、右に、左に、折れ曲がる。その勢いにその背の唯八らは振り落とされる。うまく着地できた者はそうでない者を引き摺るように退避する。囲むようにいた狐らもちりぢりとなり、うわばみから離れた。

 ところが島村外内と甲冑次はまだ、うわばみの背中にいた。揺れたとき咄嗟にしがみついてしまって、逃げる機を逸してしまったのだ。外内は土佐勤王党弾圧の折に拷問死した島村衛吉の兄である。歳は三十五六で、甲冑次とは従兄弟の関係であった。

 一方で、討伐隊に加わっていた島村の本家筋にあたる寿太郎は振り落とされていた。そこでまだうわばみの背にいる外内と甲冑次を見とがめると、早く飛び降りろと大きく手を振って催促した。

 ところがうわばみの折れ曲がる動きは激しさを増す。下手に降りるとうわばみの頭か尻尾の下敷きになるのは一目瞭然で、こうなっては逆にうわばみがこと切れて動けなくなるのを待つ方がいい。狐の大群の中にあっても寿太郎は頑張れと叫び、他の者らもそう声をかける。

 それとは裏腹に、うわばみの苦しみ様はひどくなる一方で、狐らはというとそれに合わせて猛りたかぶっていく風である。うわばみを見据え、いまにも飛びかからんばかりなのだ。そしてそれが指し示すように大百足が腹を食い破ってくるのは時間の問題とだれもが思えた。

 それでも、もうちょっとの辛抱だと隊長の大石弥太郎が外内と甲冑次に激を飛ばす。だがそれも虚しく、うわばみが体をねじり始めた。上がった砂埃の中でのたくっている。うわばみの背にいた二人の声が聞こえたのはその始めの一時で、あとはもううわばみの尾が地を打つ地響きのみである。寿太郎も弥太郎も、みんな呆然とその光景を流れるままに見送った。

 一方で新兵衛はその惨劇を安吾とたえに見せないように、覆うように抱きしめていた。こんなことの責任を負わされて、なんとも可哀想な子達であるか。安吾とたえの背に触れ、本堂に入ることを促す。「さ、二人とも、始めなくては」

 そう言ったはずの新兵衛であったが、さらに事態は進展し、目の前で起ころうとする奇景に度肝を抜かれ魅入ってしまう。こうなるだろうと想像はしていた。していたが、実際目の当たりにしてみると身の毛がよだつ。立ちこもる砂埃から上へ、ぬーっと大百足の頭が出てきた。砂埃の中ではうわばみが地上に出たミミズのようにぬるぬるとまだ、弱々しくのたくっている。

 やがて舞った砂が沈殿していくと、さっきまでよくわからない部分がようやく見えてくた。半分がうわばみに、半分が大百足。白と黒が繋がっていた。その白は己の身を己で縛るように捩りもじる。そしてその端からは黒がずずずっとひねり出され、その度毎にもたげた鎌首が上へ上へと向かう。大百足が吐いた毒の匂いか、うわばみの胃液の匂いか、ひどい腐敗臭が境内を襲う。途端、新兵衛は喉にこみ上げるものを感じた。ぐっと抑えたが、安吾とたえはというとすでに手をついて小間物をぶちまけていた。

 まだうわばみから完全に出ていないのに、大百足は大きく頭を振って狐の大群の中を浚った。そこから高々と上がった顎には大量の狐が捕らえられ、掴みきれなかった狐がぼとぼとと落ちる。

 一斉に、全ての狐らが大百足に飛びかかっかった。瞬く間に大百足の体は何百もの狐らに覆われた。ところがうわばみのケツから大百足の一節がぼこっと出るたびに、その振動でずるずると大百足の体から滑り落ちていく。甲皮が固いのか、うわばみの粘液か、牙や爪が掛からないのだ。

 一方で、顎で抱きかかえられた狐の塊は端から順に大百足の口に押し込まれ、カリカリカリとかじられていく。大きなずうたいと気味悪い姿に見合わぬ奥ゆかしいたべっぷりである。しかしなにぶん浚い方が粗暴すぎた。相手はこまごました相手なので挟み込んだ二つの牙がうまく利かない。箸で豆を何個もつかむようなものである。今度は食べこぼしがぼとぼと落ちる。無数の頭や足や胴が血みどろに地面に転がった。その中には一際大きい狐の腰から下が、あった。

 いい気になって食事する大百足を樋口は放っておくつもりはない。その正面へ廻ると「目をねらえ!」と抜き放った太刀を大百足へ向けた。近くにいた平井直次郎と多田哲馬がそれぞれ樋口の下に集う。銃を空に向け、大百足の目に照準を合わせた。

 この二人は切腹した半平太の遺骸引取りを弥太郎らとともにした。剣の腕がたつ哲馬は半平太に可愛がられて江戸修行にまで同行したし、直次郎はというと党の幹部平井収二郎に可愛がられた縁で、収二郎の切腹後、四つ上だがその妹加尾をもらって平井家を継いでいた。

 龍馬の初恋の人がその加尾ということを新兵衛は知っていた。直次郎は上士で、といってもその最下層、新留守居組なのだが、やはり龍馬と共に歯牙にもかけてもらえなかった。見下していたのもあるが、収二郎はというとたぶん、男同士で殴り合ったり、じゃれ付き合ったりして遊んだりしない龍馬が嫌いだったのだろう。土佐にはそういう風潮がある。

 それに反して龍馬は加尾とよく遊んだ。龍馬には乙女という姉がいたのだが、それが一弦琴を習っていて、お姉ちゃん子だった龍馬は当然くっついていく。そこに加尾も通っていたものだから仲良くもなる。

 明らかに、収二郎の龍馬にかける言葉にはいつも険があった。怒られているようで一緒にいた新兵衛も身を縮こませた。

 人の悪意とは恐ろしい。嫉妬やら蔑みやらのそれはその人自身を滅ぼしてしまうというけれど収二郎も多分に漏れず自滅した。半平太に抜け駆けし皇族に取り入り土佐藩に藩政改革しろという令旨を出させる。それが容堂の怒りを買って切腹となり、土佐勤王党弾圧の直接の原因ともなる。

 負の感情は、解消するためにその想いを不特定多数に渡そうとするきらいがある。そしてそれがさらに負を生み、さらに悪意が広がっていく。ネズミ講のごときものだと新兵衛は考える。

 いま思うと収二郎の眼の色や言葉の端ばしがそういったものをはらんでいた。といってもそれは収二郎だけではない。時勢を理由にうっぷんを晴らす。そういう胎動は藩の中にあった。そして収二郎はというとその急先鋒だったといっていい。いつもなにかにいらいらしているようで怖かった。

 触れれば粉々にされる。

 収二郎の義理の弟となった直次郎を見るといつもその恐怖を思い出すし、一方で収二郎の眼を盗んで龍馬と加尾と三人で遊んだことも蘇ってきて正直辛かった。

 その直次郎が銃を構える横で、太刀を収めた樋口も銃を構えた。田所荘之助もそれに加わろうと走ってくる。剣術や槍術が花であったその時分、火縄銃を好んだ荘之助は土佐勤王党では日の目を見なかった。いまとなってはこれほど心強い者はいない。

「平井と田所は右、わしと多田は左」

 砲術の名手がふたり。それが狙いを二つに分かち確実に両の眼を打ちぬこうというのだ。その荘之助が位置につき、狙いを定める。あとは樋口の号令一つ待つばかりである。大百足はというと獲物を食べるのに熱心で動く気配すらない。その状況にこの距離。外すことは十中八九ありえない。しかも洋式銃は銃身に刻まれた螺旋状の溝により弾丸に旋回運動が掛かって狙った通りに弾が飛ぶ。そのうえ七連発である。大百足の硝子玉のような目がだんだん大きく見えてくる。四人の集中力は高まっていた。

 ところが一転、顎で抱え込んだ狐らをあたりにばら撒くように大百足は頭を大きく振った。頭上、天空に敵を視認しその攻撃を避けようとしたのだ。それを知らない樋口らはいきなり照準の先で大百足が消えたかと思うとその換わりに眼に入ってきたものに驚き、硬直する。青い空にぽつりと一つ、扇を開いたかのような九つの尾を広げる金色の狐の姿があった。それがムササビのように足をガッと広げて、口を大きく開ける。途端、樋口らの視界が真っ赤に染まった。妖狐が火を吐いたのである。

 あの札に描かれたのと全く一緒、いや、現物はそれ以上であった。吹き出した業火は手当たり次第に空気を侵食し、樋口らに到達する頃には飛沫を上げる鉄砲水のようになっていた。

 あまりにも唐突だったのに、見ている新兵衛らは「逃げろ!」と言ったはずだったが、声に出せたかは、いま考えてもだれも思い出せない。ただ、目の前の光景は目に焼きついてしまっている。動けないのか、諦めたのか、樋口らは逃げもせず、真っ向受ける形でそれに飲み込まれた。そしてそれが行ってしまうと四つの灰の柱が残されていて、『山崩し』なる遊びで最後に山を崩してしまった、まさにそんな風にどさっ、どさっと、一つ、またに一つと崩れていった。

 呆気にとられているその時間差が、大百足に大いに幸いした。物色すると一点に向けて頭を飛ばす。それが地面すれすれに滑空し、ごっそり浚う。大量の狐らと人間一人がその大顎に抱かえ込まれるとそのまま宙に運ばれて、カリカリカリとかじられていく。その肉の塊の中で山本喜三之進がもがいていた。

