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土佐勤王党

山稜寂寞いま如何       仏を以て神に混ず汝何の意ぞ

神か仏か人争ひて詣で     名教千歳蹉跎を為す

娼家酒楼華奢を擅にす     爾後名分蕩として地を掃

下瞰すれば鱗々たる千戸の市  王法仏法また科を同じうす

口に糊す惣べてこれ金毘羅   仏法の興るは皇道の衰なり

山を下れば寺あり善通といひ  滄溟何れの日にか奔波を廻らさん

説くこれ弘法此の阿に生ると




『癸丑遊歴日録』 吉田松陰







十二月七日

 

 


 五十嵐幾之介と望月清平は監察府の対応に不服であった。


 昨日夕刻、土佐郡鏡村に大入道が現れたという。大げさだと笑われかねないのだが、その体躯は人の倍では利かない。なんせ拳は子供の頭ほど大きさだ。加えてそのかっこう。明らかに、物語のなかに聞いた人物を彷彿させる。頭巾をかぶった破戒僧風体に、太さは丸太なのに物干し竿ほどの柄と、斬馬刀まではいかないにしろ幅広で長い刃身の大薙刀。そしてその背中には、それこそ子供が入れるだろう大きな櫃。

 それがたまたま通り掛った郷士を真っ二つ、誇張ではない。大薙刀を肩に傾けて闊歩していたかと思うと、ずっと離れた郷士の股下にその刀身がきらめいていた。魚を捌こうとてああは出来ない。頭まで左右均等に切り分けたのだ。

 それを目の当たりにした百姓らが悲鳴やら驚きの声やらを上げているのだが、破戒僧は気にするそぶりもなく、いや、まったくの無表情であった、背負いし櫃にその郷士の指料を放り込んで、来た時のように行ってしまった。


 信じられない話ではあるが、幾之介と清平は、そっくりそのまま監察府の役人に言って聞かせた。

「それでは正真正銘、武蔵坊弁慶じゃのう」

 そう言って、役人は声を上げて笑った。それだけでない。夢を見たのだと馬鹿にした。それでも、狐狸変化の類にばかされた、とまでは言わなかった。巨大な鉄の塊が水に浮き、やかんに吹き出すあの蒸気が船を走らせる世の中である。世界に立ち遅れているのをだれもが実感し、それを取り戻そうと血で血を洗う、そういう時代だった。これからも多くの血が流されるのであろう。狸や狐の仕業なぞとは役人も、さすがに恥ずかしくて言えなかったに違いない。

 そんなことは幾之介らとて同じである。狐狸変化なぞ迷信だし、そもそも監察府に出向いた時点で信じてもらえるどころか馬鹿にされるのは覚悟していた。悲しいかな、鏡村で狼藉をはたらいた男はだれがどう聞いても弁慶なのである。鏡村庄屋職の訴えだろうがなんだろうが、それを真に受けたとなれば時代錯誤の懐古主義者か、世の中っていうものを知らない田舎もんかと思われるのは十中八九間違いない。それも相手はカビの生えた権力にしがみつく藩の役人。二人がふたりとも声が喉元まで出かかった。正直、鏡村庄屋職がいうような、そんな妄想に付き合っている暇なぞ、我らにもないと。

 が、それはおくびにもだせない。土佐には庄屋同盟というものがある。天保年間に結ばれたこの同盟は国学思想に基づく。とどのつまり、耕す土地は天皇のものであるから将軍も大名も庄屋も同じ天皇の臣。それが学問上の考えとはいえ、徳川の幕藩体制にまかり通るはずもなく、庄屋同盟は秘密結社のなにものでもなかった。

 尊王攘夷をうたう武市半平太のもとで結成された土佐勤王党も、国学思想に基づいている。いまはその半平太も亡く、それでも党員であり続けようとする幾之助と清平は、多分に漏れずその庄屋同盟から影響を受けている。そしてその庄屋同盟結成の原因が城下に在住する町方庄屋と在地庄屋の諍いであるのも承知していた。百姓といえども鏡村庄屋職をぞんざいに扱えないのだ。

 しかし、そういう訳があるにしても、城下に訴えに来た鏡村庄屋職の態度があまりにも切迫して見えた。

 それが言うには、城下へ走る道中、鏡川沿いの道で破戒僧の背中を見た。ぞっとしたってもんじゃない、なんせ人を真っ二つに切り分けた怪物、それが自分と同じ方向へ歩いている。なんとしてでも先を越さねば。それで間道から追い越してやって来た。城下に入っては一大事。というのが恐怖を押して駆け付けた鏡村庄屋職の一念だったらしい。

 さすがに真っ二つはなかろう。そういう想いは幾之介も清平も確かにあった。だが一方で、なにか恐ろしいことが起こりそうだという気持ちもその実、二人にはある。お互いがおたがい、口には出していなかったが昨日から妙な胸騒ぎをおぼえていた。話す庄屋を前に、そんなばかなという信じてない素振りを互いに見てはいたものの、胸の内では二人がふたりとも戸惑う。真っ二つかどうかは別として、あの破戒僧の出現は凶事の前触れではなかろうかと。

 そんな思いなぞ役人はお構いなしである。大笑いしているのを前にして幾之助も清平もじりじりとした。それでなにを血迷ったか二人がふたりとも真偽定かでない真っ二つになった死体をこのあほに見せられたらと思ってしまう。清平の方が役人に聞こえないよう独りごちる。

「こやつはわしが真っ二つにしてくれる」

「そうじゃのう。そりゃ、良き考えじゃ。じゃが、それは後の楽しみにとっておこう」

 正否がころころと変わる、そういう時代であった。もてはやされたと思えば、地獄に落とされる。それに翻弄された二人はもう三十路に掛かり老獪さを身に着けていた。監察府を後にすると高知城の北東、外堀に近い廿代町にある幾之介の家に入った。

「弁慶かなにか知らんが、やはり庄屋が言うようにわしらでその破戒僧を捕まえるほかあるまい」

 清平は役人の鼻を明かそうというのだ。もちろん幾之介に異論はないが、どうにも面白くない。

「徒党を組むんじゃ。結局、届は出さねばならん」

「勝手にやったとなりぁ、弁慶を捕縛したとしても十中八九、やつらが言いがかりをつけてくる」

「いまの情勢はやつらに分がある。やつらはやりたいようにやるじゃろう」

「確かに。やつらはわしらを糞とも思ってない」

「腹が立つのぉ。あん時もそうじゃった」

 四年前、投獄された武市半平太をはじめ土佐勤王党の主だった者らを開放するため、郷士二十三人が立ちあがった。土佐三関の一つ岩佐番所に武装して立て籠ったのだ。だが、藩庁に派遣された兵八百にことごとく捕まり、二十三人全て斬首となった。

「いっそのこと、破戒僧はほおっておくか」と清平。

「本気か? 死んだのは郷士じゃぞ」

「だからだ。それで上士が動かないんだろ」

「上士も殺されたらいいんじゃ、と言いたいわけか」

「そういうおまえもそう思っている。庄屋の話からしてちょうどいいことに破戒僧のやつぁ、たぶん、見境がない」

 二人は顔を見合わせてニヤッと笑った。

「じゃが、小役人のやつぁ、断った」と幾之介。

「断った上、わしらを馬鹿にしたんだ。何があっても全てはあの小役人の、やつの責任だ。わしらはちゃんと報告した。これでぶった斬る言い分が立つ」

「清平、やつの顔をしっかりと頭に叩き込んだじゃろうな」

「ああ。喉ちんこが左に曲がっておった」

 藩主山内家の直臣を上士と呼んだ。当然、二人を笑ったのは上士である。その上士は幾之介らを士格だと思っていない。だが現実は、庄屋も郷士と呼ばれる土地持ちも差料がある。一揆など百姓の反乱をことのほか恐れたこの時代に妙なことではないか。だが土佐ではそれがまかり通った。

 過去、土佐には一領具足なる兵制があった。農耕に従事している者が領主の動員がかかれば直ちに集結する。前領主の長宗我部はそれを良く使い四国を統一した。

 その一領具足にいうにことかいて、お前らは農民だ、政治には口を挟むな、黙って年貢を収めていろと、言ったらどうだろう。彼らは怒るに違いないし、実際、反乱を企てた。『走り者』と言われた故郷を出奔する行為もそれに伴って横行した。そしてそれを解決するため大胆な手を打ったのは山内家二代忠義の奉行野中兼山である。一領具足を認めようというのだ。ただし、やることはやってもらおうということに、当然なる。

 そうして新田の開発など藩に功績を認められた彼らは表向き士分となった。といっても、幕府への体裁はやはり兵農分離の実施だから庄屋は農民の姿ではなく外見、侍となる。表向きとはそういうことで、実際にはごときな者である。ごときだから士格ではない。上士という言葉に対していうならば彼らは下士と区別され、上士はというと上士でない者を軽格と呼ぶ。何かの咎で上士が取り調べられる場合、拷問はない一方で、下士にはそれがあり、熾烈を極めた。その最中に死んでも別にどうってことはなかったのだ。だから結審される前に死ぬ者が出る。土佐勤王党弾圧の際、半平太といっしょに投獄されたその縁者島村衛吉なぞは拷問の末、吐血して絶命している。

「そういえば樋口先生が城下に御越しだそうな」

 思い出したように言う清平に幾之介が返す。「武市先生がお隠れになって以来、おぬしはなにかというと樋口先生じゃのう」

 私塾に弟子一千人を要する樋口真吉は下士である。諸国をめぐりながら学問を広め、武術を研磨し、砲術を学んだ。以前から開国倒幕の考えを持ち、それは長崎で攘夷の不可能を悟ったためだという。それでも攘夷である半平太には好意的で土佐勤王党に弟子を何人も参加させていた。その樋口はというと、疾うに五十を越え、いつ逝ってもおかしくない年齢に差し掛かっている。

「武市先生はいまも変わらずご尊敬申し上げている。転んだ訳ではない!」と清平は剣幕。

「冗談じゃ。わしもおまえと同じよ。樋口先生と弥太郎じゃぁ人間の格というものが違うからの」

 この弥太郎。性は大石といい、土佐勤王党の血判に際しては半平太のすぐ後に続いた。あるような、ないような勤王党に成り下がっていたがそれでもその席次が世間ではものを言う。時勢は風雲吹き荒れる気配。否でも応でも弥太郎の名が風に乗って耳に入ってくる。

「あやつはあやつ。それより話を戻そうじゃないか」と清平。

「会おうって乾さんと約束したのだろ。樋口先生が約束を違えるかよ。それはおまえが一番わかっていようが」

「わしらも乾さんとこへ顔を出してみるか?」

 乾退助は上士で、勤王に尽忠することを上士仲間と誓い合っていた。その時期は半平太の土佐勤王党結成とほぼ同じくしていた。

「どの面さげて行くんじゃ。それにまさかおまえ、あのお二方を首領にして捕物のような真似をさせよってんじゃないだろうな」

 昨今、薩摩藩や長州藩が倒幕を言ってなんらはばからない。時勢は佐幕か、倒幕かの選択を迫っていた。土佐藩内の公武合体派は佐幕派になりを変え、必然、乾は倒幕派の旗頭に押し上げられる。土佐も多分に漏れす時代の選択を迫られていたのだ。

 とはいうもののこれはかっこよく言えば、の話である。実際はというと、なにを今更、佐幕も倒幕もあったものじゃない。この年の十月、朝廷は幕府の大政奉還を受理していた。要は徳川四百万石につくか、つかないかということなのだ。生き残るには? それで土佐は大揺れに揺れていた。

「あほいえ。二人とも大切なお人だ」と清平。

「当然じゃ。そんなことやらしたら例のあいつに揚げ足を取られかねんぞ」

「武市先生弾劾の折、先祖の功績が汚点だとばかりに鼻息を荒くした、あやつな」

「あやつじゃ」

「やつはぁ許せん」

「わしもじゃ」

「いつか、ぶった斬ってやる」

「いいや、悪いがそれはわしの手でやる。それも早いうちにな」

 上士に野中太内という男がいる。先に紹介した野中兼山の支流に養子入りしていた。本性は永井。それが昨月、前藩主山内容堂に建白書を奉じた。藩政改革を名目としたが実はそれ、坂本竜馬や中岡慎太郎のみならず、乾の罪過を並べ立て、罰するように訴えたものである。

 幾之介も清平も嫌な感じがしていた。龍馬と慎太郎は昨月、何者かに襲われ、龍馬は即日、慎太郎は二日後に息を引き取っていた。

「早いうちか」 おもむろに清平が畳に膝を滑らせ、敷居まで体の位置を移す。そして濡れ縁に手を付き、軒から空をうかがう。

「言おう言おうと思ったが、昨日から空気というか、雰囲気というか、なにか変な感じがしないか?」

幾之介が濡れ縁に立った。

「そうか! やはりおまえも感じていたか」

「うまく言えんが」 その先を奪うかのように幾之介が言った。「長年暮らした家じゃが、いましがた門を潜ったろ。あの時、家を間違えたと思った」

 子供のころから見慣れた景色。枯れた庭木の枝々に垣根、そして隣の薄汚れた瓦。そして空。

「おうおう、それ。そんな感じだ」

「で、おまえはあのお二方は顔を合わせない方がよいといいたいんだな」

「気持ち悪いではないか。龍馬や慎太郎の二の舞ってこともあろう」

「もっともだ。早速行くか」

 と言ったか言わずか、そこへ息せき切って、男が現れた。島村甲冑次である。いきなり庭に飛び込んできたのに、ただ事ではないと察した幾之介も清平も一斉に、「何事か!」と声を荒げる。それに対して甲冑次が、「話は道中で!」ともう引き返す構えだ。