 かつて近江国石部宿で幕吏四人が殺された。報復である。安政の大獄で尊王攘夷派はこの四人のために多くの命を失った。それが京都奉行所から江戸へ転籍となったというのでその移動を狙う。その暗殺団の中にこの喜三之進がいた。そしてそれがために罪を問われ、獄に繋がれてしまった。同じく牢中にある半平太にもこの一件への嫌疑がかかっていた。結果的に半平太は切腹したものの、先に紹介したとおり毒饅頭を牢番の依田権吉に頼んだ喜三之進はどうにか拷問に耐え抜き、結審を永牢処分で迎える。そして幸いにも、それがこの九月で解かれた。しかし運命とは過酷なものである。暴れる狐の牙や爪で切り裂かれようとも無我夢中に、喜三之進は死の『おしくらまんじゅう』から逃れようとする。そんな必死の努力も水の泡に、蟻地獄に捕まった蟻のごとく口元までいざわれると脇腹からばりばりとかじられ削られてゆく。大百足はこれが二度目の食事であり、こまごまとした相手を食べるコツをつかんだようだ。カリカリと器用に歯を使う大百足に喜三之進は見る間に胴を失い、挙句に頭と足をいっしょくたんに、食道に押し込まれた。

 一方で九尾は黙っていない。我が眷属になにしようかと怒りをあらわに業火を吐く。大百足はそのずうたいこそ大きいもののその性は小虫である。絶えず天敵に注意を払い、暗い物陰に身を隠す。彼らの最も恐れたのは鳥、空から飛来するそれであった。そのために空からの攻撃には敏感である。業火に身をひるがえすとうわばみから強引に体を引っこ抜き、猛然と走り出す。それがなにを思ったのか、いや、走り出せる体勢となった時に偶然頭が向いていただけなのだろう、その先には本堂があった。

 新兵衛を始め乾らはぞっとした。

 幾百もある足を波立たせ、右に左に気ぜわしく触覚を地面にあてがいながら迫ってくるそれは感情の欠片もない。目の色を変えるというけれど、深く暗い硝子玉のような目は得物を捉えても輝きもしない。玉かんざしや印籠などの根付のようなものと思えば上等すぎる代物だが、大百足のそれはただの装飾品ではなく立派に機能している。暑いものに触れれば意識する余地なく手を引っ込めるように、一途に新兵衛らへ向かってくる。

 それがもう目の前まできていた。安吾とたえを抱きかかえた新兵衛はまさに横っ飛び寸前であった。ところがその触覚が鼻先をかすめ、軒から上をまさぐっていく。果たして大百足は本堂間際で急上昇、甍の上へ進む。生命維持に欠かせないのが食料の摂取なのだが、最優先は生命の存続である。まずは九尾から逃れたいのだろう。節々の筋が福引のカラポンを正面から見たごとく上がっていくのと、うようよとした足が空気をこねくり回すのに、その影の下で新兵衛はただ呆然と見守るばかりであった。

 やがて日の光に照らされるとあとはもう二本の尾脚がするするっと軒上に上がっていくばかりである。そして最後のさいごにその先端の鍵爪が軒瓦を引っ掻いて破壊するに至り、新兵衛らは本堂から飛び出す。

 甍を乗り超えた大百足とそれを追う狐の大群。矢のように走って行く狐の流れの中に立って、はたと見上げる。上空では九尾が大百足に業火を吐いていた。

 大百足はというと蛇行しつつツギハギの築地塀を乗り越える。老朽化して土に帰った部分を跨いでいるのはいいとして足をかけている部分がその巨体にかかわらず崩れない。狐の大群はというとその後を追っていくのだが、その数から築地塀のすきまを少しずつ削り崩し広げた挙句、両隣の間隙とつなげてしまう。

 それでさえぎりがとっぱらわれて、視界が通ったはずの新兵衛らだったが、もうすでに大百足の姿は消えていた。見えるのは森に雪崩込む狐らばかり。そして九尾。上空の一点から四方八方に業火を放射している。

 その火の槍と突きつけられて、逃げ惑う大百足はというと蛇行するだけが能ではない。乱立する幹をはしごに登るごとく伝っていく。それが空からは見えにくい。扁平の薄っぺらい側を天に向けて走っているのだ。

 そうはいっても九尾は大百足を見失うことはない。眷属がいた。吠え立てるその様子から敵がどこに向いて走っているのか察知する。狙いを定めておいて業火を吐く。ほとんど追い込み猟である。一瞬で木々は灰と化し、それから少し間を置いてその灰塵の上を狐の大群が走っていく。大百足は死んではいない。山を奥へ奥へと遁走していた。

 風に乗って降り注ぐ灰塵の中で、新兵衛らは立ちつくす。そしてただ一点、空に燃え盛る炎が一筋走るのを見ていた。また吐いた、また吐いたとだれもが内心言葉を発してはいたが、それを口に出す者はいない。

「いまのうちだ。小松君」

 乾の言葉に、新兵衛ははっとした。そうだ、いまのうちだと安吾とたえの手を引いて本堂に駆け込む。あとから乾や生き残った者らもぞろぞろと続いた。

 広がった札を前に、新兵衛、安吾、たえが駆け込んだかと思うとその後ろを十八人が囲む。これがかと、どよめきとともに声が上がった。

『九尾』の札のみが表を向いていた。

 新兵衛やたえや安吾を除き、初めは二十八人いた。が、しかし、残っている者らの顔触れを見れば、減った数への落胆以上に、やはりと新兵衛に思わせた。土佐各郡の指導者的立場にある者や土佐勤王党弾圧の折、牢に入れられても自白せず生き残ったつわものたちである。このような苦境になればきっと並はずれた結束力と底力を発揮するのだろう。果たしてだれもが最初、札を物珍しく見ていたのが、いまは見る目が違う。何としてでも終わらせるという覇気がそのまなざしからうかがい知れた。乾がこの者らに兵を持たせ徳川勢を撃破しようとしているのは納得できた。

 いまならやれる。が、そのまえに、と新兵衛は乾に目配せをした。

「わかってるよ。小松君」

 乾は池田陽三郎が雷に撃たれたことをみなに話して聞かせた。顔を見合わせたり、驚きの声を飲み込んだりと反応は様々だったが、なにしろ黒焦げの陽三郎が転がっているのだ。ピンと緊張感が張り詰める。

 その空気の中で、新兵衛は札の場に手を伸ばした。ごくりと固唾を飲む音が周りからいくつも聞こえる。

 見た目、どの札を捲っていいのか、正直分からなかった。背中から、みなの期待する視線をひしひしと感じる。それはそうだ。二枚合わせれば化物は消える。とはいっても新兵衛はくじを引くとか、『こいこい』とか、そんな類のものが苦手というか、勝負運を持っていないと思っている。そのわしに求められてもと内心言うのだが、開き直ることも出来ず気持ちを萎えさせる。勢いというか、気合というか、そういうものが新兵衛には足りない。いつも押し切られるだけ押し切られ、あとでしょげる。それでは勝負事なぞ勝てるわけがなく、少々乱暴でも相手のことを思わず我を通す気概がなければならない。だがそれが嫌いだった。性分なのだ。いつものように、ついつい相手のことを考えてしまう新兵衛は場の札よりみなの目の方が気になり始めた。

 だめだ、これではと思い直す。そんな性根ではいい札を引けるなんてこと、望み薄である。安吾とたえの力になるためにこの場にいたはず。場に集中しなければ、と札の上で手のひらを泳がしてみる。その様子に、なにをうじうじやっているのかと河原塚茂太郎がしびれを切らした。四番隊清平の配下だ。

「早う、やらんか!」

 新兵衛の手が止まる。そしてその口をぐっと結んでる表情から清平は、新兵衛が拗ねている、ととった。いい年こいてと思いつつ言う。

「そう急かすな、茂太郎。新兵衛がどういうやつかはお前も知っておろうが」

 茂太郎は姉が龍馬の兄に嫁いでいた。だから幼き頃から龍馬も知っていたし、新兵衛もそうだ。その龍馬はというとみるみるうちに男をあげ、土佐勤王党では年下で、しかも半平太の同年代の茂太郎よりも早い席次で名を連ねた。それだけでない。実際に土佐のため武器を仕入れてくるという大仕事をやってのけた。因みに言うと土佐では大政奉還や船中八策などの発案が龍馬によってなされたことは知られていない。

 ところが新兵衛はというとまったく振るわない。いつしかああいう奴もいたなと記憶の隅に留めるだけの過去の人となっていた。それがだ、むやみやたらに強い。妬みではない。だが腹が立つ。いつも遊んでやった、いや、肩を持ってやった龍馬が殺されたというのに一体こいつはなにをしていたのか。茂太郎が言った。

「だからだ。なんでこいつはわしらの前ではこうなんだ。きのうやおとついは違ったじゃないか」

「知るか!」と吐き捨てる清平。

「おじさんは強いのにいじめられっこなの?」 唐突に安吾が言った。それで空気が変わった。新兵衛はなんと答えるのであろう。みなが同じ気持ちで次に続く言葉を待った。さっきと違った緊張感が札の場を中心に広がる。

「強いかどうかはしらんが、そうみだいだ」

 目を伏したまま新兵衛がそう言った。それについてだれもなにも言わなかった。取り繕う気もないし、いまはそれどころではない。ただ、気付いていたんだと思った。弁解するとしたら、それはずっと昔のことだ。

「気にしなくていいよ。わしも一緒だから」

 そう言った安吾の顔を新兵衛は見た。親が地下浪人。光のない笑顔にさみしさを読み取れない新兵衛ではない。己の母や妻のゆきがその出だけにそのみじめさは十分過ぎるほど分かっていた。

「嫌な思いをさせて悪かった」

 地下浪人は武士からも仲間とは思われてないし、農民からもそうだ。それは安吾のせいではない。そのうえ安吾の家は土地がなく小作まがいのことをしていたので生活は最悪で、自尊心もずたずたであった。そんな家庭の事情はわからないにしても、新兵衛は安吾の気持ちが沈んでいくのに引け目を感じた。安吾がいる時は精一杯、土佐者らしく振舞おうと思う。ぐっと場を睨むとこれだという一枚に目を付け、かばっと捲る。


 円形に並べられた三十個の満ち欠けした月と『月読』


 反射的に、新兵衛は乾を見た。その乾はというと腕を組んでその札を見つめるばかりで目を合わせようとしない。だが察しているはずだ。月がおかしいと指摘したのはだれだったか。

 きっと乾はこの『遊び』の決まりを警戒しているのだろう。そもそも、決まりなんてものがなんなのか、そしてそれがいくつあるのか断然としない。はっきりしたのは『遊んでいる者』以外が札に触れると罰が与えられるということだ。この場合の罰は雷に撃たれるということなのだが、池田陽三郎を例に取ると新兵衛がもう一枚引いて順番が終わるところをその前に札に触れてしまって黒焦げになってしまった。

 それにもまして思うことがある。いったいだれがなんのためにこんなものを作ったのか。いや、だれとかではなく神の御業としか思えない。七福神やらあんなのが宝船かなにかに乗って雲の波をかき分けて走っている最中、いい天気だのう、あれでもやって遊ぶかと取り出してくるそれが目の前にある札なのではないか。毘沙門天なぞはズルして雷に撃たれたとて『しっぺ』ほどのこともないだろう。いや、それじゃあ言い方が逆だ。雷ぐらい威力がないことには『バツ』にも何にもならない。きっと雷に撃たれているのを見て、他の神様は膝をたたいて笑っていたのであろう。そして当の本人は頭を掻いて、あははと照れ笑いをしていたのではあるまいか。

 だいたいそれは天にかかる月の様相も変えてしまう代物なのだ。神が遊んでいたと聞いて笑うなら笑えばいい。そんなやつがいたならば月を指でさしてこう問うてやる。どこのだれが月の満ち欠けを奪ったのかと。まさか本当にどこそこのだれだれとは間違っても言うまい。きっとご大層になにかの神の名を適当にあげて、最もらしいご説をご披露しなさるだろう。

 乾が言った。

「『刀鬼』らは引いてから発現した。理屈を言えばこの札は返されるまえから力を発現させている。どういう力かはその絵から想像しなければならないが、いまはおいておくとしよう。つまり、『月読』を最後に引いた者がこの『遊び』でいう勝者ということだ」

 罰を警戒したのではなく、黙っていたのは乾がそんなことを考えていたのかと感心する。そして新兵衛は、はっとした。そんなことを言ってもいいものか。確かに札の数がなぜ奇数なのかもそれで筋が通る。だがそれはネタバラシで『遊び』の決まり違反とはならないのか。息を飲んで乾を見る。

「心配ないよ。どうしたら勝ちか、その決まりを言ったまでだ。決まりは通常、周知される。そうだろ?」

「ということは化物が出ないってことだな」と弥太郎。

「ずっと新月だったのに気づかなかったか? それがこの札の効力なのさ」

「新月? なんのために」

 さぁと小首をかしげる乾。見様によっては仕草がここにいる全員を馬鹿にしているとも取れる。この年の二月、大石弥太郎は上士小姓組となり軍備役に抜擢されていた。破格といっていい人事であるがこの二人、その人物たらん黎明期は同じ頃、同じ江戸にあった。乾は江戸留守居役兼軍備御用であり、弥太郎は洋学修行の藩命を受け勝海舟に航海術を学んでいる。この時に土佐勤王党が結成されたのだが、乾はというとその翌年に龍馬の支援者となる佐々木高行、そしてこの場にいる唯八と勤王に尽忠することを誓い合っている。大監察に抜擢されたのはこの年の六月だから、どれも少し弥太郎のが先んじている。そのうえ弥太郎は歳も七つ八つ年長だから乾に対して先輩風をふかすようなところがあった。

 それが乾には滑稽に思えた。元々、身分制度を歯牙にもかけない風の乾だったが、それから抜け出そうとしていた方のが上か下かをはっきりさせたいのである。役目の上下は大事だ。それが人自体の上下とは直接関係ない。むろん役目が高く人格者ならそれに越したことはない。どうも乾にはそんな弥太郎を軽く見るきらいが見え隠れする。

 一方で、普通に考えたなら下士とっては乾とはくみし易いはずだった。おとつい、『刀鬼』が久万村で暴れていた時、たまたま弥太郎は小高坂に出向いていた。村の顔である田岡祐吾と談合するためであったが、こんなことをしょっちゅうやっている。軍備役という肩書きであちこち勝手に動き回っているのだ。それから言っても弥太郎には乾を首領だと認める思いがないのは明らかだった。

 このようだから二人はいつもぎくしゃくする。樋口がいたなら間に立とうものだが、異彩を放つ二人である。なかなかそれが出来る者がいない。

「乾さん、いい加減な推測でみなを油断させてはいけない。いまこの間にもわしらは化物に狙われているかもしれないんだ。なんかあったらどうする。あんたは司令失格だ」

「大石! 口を慎め!」 すぐさま唯八が言った。目を血走らせて睨むと当の本人、弥太郎はふーんとした顔でどこ吹く風である。と見せかけて、太刀に手をかけた。

 途端、みなが一斉に太刀を抜いた。といっても乾は腕を組んだまま微動だにしていない。その乾を守るように太刀を構える者と、弥太郎と一緒になってやってやろうじゃないかとする者が札の場を挟んで対峙する。

 乾側には、元大監察の唯八とその弟謙吉、この戦いで逝ってしまった樋口が首領だと思っている幾之介と清平、乾の信奉者の豪次郎、のたうち回るうわばみに親類二人を圧死させらた寿太郎、それと小笠原保馬、森田金三郎、上田楠次。

 弥太郎側には、河野万寿弥、森助太郎、そして坂本家と親戚関係にある茂太郎。

 その一方で、太刀を抜いたがどちらにもつかない者らもいた。三番隊隊長の池知退蔵、幾之介らと乾の家に駆け込んだ阿部多司馬、そして小畑孫次郎と安岡覚之助だ。

「退蔵! 退蔵!」

 乾から一時も目を離さず弥太郎は、こっちにつけと退蔵らに催促している。仮にそうなれば数の上ではほぼ対等になる。

 退蔵の動きいかんでは殺し合いに発展すると新兵衛は固唾を呑んだ。そもそも一事が万事、このような調子なのだ。だれが偉いのか分からない。みんながみんな、偉いのだ。土佐では身分制度が細かく取り決めてあるが、腹を切ることより己を通す方を選ぶのだから結局、手のつけようがない。龍馬がよく、「腹を切ったら痛いぜよ」と諌めて言ったそうだが新兵衛もそう思う。連中は痛くないのだろうか、痛くないわけがない。だったら、もし自分が龍馬のようにそう言ったとして、喧嘩を止めようとしたらどうなるだろうか。馬鹿にされるし、かえって連中に油を注ぐことになりかねない。龍馬だからそれが似合うだろうし、みなも納得出来た。

 一方で、たえがしくしく泣き始めた。両手で顔を覆っているその頭上で、幾つもの白刃がいきり立っている。それが耐え難いに違いない。そんなことをしている場合ではないのだ。といっても新兵衛には連中を止められない。乾はというと司令という立場でありながらことの成り行きを楽しんでいるようである。止める気配もないし、第三者的にみなを見回している。そしてそれは乾を守ろうとしている者さえもである。

 その姿に新兵衛は唖然とした。乾はこの者たちを使って倒幕しようとしていたのではないか。そして、いざとなろうがなるまいが結局はいがみ合うんだと、一瞬でもみなを頼りに思った己を馬鹿だと思った。

「退蔵! 退蔵!」

 また弥太郎が急かす。「だまれ!」と中立の退蔵がついに切れた。「あんた、なにをやっているのか分かっているんだろうな。それによっては許さん」

 下士全体の代表が寄って乾を首領にと決めた。退蔵はそれを言っていた。

「腹を切ったらぁ!」 やはりそれが弥太郎の答えだった。「わしが切らせると思ってか!」 即座に言葉を切り返し、退蔵は乾の側に立った。切腹なんて生ぬるい、わしがぶった斬ってやろうというのだ。

「多司馬! 孫次郎! 安岡!」

 いまだ中立のままの三人に弥太郎が声を掛ける。それで今度切れたのが安岡だ。「われはそれで済むわな。でもな、孫次郎さんを見てみろ!」

 孫次郎は困っているのを隠せない。牢に入れられ、出てきたのはこの九月だ。家を空けていたその間、家族は島村家にも借財をし、川原塚家にもした。乾側にも恩義があるし、弥太郎側にもそういうことになる。安岡が続けた。