 この甲冑次、獄死した島村衛吉と血縁である。十六七の青年で小回りが利き、先に紹介した大石弥太郎になにかと使われていた。それが、「さぁ、早く!」と急かす。こんな時に弥太郎となれば幾之介も清平も否応なしに二つのことが頭によぎる。

 一つは井口村刃傷事件。往来での上士、下士の斬り合いが藩全体を揺るがした。私怨でおのおの集合決起し、一触即発のところまでいった。その下士側の指揮者こそ弥太郎である。もう一つは半平太の切腹。その遺骸を持ち帰ってきた同士数人の中心に弥太郎がいた。両方とも弥太郎が顔を突っ込んでいる。因みに幾之介もその遺骸引き取りには加わっている。

 つまりは郷士、庄屋らと破戒僧の殺し合いか、あるいは乾と樋口が殺されたか。おっとり刀で草履をつっかけるも、居たはずの甲冑次がもういない。慌てて門を飛び出すとその背中を見つけた。城北の江ノ口川に架かる廿代橋に向けて甲冑次が駆けていく。

「乾さんの家とは反対方向じゃ!」と幾之介。

「破戒僧の方か!」

 ほっとしたはいいが肝心の甲冑次がすっ飛んでいく。話は道中で! と言ったはずだったが、そんなことはもう忘れているようだ。橋の対岸でちらっと一回だけ振り返っただけで、待つ気なぞさらさらなく川沿いを先にいく。

 それを見失わないよう必死でその背中を追った。やがて高知城を左手に見上げたのだが、幾つもの銃声に幾之介も清平も緊張の糸を緩ませる。「討ち取ったか!」と清平。

 どうやら決着がついたようだ。足を止めるが、どういうわけか一方の甲冑次は速度を上げていた。見る間にその背が遠ざかっていく。そこにまた一斉射撃の銃声である。「まだだ!」と幾之介。

 城下四ヶ村のうち、江ノ口川の北は小高坂村でそこには準城下の越前町、大膳様町、西町がある。その大膳様町と城下町を結ぶのが常通寺橋で、まさにそこが騒ぎとなっていた。城下側のたもとは黒山の人だかりで、ボタンの入った上着にズボン姿の藩兵が十五六人ほどで橋の真ん中に陣取る。彼らは橋を封鎖していた。二列の上下二段で洋式銃を構え、大膳様町の方へ向けて一斉にぶっぱなつ。

 越前町を抜け、大膳様町に入った甲冑次が砂塵を上げて止まった。藩兵が陣取り、人々が騒ぐ常通寺橋はまさに目前である。これより先は流れ弾があるやもしれぬと甲冑次に追いついた幾之介も清平も足を止める。

 明らかに藩兵の様子がおかしい。緊張状態で、銃を水平にした構えを解こうとしない。さらにその背後では町家の下士らが太刀を手に手に騒いでいる。

 また、藩兵が発砲した。銃はスペンサー銃。これに比べれば元込め式のミニエー銃なぞもはや時代遅れだと言っていい。なんせスペンサー銃は七連発なのだ。長州藩の垂らすよだれを尻目に、坂本龍馬が千三百丁もの大変な数を汽船でごっそり土佐に持ってきた。

「破戒僧でもなさそうだが」

 縦位置ではないので、幾之介らには藩兵の狙っている行方が建物に遮られて分からない。状況から察するに敵は大勢だと幾之介はふんだ。清平も同じように思った。小高坂の下士らが暴れていて、それを藩兵が鎮圧している。そう考えた清平が鯉口を切った。小高坂村は清平の在所なのだ。

「まて!」と幾之介が柄を握る清平の手を抑えた。「おかしいではないか。白札のお前抜きで郷士、庄屋らは騒がんぞ」

 白札というのは下士と上士の中間に位置する身分である。準上士ともとれるが、世間の繋がりから言えば下士の最上位とする見方でまず間違いはない。幾之介も白札で、それがために今日、清平と二人して監察府に出向くはめになった。

「それにわしらはついちょっとこの前、七郡こぞって乾さんに同心すると決めたではないか。だれも勝手は起こさんぞ!」

 命は取られずとも、土佐勤王党には終身禁固処分を受けた者が何人もいた。それが乾退助らの運動によって赦免された。この年の九月のことである。

「じゃぁ、これはどういうことじゃ。答えよ! 甲冑次!」

 その甲冑次が言った。

「やつぁ、死なないんだ」

 小高坂村の北、久万村で事件は起こった。郷士数人と破戒僧が斬り合うと村は混乱状態に陥り、監察府に走る者、戦う者、逃げる者と様々で、それをまとめたのが大石弥太郎である。駆け付けると郷士庄屋らを率い、一旦は小高坂村に引いた。

 偶然にも、弥太郎はこれが起きる少し前、甲冑次を連れて小高坂村を訪れていた。小高坂の顔である田岡祐吾と藩を倒幕に傾ける方策を話し合っていたのである。

 破戒僧の強さは人知を超えていた。振るう大薙刀は竹でも切るように家の柱を両断し、戦う者は別として家に縮こまっていた者でさえ、落ちてくる屋根や梁で犠牲とした。そしてなにより破戒僧は死なない。切ったそばから傷口が治癒していく。いや、治癒という言葉は適当でないかもしれない。切り落とした腕がもうそこから生えてくるのだ。弥太郎の供をし、田岡と会っていた甲冑次も久万村に駆けつけ、それを目の当たりにした。衝撃を受けているそこで、清平を呼んで来いと弥太郎に命じられた。清平一人連れてきたところであの破戒僧をどうにかできるというのか? 否。

「大石さんはわしをあの場から逃がしたんだ」

 七発目を撃ち終わった藩兵が銃を投げ捨てて転げるように退散していく。唖然とし、それを見送った黒山の人だかりは水を打ったように静まりかえった。幾之介らも固唾を呑んで小高坂側を見守る。

 果たして大きな影が町家の向こうから姿を現す。丈は軒よりも高く、のっしのっしと歩くその男は血まみれの僧服をまとってはいるものの全くの無傷である。あれだけの銃弾をくらったはずなのだ。甲冑次の言うことは疑うべくもない。そしてその破戒僧は庄屋に聞いたのと同じように大薙刀を肩に傾けて歩いている。進むにつれてその巨大な刀身が町家の影からあらわになっていく。幾之介も清平も血の気が引いた。

 この時、いましがたまで誰もいなかった橋の中央に男の姿があった。藩兵と入れ替わる形でそこに入ってきたのであろう、親指で鍔を押あげ、低い態勢をとっている。

「ありゃ、新兵衛じゃないか」

 ほとんど驚く声で幾之介がそう言うと清平はうなずいた。小松新兵衛は下士の間では疾うに忘れられた存在である。

 投獄された半平太らを救うため城下の下士が集まったことがある。なんとか救い出さんとみな、躍起になっていた。ところがその時でさえ新兵衛は姿を現さなかった。大体の事情は飲み込めている。腑抜けとか臆病者とかそしる者もあったが、事情を抱え身動きが取れない者はまだほかにもいる。新兵衛ばかりを責めてもしかたなかったし、その暇もなかった。

 新兵衛の小松家は、長宗我部にほふられた土佐一條家家老の家来筋にあたり、京八流と言われる古武術を一子相伝する家柄でもあった。その一條家は摂政関白が選ばれる五摂家の一つで、京でその諸丈夫を勤めていた源康政が附家老として土佐に送り込まれることとなり、その随身である小松家も付き従った。

 それが長宗我部に征服される憂き目にあう。それからずっと浪人していたものの、土佐の支配者が山内にかわり、そこでやっと日の目を見る。野中兼山に取り立てられたのだ。

 なんせこの野中には敵が多い。藩の財政を回復させたにもかかわらず、半農半兵の豪族や長宗我部の臣を取り立てたために他の上士らから恨まれていた。その上士にとって小松家の剣は驚異である。暗殺しようにも、おいそれとは出来ない。それであの手この手で弾劾し、野中を失脚させた。と同時に小松家は上士から下士に格下げとなった。いや、取り立てられた時分から上士という扱いであったかどうかは疑問である。野中の私兵のようであったし、元が浪人で、野中の奨めで幾らばかりかの新田を開いていたことが藩の扱いを自然とそうさせた。

 そういう事情があって当然、半平太や龍馬は新兵衛が立つことの意味を十分理解していたし、新兵衛自らそうするだろうと考えていた。ところが真実は真逆である。国事に奔走しようという半平太の呼びかけには答えなかった。

 小松家はずっと敗者のままだった。武芸が劣っていたわけでなく政治に負けたのだ。そしてその恐ろしさを誰よりもよく知っていた。と、指摘したのは半平太である。家訓のごときものがあるに違いない。呼びかけに応じないのはきっとそういうことなのだろうと言うのだ。龍馬はというと諦めはしない。返事が来なくても神戸から長崎から再三再四、新兵衛に手紙を送った。半平太が呼びかけた時は新兵衛の父が生きていた。いまは違うというのだ。幼馴染であったから気心も知れたし、欲悪な計算ではあったが小松家は龍馬の本家才谷屋に借財があった。弱みに付け込むのは心苦しいが、それがきっかけとなるならばそれはそれで方便というもの。龍馬は新兵衛のためを思っていた。

 ところが新兵衛にはもう一つ問題を抱えていた。妻のゆきである。小松家は家伝を秘しているため、親戚を持つのを嫌った。代々、小松家に入る女のほとんどが、郷士株を手放した地下浪人という身分の娘で、嫁を貰うとはいうけれども小松家はその言葉どおり本当に貰ってきていた。

 そのゆきが病弱であった。現代で知られる気胸という肺に穴が空く病気で、命には別状がないのだが、ゆきの場合、子宮内膜が子宮外で増殖する子宮内膜症が原因である。子宮内膜組織が肺に移り、月経とともに肺の組織を剥がしてしまい、咳が出、胸の痛みを覚える。十日ほどでそれは治るのだが、ひと月経つとまた再発する。それだけではない。この病気は不妊症を合併する。この時代、そうとは分からずゆきの様子から、子は出来ないどころかいつ逝ってもおかしくないとだれもが思っていた。だが、それでも新兵衛はゆきと別れなかった。

 清平が言った。

「橋を渡ったらすぐ新兵衛の家なんだ」

 新兵衛がだれでもなくゆきただひとりのために戦おうとしている、と幾之介ら三人は察した。その新兵衛に、破戒僧が向かう。目方が人の四倍も五倍もあろう巨体なのに、重さを感じさせない素早い動き。軽やかに二歩、三歩、そして大上段から放たれた大薙刀の刃が新兵衛を襲う。

 落ちてくる刃に、素早くぱっと横に飛んで交わした新兵衛は、欄干の上に着地したかと思うとその上を疾走する。一方で空を切った白刃だったが、はらりとひるがえり白い尾を引いて欄干を走る新兵衛を追う。それが触れるか触れないところで新兵衛は跳躍した。白刃は飛んだその下を走り、空振りした勢いそのままに、振り向いた破戒僧の頭上で旋回をした。

 まるで竜巻であった。回転する大薙刀の中心に向かってどっと空気が流れたのにだれもが息を呑んだ。

 その風を間近に感じたはずの新兵衛だったが、平然と破戒僧を前にしてたたずむ。まだ太刀は抜いていない。それが一気に間合いを詰める。破戒僧はそれを薙ぎにいった。それを頭上にかいくぐった新兵衛は転がってその横をすり抜ける。立て膝に振り向くと、チンッと太刀のはばきを鞘にはめ込む。

 またしても逃げられたとばかり、ばっと振り向いた破戒僧だったが、ぐらっと揺れて前のめりに倒れる。右足首が両断されていたのだ。どんっと床板に両手をついた。天地逆さまとなった背中の櫃から太刀が床板にぶち撒かれる。それは斬り殺した者らから奪ったもの。

 それにしても投げ出された太刀の散らばり様。ここに来るまでにどれだけの者を殺したというのか。その破戒僧に新兵衛の太刀が放たれる。体を支える破戒僧の右手に一閃。竹を切った時のように前腕の真ん中あたりがズルッと斜めにずれ、上体がガクッと下がる。

 普通なら、さらに攻撃を加えようものなのに、新兵衛は己の太刀を橋の床板に刺し、破戒僧の手から離れた大薙刀を奪って引きずる。そしてなんとか刀身を欄干に掛けると柄の端の方へ移り、そこで力いっぱい大薙刀を押す。ぐいぐいと刀身の重みが新兵衛の体にかかり、三分の一もいかないところでこんどは新兵衛の体が浮き始めた。ここで十分とその手を離すと柄の端は跳ね上がった。大薙刀は真っ逆さまに川へ落下していった。

 その間で、破戒僧の足は再生した。すくっと立ち上がって新兵衛を見据えた。一方で新兵衛はというとやっとこ大薙刀を川に落としたところで、体勢はその破戒僧へはまるっきり背を向けていた。これは破戒僧にとっては好機である。ところがどういう訳か新兵衛に向かわず、橋の床板に刺した新兵衛の太刀へと向かう。伸ばした右手が柄を握ろうとしているのだろうか、先ほど切り落とされた無い手をしどろもどろに泳がせていた。