「それとなぁ、助太郎さん。あんたは慎太郎とどんな約束をした! 慎太郎が浮かばれんぞ」

 助太郎は討幕のための陸援隊を組織した中岡慎太郎と京で会っていた。その時、寿太郎や退蔵、楠次もその場にいた。乾と気脈を通じて土佐を武力倒幕に導こうとみな、申し合わせたはずだった。

 まだ、安岡は収まらない。

「万寿弥。こんなところで仲間割れしててもいいのか? 龍馬が泣くぞ」

 万寿弥は弥太郎に可愛がられた。土佐勤王党を立ち上げようと半平太を誘ったのはこの二人だった。だがそういうのを抜きに万寿弥は龍馬とは仲が良かった。脱藩する折り、土佐郡の外れまで見送っている。さらに安岡が言う。

「茂太郎さん、死ぬなら国事に奔走してじゃないのか。じゃないと龍馬が浮かばれんぞ、違うか。あんたもじゃ、弥太郎さん。こんなことして武市先生がなんというか。あんたが始めた勤王党なんだろ。最後まで責任を取ってくれ」

 弥太郎は乾を見た。普通に考えたらお互いやれない喧嘩なのだ。不可抗力で斬ってしまったとか、出会い頭にやってしまったのならまだしも、こうも間をおいてしまってはどうしようもない。乾はそのことをハナから理解している。太刀を抜かず、沈静化するのを待っている風であった。小賢しいが、相手の方が一枚上手と認めざるを得ない。あとはどうやって太刀を収めるかだが、見当もつかない。

 その気持ちを汲むように、安岡が言った。「乾さんも乾さんだ」 

 突然振られて驚いたのだろう、乾はキョトンとしている。そこに安岡が続ける。

「あんた、そんな嫌味なやつじゃなかったろ」

 土佐には上級士族の子弟が地域でつくる団体があちこちにある。それを総称して盛組といい、藩校帰りにそれぞれがおのおの組に集まり、武術の稽古、書籍の会読、流行り遊びをする。城下には至るところに土俵がつくられていて、そこが各組の溜まり場となるのだが、時には組どうしの対立、柔弱者や掟破りへの制裁などの場となった。組長はというと身分や年齢、見識、人格と関係なくただ単純に腕力で決まる。ガキ大将そのもので、御多分に漏れず乾は十五六人仕切っていた。

 その乾のやることというのが滅茶苦茶で、一つ例を挙げれば敵の相撲場を破壊して平地にしてしまう。で、とどのつまり、『不作法の挙動』という罪状で藩庁から城下への出入り禁止処分が下された。

「誤解しているね。君たちの知っている僕はやるときは徹底してやる、そう、土佐の鏡みたい思ってるだろう? 間違っちゃいないけど、普段はこんなもんさ。だから喧嘩を吹っ掛けられる。初めは相手にしないよ。そりゃそうだ。僕の言いようが悪いから。だけどね、一線を越えられたらいたしかたない。上も下も関係ない。そんときは完膚なきまで潰す。ただそれだけだ」

 みな、ぞっとした。乾は嘘を言っていないとだれもが思った。この男が土佐勤王党弾圧に消極的だったことをいまになってほっと胸をなで下ろす。その乾が続ける。

「なぁに、大石君は僕の友だし、その大石君が他の友を傷つけたわけでもなし、それにそんな事をやろうとする男ではない。始めっから、僕は戦う気はないよ」

 太刀を抜かず、腕を組んだままだった訳が分かる。が、しかし、この男を怒らせればどうなるのだろうと思う。やられた友の報復に盛組一つ崩壊させた。土佐に危害を加える藩があるならばそれ式に攻め取るだろう。日ノ本に襲いかかろうとするならばさもありなん。尊王攘夷。乾の思考は意外と単純なのかもしれない。

 弥太郎はというと、いままさに肩透かしを食らった。宙に浮いた感さえした。一体、自分はなんなのか。土佐最高の国学者鹿持雅澄に学び、土佐勤王党の盟約文を起草したという自負が音を立てて崩れていく。怒りが沸々を湧いてきた。独りよがりで騒いだ己の方がどう見たってあほうに見える。勤王とはどういうことか、尊皇とはどういう意味か、説いて回ったこの大石弥太郎がいま全否定されたような気がした。許せない。

 それを察してか、二人の間に安岡が割って入った。

「弥太郎さんの怒りは尤もだ。されど色んなことを差っ引いて、わしらは乾さんらの運動で獄から出ることができた、地獄から救ってくれた恩人の一人なんじゃ」

 そう言って大石側を見た。

「そうだろ、万寿弥」

 乾側を見た。

「なぁ、金三郎」

 傍らに目をやる。

「孫次郎さんも」

 己を含めて、奇跡的に拷問苦から生還した者たちである。「大石さん、ここは我らに免じて太刀を収めてもらえぬか」 

『東郡の安岡覚之助、西郡の樋口真吉』 これは弥太郎の人物評である。己が認めた安岡にこうまで言わせてしまったのだ。

「すまぬ」と潔く、弥太郎は自分の非を認めた。その太刀が鞘に収まると物騒に光る幾つもの白刃も一斉にチンッと音を立てて本堂から姿を消した。

 このことで、みなはよくよく理解した。乾は攘夷なのだ。そして弥太郎は勤王。どちらも、徳川・親徳川派という高い壁を前にふん詰っていた。打ち壊さなければいずれ圧死してしまう。少なくとも弥太郎はそう思っていた。やはりここは折れるしかない。とりあえずは、乾に付いて行こう。

 新兵衛は、ほっとしていた。これで喧嘩は収まったとして、たえだ。次の一枚を引いてもらわなければならないのにまだしくしく泣いている。なんとか泣き止んでもらえないだろうか。場を見れば、いつの間にか『九尾』も『月読』も裏返って雲の方が上を向いていた。こっちの混乱なんて関係ないのだろう。『遊び』はちゃんと進行していた。

 驚くべきことに安吾は札の勝手を許さず、ずっとその場から目を離していない。ややもすれば見失ってしまうところだ。それを大人の争いの最中にも動じず、己のやることをしっかりやっている。大したものだと新兵衛は感嘆した。安吾まで回せばなんとかなる。

「さぁ、たえ」

 新兵衛は願うように言った。

 だが、たえは言うことをきかない。ずっとその場で泣いている。見かねた唯八が口を挟んだ。

「むすめ、おまえの番だろうが。早くやれ!」

 開いた口がふさがらない。この男にむずかる子供に聞き分けさせるなんて無理な話だと新兵衛は思った。それにいまのたえの精神状態からまともに札を選べるとは言い難い。安吾の話から言って、『うわばみ』と『大百足』の場所をたえは知らない。だが『牛鬼』と新兵衛が引いた二枚の場所は分かっているはず。この状況で効率よく進めるためには、発現している化物を消していくというより、己が知っている札には絶対に手を出さないという心持で進めていく方がいい。急がば回れとはよくいったものだが、それさえもままならないのは唯八らの諍いが元なのだ。少しぐらい黙っている誠実さがあっていいのではないだろうか。

 そんな気持ちなぞ唯八には全く分からない。たえにはちゃんと札を引いてもらいたいし、そうしなければならないと思っている。それをなぜやろうとしないのか。喧嘩か? もう終わったじゃないか。

「何を泣くことがある。おまえが始めたんだろ。しっかりせい!」

 唐突に、拳銃の銃口がその唯八に向けられた。構えている安吾の目が血走っている。そして重ねられた両の親指が、ガッチッと力強く撃鉄を引く。ギョッとした唯八は咄嗟に鯉口を切った。

「このくそガキがー!」 「タダハチ!」 乾の大音声である。硬直しないものはだれもいない。たえも泣き止んでしまった。それにしてもなんと膨大な闘志をそのうちに秘めているのであろうか。大砲が火を噴いたのと遜色ない。一癖も二癖もある猛者らが息を飲んだ。

 そうなのだ。子供の頃の乾はその有り余る活力を持て余していた。そしてだれもがそれを恐れ、いや、忌み嫌った。だが母のこうはその乾を愛し、そしてその力の使い道を示したという。「喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ。喧嘩となれば負けて帰ってはならぬ。また卑怯な挙動をして先祖の家名を汚してはならぬ」

 知らず知らず唯八はそんな乾の逆鱗に触れてしまったのだ。といってもその習性を知らない唯八ではない。しまったと後悔するが、そこは長年の付き合い。素直に、「すまぬ」と謝る。四の五の言うとかえって手のつけようがなくなる。乾はというとさっきの怒りはどこへ行ったのやら、機嫌はカラッと晴れる。

「唯八、そうカッカするな。この子たちだってこんなことになるとは思っていなかったのだよ。ただ運がわるかっただけだ。仮におまえが桐の箱を拾ったらだれの持ち物か調べるために開けてみるだろ。札が散らばったら拾うだろ。それを責めることはだれも出来まい」

 うまいこと言ってくれたと新兵衛は思う。これでこの子供達の名誉は守られたに違いない。言われた唯八はというと、「そうだな」と言いつつ、カッカするな? おまえに言われたくないわといつものごとく内心罵って、その憂さを晴らす。

 と、そこへ異変がおこる。グラッと本堂が揺れたかと思うとみしみし音を立てながら四隅の柱が倒れ、それと連動して四方の壁が内側に向けて膨らみ、挙句、弾けるように割れた。