 とはいえその手の再生は始まっていた。骨、腱、血管、筋肉と手のひらを象っていく。咄嗟に新兵衛はその手首を抱えるように取ると反転、破戒僧の脇に飛び込む形でその右腕を絞り上げる。脇固めに入ろうというのだ。破戒僧は体勢を崩し、左手を着いた。そこから破戒僧の右肩が床につけば新兵衛は極めることが出来る。

 だが左手一本で支えているはずの破戒僧は微動だにしない。相手が常人ならここから力押しで無理やり極めてしまうことが出来るだろうがこの破戒僧には通用ない。

 いたしかたない。手を放そうかと諦めたそこへ、幾之介、清平、甲冑次の三人が飛び込んできた。破戒僧のもう一方の腕、上体を支えている左手を床から引き剥がしにかかる。三人は新兵衛の意図を察していたのだ。殺せないならば縛り上げるまで。必死に丸太のような左手を、張り付いた橋床から引きはがさんと三人がさんにんとも歯を食いしばる。

 それでも微動だにしない。こうなると力の差は歴然で、十中八九、形勢は逆転する。幾之介が目配せをした。清平も甲冑次も幾之介がやろうとしていることが分かっていた。

 果たして幾之介は破戒僧の顔面を蹴り上げる。と同時に清平と甲冑次が渾身の力を込め破戒僧の左手を引く。だがそれも徒労に終わる。動かずじまい。幾之介らはかえって自らやる気をそぐかっこになってしまった。固唾を呑んで四人は互いにたがいを見合う。やはり同時に手を離そうという。

「ちゃんと抑えとけ!」

 血みどろの大石弥太郎が立っていた。目をぎらつかせ、肩で息をしている。

「祐吾の仇!」

 太刀を大上段に振りかぶると気勢の声を上げ、渾身の力で斬り下げた。

 破戒僧の首が飛んだ。

 途端、その上体が沈んだ。

「まだ離すな!」と幾之介が叫ぶ。新兵衛は首のない破戒僧を脇固めに極め、幾之介ら三人は掴んでいた左腕に体重ごと乗せて押さえつける。果たして破戒僧の頭部は再生しだす。脳、目、頭蓋骨、筋肉と顔貌を象っていく。

「くそっ!」と弥太郎は怒鳴ると破戒僧の背に全体重を浴びせて乗った。すると見物していた黒山の人だかりに変化が起こる。そこから一人、また一人と破戒僧の上に乗ってくる。瞬く間に人の山が出来た。

 なんとか破戒僧は押さえつけたものの、だが、これではどうしようもない。とにかく足からふん縛れと、だれからともなく声が出る。それに答えるように、足の方の人山が動き出した。一方で縄を持ってきた者が身構える。

 とその時。両手両足を広げ床に伏している破戒僧が突然、動き出す。回転する銭が勢いを失って倒れる寸前になるような、くわんくわんとした不規則な動きである。それが次第に回転を強め、黒山の人だかりはその猛烈な勢いに振り切られてしまう。

 もう押さえる者もだれもいなくなったというのに、それでも回り続ける破戒僧は、川に沈んだ大薙刀共々、渦を巻きなから弧を描いて北の方角、土佐山の方へ向けて飛んでいってしまった。そしてだれもがそれを唖然と見送った。一体、あれはなんであったのか。橋の上で多くの人が放心していた。

 ふと、幾之介が言った。

「乾さんと樋口先生は」

「そうじゃ!」と清平が叫ぶ。

 二人は競い合うように走った。乾の宅へ向かうのだ。この混乱を利用して乾と樋口を斬ろうとする輩がいるかもしれない。昨日からの胸騒ぎは依然として終わらないのだ。いてもたってもいられず路上だというのに二人は鯉口を切った。柄に手を置いたかっこで疾走する。

 その道中で幾之介ら同様、全力で駆けている男の背を見つけた。阿部多司馬である。土佐勤王党員で藩の参政吉田東洋暗殺事件にもかかわり、投獄された半平太の釈放運動にも力を注いだ。幾之介ら同様、その遺骸引き取りにも同道している。

「多司馬!」と呼んで幾之介らはその気を引いた。走りながらもちらっと振り返った多司馬が言う。「おまえら! どこに行くのじゃ」

「乾さんと先生が気になって」と幾之介が返すと、「わしもじゃ」と多司馬が言う。幾之介らは三人揃って 乾宅へ向かった。

 最悪の事態は起こっていなかった。乾と樋口は無事であったのだ。それで思いすごしだったのであろうかと幾之介は考えた。まだ胸騒ぎというか、気持ちの悪い感覚は消えない。清平も同じ思いである。ここ二日間の胸騒ぎと今日の出来事がどうにも納得出来ず、二人は乾と樋口にそれを話して聞かせた。もちろん乾に警戒をうながすためだ。

「これは僕にお呼びがかかるな」

 乾はそう言うと樋口を見た。「そのようですな」

 僕という一人称は通常、やつがれと読んで自分をへりくだって言う場合に使う。幕末の頃、それをぼくと読んで使うのが尊王を自称する者の間で流行となっていた。

「そうなったら人選は任せるよ。いや、待てよ。悪いが唯八と弟の謙吉もそこに入れてやってくれ」

 大監察であった小笠原唯八はこの年の五月に謹慎処分となった。徳川を見限れと前藩主容堂に公然と言い放ったのだ。

「乾さんと小笠原さま、それにわたくし。一隊は五人でそれが五隊。合計二十八名」

 乾をさしおいて小笠原をさま付けで呼ぶには訳がある。岩佐番所の二十三人を徒党強訴とみなし、藩は兵八百人を送り込んだ。それを指揮していたのがこの小笠原唯八なのだ。とはいえその唯八は捕縛した二十三人の助命を請うた。それをとってみても唯八の本意がどこにあるかというのは分かるが、それでも納得しきれないものがある。下士は乾のように親近感を持って唯八に接することが出来なかった。樋口が続けた。

「謙吉さまは指揮官ではなく隊に入れるとして、そのほかに加えたいのがもうひとり」

「さすがわ、樋口先生。もう決まりでしたか。ならば藩庁に呼ばれてからでは遅いので早速手配しましょう。ちょうどいいことにここに動ける人が三人もいらっしゃる」

 乾が幾之介ら三人を見た。

「どういうことですか?」と清平。

「藩庁は今頃、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていることでしょう。歴々も事態の収束に頭を悩ましているに違いありません。そしてその化物がまだ生きているとなれば、むしろ傍観を決め込んだらそれこそあの人らの思うツボ」

「いや、しかし」と清平は口ごもった。乾は大監察の地位にあったが無役であった。大政奉還がなる七日前の十月八日、歩兵大隊司令の任を解かれたのだ。容堂の指示だという。「許しもなく勝手にということは。それに小笠原さままでともなると」

 清平は乾の身を案じた。傍観しろとまでは言わないが、あの化物は危険過ぎる。

「大丈夫。望月君、これは僕らの仕事になるよ、きっと。な、先生」

 樋口が声を上げて笑った。

 もともと土佐藩は親徳川なのだ。それがこれよりたった二か月ほど前、大政奉還がならぬのならば倒幕も致し方なしという考えが藩の大部分を占めていた。変な話といえばそうなのだが、その大政奉還が奇跡的になった。その反動なのか、藩論は振れた振り子が戻るように佐幕へと向かう。容堂も二日前、京に向けて出立した。徳川将軍家を新政府の中心に据えるためなのだ。とはいえその容堂もまだ予断を許さない。越えなくてはならない山は幾らでもあり、それによってはまた倒幕に傾くかもしれない。これからが正念場なのだ。

 下士はともかく、乾や唯八らは山内家においてまさに鬼子であった。その鬼子を容堂はよく使っていると言える。いや、乾らが後ろに控えているからこそ薩摩や長州などの倒幕派と堂々と渡り合うことが出来た。

 土佐の佐幕派にはそれを理解する者なぞいない。折り良く、なにかと乾のかたを持つ容堂が土佐にはいない。機会を狙っていた佐幕派が魑魅魍魎のごとく蠢き出すのは至極当然であった。


 その夜、樋口は小松家を訪ねた。そして新兵衛を前にして一通り説明した後、「藩命である」とダメ押しした。

「めっそうもない」

 平謝りに謝る新兵衛だったが、かまわず樋口は、背けば斬首、軽くても永年禁固だと脅した。とはいうもののそれは嘘である。命を受けたのは乾で、折も折りである、下士を連れていけとそっけないものだったという。断るべくもなく乾はそれに対し恭順したものの、小笠原兄弟を連れて行くことだけは理解を求めた。藩の重役は、二つ返事であったという。

 そうとも知らず新兵衛は腕を組むと、苦虫を噛み締めたような顔をした。それを見守る樋口は笑をたたえたまま、その言葉を待つ。どんな誘いも断り、時勢にも乗らず朽ちていこうとしている男の心境とは一体どのようなものであるか。

 別に樋口は新兵衛を蔑んでいるわけでない。漢は生涯に一事なせばよい、いまこそその時ぞと心の内でつぶやいていた。

「分かり申した」

 肩を落として新兵衛は小さく言った。未練たらたらの残念がり様である。だがそれに樋口は内心、手を叩いた。この男でよい。常通寺橋での武功で選んだわけでない。だれもが己の意地を通すために命をかける。だが常通寺橋の一件で分かったのだ。この男も命をかける。そのかけ方が他と違う。

「お前さんの役目じゃが、乾さんの護衛じゃ。表向きは伝令ということにしておく。誰にも言うな。特に乾さんにはな」

 首領に内緒ってのもよく分からない話だが、その樋口が去って、新兵衛は一息ついた後、寝屋に入った。するとそこには端座したゆきの姿がある。

 何をやっているのかと慌てた。風邪をひいたら大変だと綿入れの上着をゆきにかぶせた。だが面当てだろう、それは払いのけられた。そして、ここへおすわんなさいと膝のまえに揃えた指を置く。新兵衛はすごすごと座り、ゆきと向かい合う。

「樋口先生のご用件は?」

「藩命が下った」

「あの魔物を捕らえるのですね」

「そうだが、わしの役目は伝令じゃ」

「伝令?」

「討伐隊とお城をつなぐ役じゃ」

「あなたって人は」とゆきはそこで言葉につまる。「その役目で満足なのですか」

「満足もなにも藩命じゃ」

「満足なのですね」

 新兵衛は答えない。

「分かりました。ではお伺いします」

 ゆきはこのような口をきく女だとは露ほども思わなかった。随分と我慢してひかえていたのであろう。その気持ちを理解した新兵衛は居住まいを正す。

「なぜ、お友達のお誘いをお断りなさっていたのですか?」

 新兵衛は答えない。

「おとぼけなさるな。龍馬さんのことです」

「知っていたのか?」

「知っているもなにも残念です」

「もう、終わったことだ」龍馬は死んでしまったのだ。

「わたしは今日、あなたさまが戦っているのを初めて見ました」と言うと突然、泣き始めた。それでもたどたどしく言葉をつなぐ。「お強いのですね。正直、古流と聞いていたものですから、這うように構えて太刀を立てる姿を想像して、シャンとしたお姿のお江戸の剣術や土佐の無外流や真陰流に比べ随分と見劣りし、実は名ばかりで弱いのだろうと思っていました。だって、あれってカブトムシみたいでしょ。それが素早く走って、身軽で、あなたさまはまるで牛若丸のようでした。思えば京八流の祖は牛若丸ですものね」

 そこでゆきが言葉を止めた。そして両手をついて頭を下げた。

「離縁していただきます」

「ま、待て!」 新兵衛は慌てた。「訳を申そう。龍馬に断った訳を」

 龍馬の手紙からもう剣術の時代ではないことを悟った。それでここいらが潮時、我が家伝も幕引きとしようと考えたのだ。そしてそれは紛うことなき本心であり、嘘ではなかった。

「それだけですか?」

 痛いところをつくと思った。それは嘘ではなかったが全てではない。だがそれはおくびにもださない。「それだけだ」

「嘘です。あなたさまは世間では薄情で通っておりますが、本当は情のあついお方。そんなあなたさまに嫁ぐことができて本当に良かったと思っています。けれどそれが本当に良かったのでしょうか。わたしの最後を看取りその墓の前でお友達に殉じようとあなたさまは、きっと思っておいでなのです。そうすれば全てが丸く収まるとお考なのでしょう。あなたさまがお友達を見捨てるはずはありませんし、違いますか?」

 涙目のゆきを前にして、なるほど名案じゃ、そういう考えもあるのかと新兵衛は声を上げて笑った。

「ゆきよ。それは思い過ごしってもんじゃ。明日はきっと言うぞ。伝令は他の者にやらせてくれってな。それでわしはおまえに誓う。命を投げ打って戦う。だからもし死んだらそん時は末永くわしの墓を守ってくれるな」

 返事を待たず、ゆきの手を握った。そしてそのまま先に布団に潜り込み、その手を引いた。

「寒かろう」

 入ってくるゆきの肩を抱き、その冷たい足を足でさすった。







十二月八日




 龍馬は別として、新兵衛の父は半平太らを毛嫌いしていた。だからというわけでもないが、新兵衛も半平太らが嫌いだった。理由を上げれば色々ある。参政吉田東洋の暗殺、京での天誅活動などと言っておこうか。だがそれは取って付けた理由で本当はもっと奥底にある。根本的にというか、彼らと交わること自体違和感を覚えたのだ。といって上士らと合うかといえばそれ以上に隔たりを感じる。もしかして二本差し自体を嫌っているのかもしれない。