 みな息を呑んだ。壁の隙間から白地に網目模様が一方に向けて滑らかに動いている。うわばみが本堂に巻きついているのだ。

 それでも埃や木片がばらばら落ちてくるまではまだよかった。梁の一本がぎぎぎと金切り声を上げたと思うと一方のつなぎ目を外して、はすに落ちてくる。槌を振り落とすがごとく勢い良く床を叩く。大きな音とともに木片を飛び散らせたかと思うと雪崩をうったかのように次々とそれが降り注ぐ。

 狭い本堂の中でみなは右往左往とそれを避け避けしてその場を凌ぐ。そんな中、新兵衛はというとはすになった梁の下でたえや安吾を懐に入れ、頭上に辛うじて掛かっているその一方の端が外れないことを祈っていた。

 それが天に通じたわけでもないのだが、斜めになった梁はその姿勢を崩さずにいてくれた。なんの気まぐれか、動きを止めたうわばみに、本堂の破壊はまのがれたというわけだ。

 だがそれも一時であろう。本堂は自力で立つ力を失っているように思えた。梁が四隅の柱のつっかえ棒となっているものの実質、巻き付くうわばみに支えの一部を肩代わりしてもらっているようなものだった。

 まず、乾は札の状態を確認した。はすに落ちてきた梁がちょうど筋交いとなっている下で札は悠然と場を広げていた。

 次に新兵衛らが気になったが、無事でいたのにほっとする。斜めになった梁の下から這い出してきていた。

 それで本堂から抜け出せる隙間を探して一周ぐるりと見回す。運のいいことに、割れて互い違いになった壁の間に人ひとりずつだが通れそうな場所を見つけた。巻き付いているうわばみのごつごつした鱗もかがんで通れば問題ない高さにある。行けるなと思うと別のところに注意が向いた。外から焦げ臭い匂いが鼻をついてきたのだ。はてと思い、もしやと嫌な想像が頭をよぎった。ともかくもと、内心言い、新兵衛を呼ぶ。

「僕らはこの白いやつをなんとかする。あとは頼んだよ」

 うわばみが本堂を捻じ上げているのは、たまらず出てきた乾らを獲物としようとしているのだろう。それでも中に閉じこもっていたならば、追い出すのにうわばみはまた本堂をギリギリ締め上げてくるに違いない。本堂もろとも粉みじんに粉砕されるのは、札のこともあって、なんとしても避けたいところだが、ひとっところから出るのもうまくない。うわばみの口に餌を放り込んでやるのとおんなじで、注意をそらすためにも最低三方向から出たいものだ。

「これより二番隊は一番隊に加われ。よって二番隊は欠番とする」

 一番隊は弥太郎と助太郎を残すのみで、二番隊は幾之介、寿太郎、そして小笠原保馬の三人となっていた。

「一番隊と三番隊の各二隊それぞれ床板をはがして床下から外へ、それぞれ別々の方向から出てくれ。四と五の隊は僕についてくるように」

 乾は壁の隙間を通った。濡れ縁はねじ上げられた本堂に取り残されたようにほぼ原型を保っている。ただし、欄干はうわばみが本堂に巻き付いた時にすべて取り除かれてしまっていた。

 乾は頭をががめ、外へ出ると壁に張り付いた。頭の上はもううわばみの胴である。触れんがばかりところだったが、うわばみは気づいていないようである。壁に沿ってズイっと張り付くうわばみの胴が乾らの軒となり、うまい具合に死角となっている。

 それはいいとして、目の前の光景に唖然とする。焦げ臭いのは本堂でも感じていた。果たして山には所々、火の柱が上がっていた。その様相は凄まじく、ねじりつつ立ち上り、落ちたかと思うと尖った先を天に向けまた立ち上る。九尾が撒き散らした灰塵が火種となって冬の山を火の海にしたに違いない。

 乾に続き、唯八、清平、茂太郎、謙吉、金三郎、楠次、そして最後に豪次郎がうわばみの軒下に入ってきた。そのそれぞれが山のありさまを、一様に驚いている。

 皆が固唾を飲んでその光景を見守る中で、乾と豪次郎は目配せとうなずきを交換した。本堂の一番隊と三番隊が床下に潜り込んだかどうかを乾が確認し、準備が整ったと豪次郎が答えたのだ。

 乾の合図でみなが一斉に濡れ縁から躍り出た。そして境内を走り、本堂と距離をとってうわばみを望む。

 夕焼けに燃え盛る山々。陽光を弱らせた日が低い位置でゆらゆら揺らめいていて、その横でゴマ粒大の九尾が依然として業火を吐いていた。その位置関係から九尾は大百足を追って隣国伊予へ向かっているように思える。

 だれもがまずいと考えた。一藩だけの問題ではもうなく、四国全土、あるいはこの国全体の問題になりつつあると感じた。ただし乾はというと新月が連日続くこともあって、こういうことを疾うの昔に察していたし、それがために少しでも早く終わらせたいという思いはあった。

 だが、いまは目前のうわばみである。なにか様子がおかしい。一番隊の弥太郎らと三番隊の退蔵らが床下を別々のところから出てきていたのだが、見向きもしない。そしてそれを言うなら一番先に姿を現した乾らに対しても同じだ。

 当のうわばみはというと本堂を一回半体を巻きつけて甍の頂点から頭をもたげていた。だがその鼻先は乾らに向かず、足元に向けられている。どうもまだ本堂の中をうかがっているようである。

 そうか! と乾は思った。『刀鬼』は強盗に暴力。『牛鬼』は人食。飢え、そしてそれによる飢餓。『大百足』は暴食、見境のない食欲。『九尾』は炎。怒り、あるいは激しい感情。それぞれがその特性で動いているわけだが、『うわばみ』はというとどういう特性なのか。だれもが知るところである。酒と処女。つまりは不道徳、あるいは堕落。大百足を丸のみしたから勘違いしていた。暴食は『大百足』と重なるのだ。狙いはたえ。間違いない。

 思い返せば本堂に入るためうわばみの鼻先を通った時、その見る目が他とたえとでは違っていた。結果的に、これでは新兵衛らを餌にして逃げてしまったことになる。乾は慌てた。

「発砲準備!」

 乾の怒号にみな、銃を構えた。「撃て!」

 一斉に発砲した。ところがうわばみの硬い鱗には傷ひとつつかない。

「目だ! 目を狙え!」

 血相をかいて乾は本堂に向けて走った。あまり近づくとうわばみのあご下から仰ぎ見てしまい目を狙えない。ここが目一杯というところで足を止め、後続を待つ。

 みなが位置に揃うと待っていられないのか構える前に「撃て!」と命じる。

 果たしてどの弾もうわばみの目には当たらない。乾はきりきりとした。「撃て!」

 そんな乾をよそに悠然とうわばみは構えていた。どうやら瓦をぶち破ってたえをぱくりとやりたいようだ。ゆらゆらと頭を揺らし、依然として中の様子を探っている。

 そうとは知らず、倒れて筋交いとなった梁の下で新兵衛らは札を囲んでいた。順番が回ってきたたえの手はその膝の上で小刻みに震えている。

 新兵衛も安吾も見るに耐えなかった。青い顔に、凹んだ目が鈍い光を宿す。唇は紫色のうえカサカサに荒れていて、十五六の少女とは思えない。疲れきって生気を失い、年老いた女が折檻を受けている風であった。そのたえが震える手を札の場にかざす。

 どの札も同じように、たえには見えた。確かに『刀鬼』と『牛鬼』はたえが引いた。その内、『刀鬼』は安吾が引き当てたからいいとして、『牛鬼』の場所がいまひとつはっきりしない。新兵衛が引いた『九尾』と『月読』はなんとか辛うじて分かる。それはそうだ。そういうものだと聞かされた後に見た札なのだ。だが『牛鬼』は軽い気持ちで引いた。いや、引いたのではない。拾ってみただけなのだ。

 十一月の頭だったか、安吾が屋敷の庭に立っていた。あげたいものがあると言うので嬉しかったのを覚えている。たえはこの春、城下の郷士に嫁ぐことになっていて、直感的に安吾がお祝いを持ってきたと思ったのだ。

 そんなに高価な物は考えていなかった。安吾の事情を知り尽くしたたえはその気持ちだけで十分だった。一方でお祝いには早すぎるかもと己の気持ちがはやっているのに可笑しくもあった。

 とにかく春が楽しみだった。城下で新しい生活が始まるのだ。相手も申し分なく、よくこの様な人を探してきていただいたと親に感謝したものだ。

 婚礼の準備も有難かった。たえに恥をかかせてはいけないと色々心をくだいてくれた。毎日があれやこれや忙しく、兄や義姉も含めて家族もてんやわんやで自分ごとながらその家族をからかったりみたりして、そのたえに呆れた感じで、はい、はいと答える母なぞ、愛情を感じずにはいられなかった。

 家族といえば、末っ子のたえは安吾を弟のように思っていた。小さい頃からお姉さんづらしてあっちこっちと引き回していた。たえは十分満足していたが心の隅には、安吾は嫌々付き合っているのではないかという不安が絶えずつきまとっていた。

 わたしがいなくなってほっとするんじゃなかろうか。

 その安吾から贈り物である。あげたいもの? お祝いだったら嬉しいわ。それともただの冗談? 手を出してその上に乗せられたものがカエルだったらどうしよう。ってカエルはないわ。冬だもの。だったらなにかしら?

 その不安をよそに安吾の差し出した物は予想を反して大変な代物だった。

 収納している桐の箱がいかにもという感じで、中に高価な物が入っていることをうかがい知れる。蓋の中央で結ばれている紐も見たことのない組紐であった。染められた絹糸が多彩に絡まり、端のフサはというと金糸でしつらってあって、それが花に止まった蝶のように結ばれている。なんともあでやかであったか。

 それで、盗んできたものではないかと思った。安吾に問いただすと川で拾ったという。それにしてもこのような高価な物、落とし主が探さないわけがない。たえは、もらえないと安吾に言った。そして重々言い含め、それを預かると庄屋職の父に手渡した。

 ところがである。六日の昼のことだった。その父にちょっとしたことで叱られたのを腹立たしく思い、たえは逆らった。そして運悪く、あの桐の箱に目が止まってしまった。なぜそうなったのだろうか。いま思うと口惜しい。たえの父はうるさいと言っただけなのだ。それなのに出来心を起こして箪笥の上にある桐の箱を手にとってしまった。

 屋敷を出て、無我夢中に走っていると野良で休む安吾とその父親を見かけた。早速声を掛け、安吾と一緒に廃寺に向かった。あとは安吾が話したとおりである。いや、安吾は嘘をついていた。だがあれはたえを想ってのこと。本当は乾の言うとおり、たえが桐の箱を開け、札を二枚捲った。

 その二枚のために多くの人が死んだ。いや、たえのわがままのためにと言った方がいいのか。少なくともたえはそう思っている。持ってきた桐の箱を安吾が見た時、庄屋職に返したほうがいいとたえに言った。逆に諭される形となったのがまた、しゃくにさわった。安吾のくせにと内心、口汚く罵ってしまった。あれだけいたわってくれた安吾を。牛鬼に村人が殺された時も、境内至るところ死体が転がっている中で父を探す時も、屋敷で隠れていた時も、そして罪をかぶろうと大監察の乾に嘘を言ったのも。

 そもそも弟のように想っているなんてことを安吾に言うこと自体、卑怯ではなかろうか。世間体をつくろう。ただ単になんでも言うことを聞く安吾を使いっぱしりにしていただけではないのか。わがままなお嬢様と言われるのをことのほか気にしていた。

 乾らが二手に分かれて殺し合いを演じようとしていた時も、怖かったから泣いたのではない。自分のせいで、自分のせいでと繰り返し思っているうちにこみ上げてきて、涙が止まらなくなったというのがその実だった。泣いている、そんな時でないことは分かっていた。それなのに涙が止まらなかった。そしていま、この惨事を終わらしたい一心で札に向かうたえは、それでもまた涙がこみ上げてきた。

 結局わがままなお嬢様なのだと思う。札に触れることが出来ない。それどころかなにがなんだか分からなくなってしまっていた。どれなの、どれなの、だれか教えてと思うと涙が頬をつたう。だれも教えてくれないのだ。

 唐突に轟音に襲われた。反射的に振り返るたえ。それが硬直する。天井から大量の瓦と白いものが落ちてきたと思うと床直前で滑空する。その姿は滝を思わせ、川のごとくに蛇行して向かってきている。

 それに安吾が立ちはだかった。双方の間に入ると天井から流れ出るように来る白いものをぎりぎりまで引きつけ、拳銃を打っ放す。その腕は確かであり、そして勘が良かった。安吾は火縄銃を扱ったことが何度もある。父に教わっていた。小作をする傍ら、山へ入り猟をしていたのだ。

 安吾の銃弾は見事、うわばみの片目を破壊した。時間を巻き戻すようにうわばみは天井の上へと姿を消す。それを新兵衛は唖然と見送った。乾らが外で牽制を掛けていたはずである。それがなぜ?

「おねいちゃん! 早く!」と安吾。

 はっとしたたえは無我夢中に札を捲った。


 雲に乗る公家風な男と『雷神』


 いきなり本堂の中は真っ暗闇となった。太陽を雲がおおったのだろう。それこそうわばみが天井を突き破って空を開けっぴろげにした後だから、それに目が慣れていた新兵衛らは視界を全く失った。

 そこへ閃光が襲う。そして天空で、巨大ななにかが崩れているかと思わせる轟音。目に飛び込んでくる強烈な刺激の中で、咄嗟に新兵衛はたえに覆いかぶさり懐に隠した。

 雷である。

 条件反射で、陽三郎が黒焦げになったのが脳裏に浮かぶ。それがなんで襲ってきた?

 また稲光、そして雷鳴が轟く。そこで新兵衛ははっとした。 

 よくよく考えれば、光と音は同時ではなく相当時間差がある。少なくとも稲妻は直接たえを狙ってはこないようだった。ほっとしたのも束の間、桶をひっくり返したような豪雨である。うわばみが天井を穿った大きな穴のところが例えでもなんでもなく滝である。

 その一方で、瞬く間に山は鎮火した。安心はしたが、うわばみへの攻撃の手立てを乾らは失ってしまった。あまりにも強烈な雨で目をまっとうに開けられないのだ。そのうえ、体の穴という穴、それこそ露出している部分の毛穴まで水が飛び込んできて痛いし、呼吸さえも困難となる。銃なぞ撃てる状況ではない。

 襲いくる雨粒の痛みに身をよじり、うわばみを唖然と見上げているとその向こうで稲妻が走るのを見えた。バリバリッと空に亀裂が入るがごとくその先端が先へ先へ進んだかと思うと宙を行く九尾に当たった。

 爆発音と共に九尾が灰色の煙を上げ、強烈な雨足の中を向こうへ向こうへ落下していく。

 固唾を呑んだ。

 うわばみはというとまるで恵の雨だと言っているかように鼻先を天に向けて舌をちょろちょろと出し入れしている。つい先程まで山を覆う炎に囲まれていたのだ。のぼせ上がった体を冷やすにはちょうどいい加減だとでも言いたいのであろう。

 それが一転、いきなり本堂に頭を突っ込んだ。一直線にたえへと向かう。一方で、そうはさせじと待ち構えていたのは新兵衛である。今度は不覚を取らない。空いた天井からうわばみの頭が出るなり飛びつきがてらその目に白刃を突き立てた。

 目をつぶされてもうわばみは、二度目はさほど驚かない。刺さった太刀とそれにしがみつく新兵衛ごと、勢いを殺さず進む。それをなんとか阻止しようと新兵衛は踏ん張るのだが、濡れた床で滑るにしろ、もともとが人ひとりの力ではどうなるものではない。『く』の字の姿勢で床を滑走していく。

 名ばかりの屋根の下で、ずぶ濡れとなった安吾は迫り来るうわばみにたじろがない。髪から垂れる雫も気にかける様子もなく銃口の突起に目線を合わせるとうわばみが大口を開けたそこへ銃弾を叩き込む。

 鱗で守られてない上あごの裏から、打ち抜かれたうわばみが驚かないわけがない。跳ねるように頭を上げたかと思うと梁から垂木、母屋、棟木と突き破り、屋根瓦を木材ごと天高く飛ばして定位置、鎌首をもたげていたそこに、戻った。

 新兵衛はというとうわばみが戻ろうとするや否や、両の足をうわばみにあてがい体重をかけた。ずぼっと太刀が抜けたか思うと、あとはもう床を打つ強烈な痛みである。喘ぎながら見上げるとうわばみの頭は高々と空に浮いていた。また安吾に助けられてしまった。牛鬼の時もそうだったがたえを守ろうとする安吾の気概は一通りではない。執念さえ感じられる。瓦礫の中から立ち上がった新兵衛はなにが安吾をそうさせているかを知りたくなった。雨に逆らうように薄目で空を見上げる安吾はまだ油断の欠片も見せてはいない。

 それが本能的にうわばみにも分かるのだろう。今度は不用意に飛び込んではいかない。残った片目で、じぃーと安吾を凝視している。

 そこへ稲光と雷鳴、そして頭をぶん殴られたような衝撃が新兵衛、安吾、たえを襲う。瞬時に三人がさんにんとも意識を飛ばして崩れ落ちた。

 落雷。

 うわばみは黒焦げにくすぶって、棒が倒れるように本堂へのし掛かり、挙句、甍を左右真っ二つに分けたかと思うと、ぬかるんだ地面に水しぶきを上げて下顎を打ち付けた。

 そんなうわばみの派手な死に方もさることながら、乾らは空を飛ぶものに瞠目していた。ずっと上空で公家風の男が小さな雲を乗り物にし、あぐらをかいている。

 それが軍配を振るように笏を使っていた。その動作はどう見ても稲妻に指示を与えている様である。だれもが新たな札が引かれたことを察した。だがそれはなんなのか分からない。この猛烈な雨と稲妻を操ることと狩衣衣装で高烏帽子から、死して雷神になったという菅原道真を連想した。それが乾らの頭上を通り過ぎたかと思うと豪雨を残し、城下の方角へ飛んでいってしまった。

 唖然と見送った乾らは事の重大さに慌てた。あの化物が城下で大暴れするのである。『牛鬼』と『九尾』、そして『うわばみ』はいまのところ動けない。健在なはずの『大百足』はあまりにも遠くでここに現れることはまずないだろう。