 そんな新兵衛であったから、土佐勤王党に加わらなかった理由をあからさまに言うわけがない。別に薄情とか臆病とかそんなことではなく、彼らの中でポツンとするのが嫌なだけなのだ。その点でいうなら龍馬がうらやましいと思う。空気を読んで上手く立ち回る才覚があった。そのためか、半平太に可愛がられていた。

 いまでも新兵衛は、龍馬の口から土佐勤王党に加わったと聞いた時のことを思い出す。龍馬は半平太の道場に通っていたのでそうなるのは当然といえば当然だったがその龍馬を前にして、わしをおいていくのかと内心で声も出さずに言ったところ、それが龍馬にはわかったのだろう、この国があぶないんじゃ、すまぬと頭を下げられた。

 ばかなと思った。人ひとりでなにが出来ようか。無謀というしかいいようがない。だが龍馬は大まじめだった。西洋事情に詳しい河田小龍に教えを受けていたし、その小龍を目にかけていたのは吉田東洋である。それと相容れぬ半平太と組むのを心底よしと思ってなかったろうし、半平太が友人であればこそ双方反目するのにはがゆく思ったのだろう。なんだかんだ言っても龍馬は間違いなく、半平太らに疑問を持っていたはずなのだ。もっと言うならば、もしかして新兵衛以上に二本差しの愚かさを痛感していたのかもしれない。

 それでもあえて飛び込んだからには土佐勤王党内部から組織の方向性をかえようとしていたのではなかろうか。龍馬にはそういう度量があった。結局、半平太が吉田東洋を害すと決断するに至り、双方たもとを分かつのだが、その間、半平太らの暴走をずっと止めていた。そしてそれが自分の役目だと思っていたに違いない。その証拠に龍馬が去って、その後の半平太らは見るも無残、武士というより殺し屋に成り下がった。

 半平太がいないいまとなってもみなの性根は変わっていないと新兵衛は思う。その彼らとどう接せればいいのだろうか。龍馬のような度量は持ち合わせていないし、かといっていたぶられるままというのもたえ難い。

 夜明け前の薄暗い中、藩校致道館を前にして新兵衛はそんなことを考えていた。立ち止まっているところに次々と人が追い越していく。土佐勤王党の連中。胸を張ってさっそうと歩くその姿は、己に藩命が下ったことを誇らしく思っているのであろう、生気がみなぎっている。その高揚を見るにつけ、新兵衛は逆にげんなりとしてくる。

 道場の入り口で小笠原謙吉に衣類を手渡された。すでに謙吉はその服を着用していて、洋服にサラシで太刀を固定するといったかっこうをしていた。道場の中を覗くとまるっきり喋らず恐ろしいほどしかめっ面の者もいれば、ベルトをどう止めるかで騒いでいる者もいる。三十人弱が謙吉を手本に見よう見まねで着替えていた。

 やがて全員が着替え終わる頃を見計らってのことであろう、乾と唯八、それに樋口が現れた。みな、かしこまってその言葉を待つ。

 果たして樋口が軍の編成を発表した。

 


 司令    乾退助


 大軍監   小笠原唯八

 小軍監   樋口真吉



 一番隊隊長 大石弥太郎 


 二番隊隊長 五十嵐幾之介


 三番隊隊長 池知退蔵


 四番隊隊長 望月清平


 五番隊隊長 田辺豪次郎 


 そしてそれから外れた者はそれぞれ名前が呼ばれ、配される隊の番号を言い渡される。その最後は新兵衛であった。

「小松新兵衛、伝令。以上」

 どよめきが起こった。そんな中、阿部多司馬のみが手を挙げていた。樋口が乾を見た。「構わんよ」と乾が言う。それを受け、樋口が多司馬を指した。道場が水を打つ。多司馬が立った。

「伝令とはつまり、馬廻りということですか?」

「その名のとおり伝令じゃ、それがどうした」

「馬廻りは大将のそばに控え、伝令はもちろんのこと護衛も努めます。いざとなったら前線へも出ます。新兵衛では心もとない」

 そう言うと多司馬は座った。と同時にざわざわと私語が飛び交う。一方で、新兵衛はうつむく。聞こえてくる声は揶揄するものばかりなのだ。そしてここにいる者はみな、土佐勤王党なのだ。他に人選があったろうになぜこのわしがと向いた下で苦虫を噛む。

「諸君」

 乾の呼び掛けにまた静まり返った。それを見計らって乾が言う。

「一体どういうことかね? 彼は昨日、立派に戦ったのではなかったのかね」

 またざわついた。大体の声は、あれは嫁を守るためで奉公したわけでない、であった。

「やれやれ、君らは相当幕府に毒されているな。メリケンでは国を南北二分して天下分けめの合戦をしたという。南で百万、北で二百万の人が動員されたと聞いた。合わせて三百万の者が戦ったということになる。因みに関ヶ原は精々二十万だ。さて、どうしてメリケンではそのような数になったかだが、分かるかな? 要するに国の人という人が武器を持って戦ったということだ。彼らは武士のように面子や忠義、褒賞のみでは戦ってはいないのだよ。長宗我部もそうだったのだろ。挙国態勢で戦ったからこそ四国を統一出来たのではないのかな。小松君の場合、奥方のためにここへ来たというならそれはそれ、結構なことではないか。さて、唯八、出番だ。頼むよ」

 唯八は威嚇するような眼で場を見渡し、咳払い一つし、言った。「諸君、これは化物退治であるが化物退治にあらず、倒幕の演習だと考えてくれ。これから最新の銃、捕縛の道具等を運び出す。その後直ちに門に集合。隊列を組んで待機するように」

 一斉に立ち上がったところで、謙吉が、「こちらへ」と先を行く。その後を追ってみなが出ていく。詰まった出口の一番後ろで、まごまごと新兵衛はその順番を待っていた。

「小松はこっちだ!」と唯八。

 急に呼ばれびくついた新兵衛は返事もせず、すごすごと乾らの前に進む。何を言われるのだろうと気が気ではない。

 唯八が言った。

「早速だが、みなに先立って鏡村に行ってくれ。庄屋職に命じて村人全てを新宮神社に避難させるんだ。それで君は村の郷士から何人か選び、その先へ進んでくれ。今井村から向こうが知りたい」

 鏡村の庄屋職が惨事を知らせに山を降りて来たが、その川上、土佐山方面に今井村がある。鏡村とは目と鼻の先で隣接していた。唯八が続ける。

「だれも今井村から向こうへ行こうとしないし、降りてくる者もいないのだ。ま、それについてはいまのところは状況確認でいい。敵に合っても逃げて来い。我々は演習しつつ鏡川沿いをのぼっていく。暮六つに鏡村で落ち合おう」

 昨日は樋口に乾の護衛を言い渡された。あっさり反故されたのは肩透かしをくらったが、悪くはない。初っ端から別行動になるのだ。そういう役目ならと、ほっとした。そしてそれがぬか喜びになるのはかなわない。他に何か注文をつけられる前に出口へと向かう。