 好機といえばそうだ。菅原道真が城下に到達するまでの間で勝負を決する。乾らは黒焦げのうわばみが覆いかぶさる本堂へ走った。

 ところがだ。いきなりの地響きである。みな、足を止めると聞き耳を立てる。そこへ強い雨足に紛れてだれかの声である。

「山崩れ! 土石流?」

 果たして木々を巻き込むように山の斜面がズルズル動いている。固唾を呑まない者はいなかった。明らかにこの廃寺に向かって木々は移動していた。

 一目散に一番隊も三番隊も四番隊も、いや、蜘蛛の子を散らすように水を跳ね上げ、滝のような雨の中に消えていく。乾はというと脇目をふらず本堂へ走った。唯八と豪次郎、そして謙吉がそれに続く。同じ五番隊の金三郎と楠次はというと、もういない。

 四人は間一髪、濁流が押し寄せる寸前に、本堂に張り付いた。途端、ドン! と衝撃を受けたかと思うと次の瞬間、本堂全体がグラっと動いた。たぶん、流されてきた岩が本堂に当たったのだろう。だが運の良いことに巻き付いているうわばみが衝撃を緩和してくれた。岩ほどの衝撃でないと本堂は動かないし、もしそれが直接当たったらぼろぼろの本堂なぞ間違いなく粉砕されていた。

 それをまのがれたはいいとして、その衝撃で新兵衛ら三人は目が覚めた。うつろな視線を宙に漂わすと目の前にうわばみが横たわり、しかも黒焦げだという状況に息を呑んだ、のも束の間。

 本堂が動いている!

 驚く三人をよそに本堂は流れに揉まれながら進む。巻き付いたうわばみが浮力となって沈みはしないが、当然止まりはしない。不安定に揺れる床に危なっかしくへばりついていたのをみな、はすに立つ柱か梁かにしがみつき直す。

 まさに濁流の中に孤立無援である。恐ろしいことに、茶色い水の中から木々が天を突くようにせり上がって見せたかと思うと別のところでは、どういう具合か振りかぶって振り下ろすような動きを見せたりする。かと思えば流れの中からガツンガツンと岩がぶつかる恐ろしい音が絶え間なく聞こえてくる。

 だれもが助かる見込みを考えた。己の力ではどうにもならないことは分かっている。かといって誰かに助けられる可能性もない。望み薄だと言うしかないのだ。

 果たして岩や木が猛烈な勢いで次々と迫ってくる。それが黒焦げのうわばみに当ったかと思うとグンっと加速する。前にいきなり引っ張られたような、そうでなければ後ろから足を払われたような身の毛のよだつ感覚。と同時に辛うじて残っていた柱や梁などが急激な加速に耐え切れず、その度ごとに一つ、また一つともげて濁流の中に姿を消していく。命綱たる己の抱えた木材がそれに連なって手元から何時なんどき濁流の中に持って行かれるかわかったものではない。

 あるいは、ボロ本堂ごと消えてなくなるっていうことも有りうる。山門があったところを突っ切ったかと思うと次の瞬間、恐ろしい光景を目の当たりにする。その先がないのだ。

 石段!

 山あいで、しかも捨てられるような不便な寺である。そういうものだと思って気にかけていなかったが、上り下りは間違いなく一通りではない。そこを粉砕寸前の本堂が下ろうというのだ。しかも土石流に乗ってである。神様か、先祖か、己の運か、とにかく願う。

 石段はすでに影形もなく急傾斜だけを残していた。ほとんど真っ逆さまである。悲鳴混じりの雄叫びが一斉に上がる。

 数える程の柱とそれのつっかえ棒となった梁、そして『の』の字に横たわるうわばみ。それが補強し合って絶妙というか、珍妙というか、あるいは神の思し召しなのか、一旦はいかだと化した本堂のおもてを濁流に突っ込ませたものの跳ね上がるように浮き上がった。それから一面棚田であったところを滑降していく。

 境内の時のようにあちこちの山から水が集まってきてない分、濁流の暴れ方はましであった。落ち着くと命を取り留めたのにほっとしたが、仏像がないのに気付く。いつのまにやらその姿を失っていた。急降下のときか、跳ね上がったときかに濁流に呑まれたのに相違ない。唖然とするも束の間、前方は崖である。

 死!

 濁流の途切れた向こうには恐ろしい轟音と水しぶきが立ちあがっていた。そこへ吸い込まれていっている。崖はもう目前だった。

 落ちると思ったその瞬間、幸運にも、ガツンと岩にぶつかった。いかだと化した本堂のおもてを食い込ませ、なんとかそこで落ち着いている。濁流は岩を挟んで左右に別れ、出来るだけ遠くに飛びたいのか、勢い良く大地を蹴って宙を走る。

「岩に移れ!」

 乾の怒号に早速みな力を合わせ、雨で滑る岩肌を、まずはたえ、次に安吾と岩に押し上げた。それから謙吉が続き、乾、唯八、豪次郎、新兵衛はほとんど同時であった。

 岩に乗ってみると、そこから見下ろす谷底はぞっとするものであった。濁流が一旦宙に飛び出し、弧を描いて落下、谷間を走る別の濁流に合流する。

 そこは爆発を繰り返す火山の火口のようなものだった。時折、巨大な岩が炸裂し、四方八方に岩の破片を噴出する。木なぞ柔い物は悲惨である。細かく粉砕され、影も形も見えない。

 一方で、足元の岩はびくともしていない。たぶん、ほとんどの部分が土に埋もれているのであろう。新兵衛らが立つそこは全体のほんの一部なのかもしれない。

 取り敢えず、取り敢えずだが命は救われた。といってもあの札はまだ濁流に浮く床板の上にある。そこへ行って札を引かなければならない。

 だが、たえに行けとはだれも言えなかった。歩いて七八歩のところにある札をただ引くことをである。それはそうだ。時折、その板の間が暴れる。底から岩で突き上げられるのか、ガンとケツを上げる。歩いている最中にそれが起こったなら、十中八九濁流に投げ出されてしまう。

 雨が止むのをを待つしかないと新兵衛は思ってはみたがその端から、いいや、だめだと、もう一人の自分が言う。この濁流は間違いなく自宅を襲う。城下の江ノ口川沿いに家があり、それとこことは繋がっている。

 イチかバチか。たえを背負ってあそこまでいく。

 札が広がる場は目と鼻の先にあるのだ。そこへ新兵衛の袖を引く安吾。それが指差している。

 ボロボロになったうわばみのあたまが流れに押しやられ岩の袂にある。銃弾を跳ね返すほどの硬い鱗が所々剥がれていて、そこから露出した赤い肉と白い骨がマダラ模様を造っていた。その頭が強風に煽られた吹流しのように茶色い水の中でばたばた揺れている。復活の間を与えない、そんな勢いで流されてくる木や岩にうわばみの遺骸は潰されてゆく。

 だが安吾が言いたいのはそういうことではない。時折流れ来る大物が道連れにせんとうわばみを滝壺へ引っ張っていく。そしてその度毎に本堂の柱がめきめきと音を立ててかしいでいく。

 うわばみはまさに『の』の字に本堂に巻きついている。その内円に数本の柱があり、頭が引っ張られれば引っ張られるほどその円周はどんどん縮まっていく。いずれすべての柱は倒れ、それに伴って床は木片に変わって滝壺へ落下していくのだろう。となれば未来永劫、札は見つけられない。安吾が言いたかったのはそれなのだ。

 確かにそれは最も忌むべき結末であると言えた。いますぐ札のところへいって全て捲って終わらせるか? だが状況から鑑みてそれは絶対に無理だった。乾もそんなことは疾うに分かっていたはずだ。すでに覚悟を決めたようである。切腹するのだろうな。目をつぶって口をぐっと閉じていた。

 不意に、安吾が岩から飛んだ。そして本堂に着地するや否や、柱や梁を跨いだり潜ったりして札の場に駆け寄ると桐の箱を掴み、札に手を伸ばした。死を賭して札をかき集めようというのだ。

 それをやったとして、無駄であろう。陽三郎が雷に撃たれたのだ。だがそれでも安吾は札を集め、岩に戻ってこようとしていた。

 なぜか?

 たえは想像する。安吾は自分が拾ってこなければこんなことにならなかったと思っている。それを別のだれかが拾ったとして、それで安吾やたえが死のうとも、たえを当事者にしないで済んだ。

 ごめんね、安吾、と心で言いつつも、たえはそんな安吾を呆然と見送る。

 一方で新兵衛はというと反射的に安吾を追った。いくら己の家が潰されようとも、ゆきに危険が及ぼうとも、そんなことはさせられない。札に手を触れようとする寸前で、安吾に向けて飛び込む。

 が、間に合わなかった。もう安吾は札を拾っていた。新兵衛に抱きかかえられ、その手にある札は二枚。それがどういう訳か、逃げるように手から飛んだかと思うと桐の箱の中に収まっていく。

 それだけでない。

 他の札もそれにならって次々と箱に飛び入ったかと思うとそこから竜巻が起こる。そしてその渦がうわばみを吸い込み、濁流を吸い込み、それこそ服をずぶ濡れにした水までも持っていった。さらには鏡村で縛り上げられた牛鬼も、九尾も、雷神も、大百足も遠くから飛んできて飴が引き伸ばされたように細く長くなった挙句、何本の筋となって桐の箱へ消えていった。

 思いがけない結果に、だれもが息を呑んだ。

 片方を岩に乗せた本堂は水を失って地に着き、ほとんどの骨を失ってしまっていたため腰がなくなり反り返っていた。そしてそこから山上へ向かって一筋に延々と濁流に運ばれてきた岩や木々が無残にも続く。

 終わったのか?

 日が沈もうとしていた。山の端は赤く染まり、空は上に向かうほど暗かった。ちょうど白日と夜の境目。 星は二つ三つ見えるが、月はというと探しても見当たらない。

 新月。

 ということは、まだ終わっていない! と新兵衛は思った。

 果たして安吾の持つ桐の箱から札が一斉に飛んだ。それが旋風に巻かれて輪を描いて舞い、また床に張り付いた。

「そういうことか」

 その声の主は乾であった。「一回か、あるいは二回、『遊んでいる者』はお手つき出来る。たぶん、最後には雷が待っているのだろうけどそれまでは、やり直しという一応、軽い罰? が与えられるって寸法だ。問題はだ、」

 そこで乾は口ごもった。だれもが次の言葉を待つ。その視線に、しょうがないって風な顔を見せ、言う。

「あまり良いことではないので言いたくはないが、今回の場合、安吾とたえのどっちに罰一個がつくんだ?」

 確かにとだれもが思った。そして考える。次はだれから始めたらいいのかもそれに関連してくるのではなかろうかと。

 さっきはたえの番であった。またたえから再開するのだろうか? 安吾が罰一個ならば救済されなければならないたえからということになろう。

 一方でこういう考えもある。たえの番でズルが起こったことからたえが罰一個だ。だったら一回飛ばされた形で安吾から再開するのが順当ではなかろうか。

 わからない。

 かまわずやるか。とするならば、たえは絶対に引かないから安吾か。いや、だからこそ安吾にさせられないと新兵衛は思った。

 ふと、板張りの上に雷に撃たれた陽三郎の真っ黒焦げの遺骸が目に入る。今のいままで必死であったため一緒に流されていたことなんて気にもとめてなかった。大狐に頚動脈を噛み切られた権吉もそうだ。ともに流されてきていた。

 乾も他の者らもそれに気付いたらしく、二つの遺骸をじっと見て固く口を閉ざしている。それもたまりかねて、豪次郎と謙吉がそれぞれ遺骸を背負った。遠く離れて行って、棚田の合間に姿を消した。とりあえず村に収容するつもりなのだろう。

 それがやがて戻ってくると乾が言った。

「順番がわからんし、とりあえずは明日、日の出からの再開としよう」

 それで緊張の糸が切れたのか、みな腰を下ろし目をつぶった。

 どれくらいたっただろうか。起き上がる乾に気づき新兵衛は目を開けた。天地逆さまの木々と無作為に並ぶ岩の間を一番隊、三番隊、四番隊の面々と五番隊の金三郎、楠次が降りてくる。

 唯八も、謙吉も、豪次郎も、安吾も、たえもそれに気づいた。それぞれが立ち上がると目前に面々の顔が並ぶのを黙って待った。彼らを責める気は毛頭ない。あの土石流を目の当たりにして逃げない方のがおかしいのだ。そんな気持ちとは裏腹に、並んだ顔はみな神妙なものであった。

「悪かった」

 弥太郎がみなを代表して頭を下げる。

「いいさ、あれはあれで。僕もまったく役に立たなかったし。ところで安岡君と川原塚君は?」と乾。

「安岡も、茂太郎も、あの濁流に呑まれてしまった」と弥太郎。

「そうか、残念だ」

「乾さん、あんた新月云々言っていたな」

 雨が突然止み、濁流が消え失せても、弥太郎らはまだ終わってないことを知っていた。みな夜空を見上げた。星があまりにいっぱいで天からこぼれおちそうだった。

「あんたに突っ掛ったことを誤る」 このとおりだと頭をまた下げた。そしてあるはずの月に向けて視線を送る。「どういうことか、教えて欲しい」

「いやいや、あの時は本当によくわからなかったのだよ。でもねぇ、いまなら言える。落ち着いて考えられたからね」

「その考えをお聞かせ願いたい」

「結論から言うとこの『遊び』が終われば、安岡君ら死んだ者はみな蘇るよ。推測だけどね」

 それを聞いただれもが面食らった。死んで蘇ったという話はあるにはあるがどれも空想の域から出ていない。ところが乾は現実にそれが起こるというのだ。

 カギは『月読』の札にあった。そこには化物の絵はなく、月の満ち欠けの図が記してあるだけで他とは一線を画す。それと総数が二十一であることから、最後にこの札が残るのは想像に難くない。そして連日の新月である。そこから『月読』がこの『遊び』を支配しているのがうかがい知れる。

 その支配が解かれるならばどうなるのだろう。あの図はなにを示しているのか。連想するのは時間である。雨が吸い込まれていったように、濁流が吸い込まれていったように、時間が吸い込まれていくのではなかろうか。つまりここは『月読』が造った時間空間の中なのだ。そして『月読』に化物の描かれていない理由もそこにある。珍しく乾は熱弁を振るい、そしてこう付け加えた。

「分かりやすく言うと、みな蘇るのではなく十二月六日の二人が桐の箱を開けたあの時点に時が戻るということだ」と言い切った傍から乾の頭に新たな疑問が湧いてきた。それならば、何が起こるか知らない十二月六日のたえがまた桐の箱を開けるということも有り得る。それでは堂々巡りになってしまうではないか。たぶんだが『遊んでいる者』だけは記憶を残されるのであろう。それはたえや安吾にとって好ましいことだろうか。

 そのたえはというと手放しで喜んでいる。疲れきった老婆はどこえやら、十五六の少女の顔である。生気に満ちた光り輝く笑顔。その様子に安吾はほっとしたのか、自身はまだ放心状態だった。

 それはそうだ。一時は死を覚悟したである。いや、すべてが終われば死ぬ気だった。拳銃に玉が一発残されている。状況が許されるならばそれで死にたいとまで安吾は考えていた。だから肝が座っていたし、うわばみも大百足も怖くはなかった。

 その二人に乾は言葉をためらった。言うのをよそうと決めた。

「乾さんの推測が正しいとしてこの時点のわしらはどうなるんだ」と弥太郎。

 さすが大石君と思いつつ乾は言った。「なかったことになるな」

「ただ、それだけのことか?」 

「これは夢でも幻でもなく現実だ。死ねば痛いし、たぶんだが、宇内は二つに分かれたんだろうな。木の枝が二つに分かれていくように正常な時間の宇内とこっちとで。それで『遊び』が終われば、枝を切り落とすようにこっちは切り取られ、宇内ごと桐の箱の中に消える。たぶんだがな」

 幾之介と清平は七日、監察府から帰ってきた時のことを思い出す。あの時、幾之介は長年住んでいる家を見て、自分の家か? と疑問を持った。 

 それだけでない。妙な胸騒ぎである。あれは世界が分かれてしまったことに対する反応であったに違いない。知らず知らず置かれた状況を本能的に感じ取っていたのだろう。ふたりしてあれはそういうことかと納得したし、乾もそんな感覚を受けていたのかと驚く。

 だが一方で疑問も湧く。本当にそんなことがあっていいものなのだろうか。なかったことになると聞かされてもなお喜んでいるたえや安吾は別として、大人は信じられない思いである。正直、受け入れ難い。だれもが戸惑いを隠せなかった。

「例えばだ、終わらなかったらどうなるんだ? 乾さん」と弥太郎。

「君はこのままにしとくと言うのか?」

 そう言われれば身も蓋もないのだが、気になるところなのは確かだ。乾の挑戦的な物言いにかっとして弥太郎は答える。「バカを言ってはいけない、乾さん。われらは勤王の名の元に生きている。これは帝にあだなす重大事だ。捨て置くはずはなかろう」

 ふふっと乾は笑った。「諸君、大石君の言うとおりだ。我々は命を賭して掛からなければならん。それも援軍は頼まず我々の手で」

 どの顔も引きしまった。乾ならそう言うだろうと思っていたし、このあり様では軍隊なぞものの役に立たないどころか足を引っ張りかねない。少数精鋭でいくべきだし、おのおのがそれに耐えうる自負もあった。

「とはいえ大石君の問に答えるならば、月に満ち欠けがないんだ。毎日は繰り返される。人の造った暦は進むが、ここではいつまでたっても春は来ない」

 夏も来なければ冬も来ないというわけだ。つまりこの世界は、行く行くは干上がってしまう。

 唯八が言った。

「諸君。それについて一つ問題がある」 

 何を言わんとしているのか察した乾はいざこざが起きないように先手を打って弥太郎ら後からきた者たちに『遊ぶ』順番が分からない今の状況を説明した。そして言った。「全くのお手上げだ」

 乾にしては珍しいとだれもが思ったし、あの乾がそう言うからにはそうなのだろうと肩を落とす。

「とにかく、今夜はゆっくり休もう。寝ればいい考えが浮かぶかもしれんしな」

 傾斜した床に寝そべった乾は腕枕でもう寝入ってしまった。仕方ないと次々それに続く。

 安心したにしろ、たえも安吾も疲れたのだろう。横になるとすぐに寝息を立てていた。それが寒いのか、たえがむにゃむにゃ寝言を言って安吾にくっつく。新兵衛は微笑ましく思い、上着を脱ぐとふたりに掛けてやった。


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