「小松君」

 それは乾の声であった。どきりとして振り返る。

「スミスアンドウエッソンだ。とっときたまえ」

 洋式短銃である。乾の手から手渡されたそれはずっしりと重かった。

「使い方は樋口先生に聞いてくれ」

 その樋口が「行こう」と新兵衛を誘った。導かれるまま、みなと別の出口から出、道すがら拳銃の使い方を教えられた。

 外に出るとそこには馬が用意してあった。土佐では上士も含め、そのほとんどが馬を持っていない。この致道館で馬術を教授される者はいいだろう。他は乗るなんてことは一生経験できないはずである。

「利口な馬だそうだ。乗り方は馬に教えてもらいなさい。さぁ、行け」

 さっきから言ってもいいものかどうかを新兵衛は迷っていたが、ここへ来て急に心に引っ掛かった。

「乾さんの護衛の件ですが」

「乾さんに悟られたよ」

 それだけ言って樋口は戻っていった。

 乾退助、変わった御仁のようだ。去っていく樋口の背を見ながら新兵衛はそう思った。

「あっと!」

 そこで他の下士らの顔が浮かぶ。今頃、武器庫で騒いているだろう。こうしちゃいられない。馬なんか与えられたのを見られた日にゃぁと、どぎまぎしながら手綱を引いて門の外へ出た。外堀を抜け、江ノ口川を渡ると早速馬に乗ってみた。

 素人なれしているのだろう、馬は新兵衛を乗せても驚かない。並足で進み、その馬上で新兵衛は朝日を見た。陰となった高知城の向こうに、ひかり輝く日が空を赤々と染めていた。

 馬というものに乗ってみて、新兵衛は一つ発見があった。ちょっとした目線の違いが町並みを変えて見せるのだ。塀や垣根越しに町屋の中が見て取れる。立派な松だのうと庭に飾ってある盆栽に感心しつつ、雨どいに落ち葉が詰まっているのを心配する。

 目線の高さといえば、豪商播磨屋の塀である。つい最近その道沿いを歩いたが、こんなに低かったろうかと不思議に思った。子供の頃は塀があまりにも高いから押しつぶされそうで怖くて傍を歩けなかった。あの頃は何もかも大きく見えた。大人だってそう。犬ころだってそう。それをいうなら本丁筋の一丁目から二丁目がどんなに遠かったことか。家を離れればまた帰ってこられるだろうかと尻込みしたものだった。

 ふふっと新兵衛は思い出し笑いをした。家の前で遊んでいるところを通り過ぎてゆく龍馬を思い返していた。

 龍馬は江ノ口川を渡って大膳様町の私塾に通っていた。初めは偉いなとは思ったが、なんのことはない。よく泣いて帰ってきていた。新兵衛はそれを待っていて、あ、来た来たってなものだった。それから一緒に遊んだ。いま考えれば、泣き虫と引っ込み思案がよくもつるんだものだと感心する。あの頃は良かったなぁと新兵衛は心より思った。

 それから鏡川に出て、馬を走らせてみる。思ったよりうまく乗れた。馬の揺れにも息があってきて、さらに速度が上がる。風圧を感じた。空を飛んだとしたらこんな感じなのかもしれない。服がぱたぱたと後ろに踊る。それが空に旋回する鳶や鷹を思わせた。

 さらに速度が上がる。前から後ろへ木々がどんどん流れてゆく。心躍らせた。もっと早く。それに馬が答えた。風を切る。駆け抜ける新兵衛に落ち葉が舞う。わしは風になった、と思った。

 しばらくして急激に速度が落ちる。それから馬は並足になり、立ち止まった。もう鏡村とは目と鼻の先である。新兵衛は馬から降りた。

 どうやら馬は怯えているらしい。震えているのに心配し、鼻筋を撫でながら考えた。この二三日、嫌な感じがしていた。昨日の化物は鏡村を通ってきたというし、それこそその化物が土佐山の方角へ飛んでいくのを目の当たりにした。立ち止まった馬の様子から、その原因がこの道の先にあることは言うまでもない。鞍にかけてあった風呂敷包みと水筒を取った。

「さ、お帰り。ここまでありがとうな。たのしかったよ」 馬の手綱を離した。

 まごまごしている馬に、「さ、行け。こっからはわしの仕事だ」と尻を叩く。馬は来た道を戻っていった。

 その姿が小さくなるまで見守った新兵衛は風呂敷包みの端を肩の方からと脇の方からと回し、それを胸で結ぶ。そして息を大きく吸って、吐く。

 鏡川のざわめき。葉を落とした森。そして閑散とした道に旋風が砂塵を巻き上げて走っていく。鳥の声も全くと言っていいほど聞こえない。下っ腹にぐっと力を入れると、先に進んだ。

 やがて山が開け、山肌一面に鱗のごとく棚田が広がる。刈り取られた田んぼにうっすらと水が張られ、きらきらと光っていた。普通ならそこに水鳥が何羽もいようものだが、いない。あぜ道を器用に歩く腰の曲がった作人がいるばかりだ。

 道沿いに流れる鏡川は正面の山を間仕切りに左右別れ、それぞれ淵源に向かう。そして道もまた、橋で鏡川を一旦またぎ、山に突き当たって川と同じように二股となる。それを左に曲がるとまた二股となり、山へ入る道が現れる。その山道沿いに集落があり、そこが目的の鏡村なのだ。

 早速、庄屋職に会った。待ち望んでいたのか、飛んでくると新兵衛の言葉に、はいっ、はいっと返事も弾んでいる。後から付いてきた村人も、破戒僧に真っ二つに斬られた郷士を見ているので話が早い。その場でだれが残るか人選が行われ、あとは避難する準備に取り掛かる。

 新宮神社は大利村にある。そこは先ほどの鏡川が二手に別れた右側の対岸で、列を造った村人は橋を渡り、そこから折り返して川をさかのぼる方向に進んでゆく。

 一方で、新兵衛は残った者らには篝火の準備を命じた。そして日暮れ前には火を灯せと言い残し、独りで先を目指した。だが、唯八にはそんなことを言われてはいない。篝火なんて一言もなかったし、先に行くのは何人か連れだって行けとのことであった。言うまでもなく、それを敢えて破ったには訳がある。無事、鏡村に帰ってきても暗闇の中で化物に襲われるのはごめんこうむる。

 それにあの化物を思い返すとそんなに危険はなさそうな気もする。やつはただ、太刀が欲しいだけなのではないか。それを差し出せば危害を加えてこないはず。事実、常通寺橋で化物にとって絶好の機会であったにもかかわらず、背を向けていた新兵衛をおいといて橋床に刺さった太刀へと手を伸ばしていた。背負い櫃に詰まった太刀もそれを裏付けする。

 いや、まてよ。それでスミスアンドウエッソン?

 んなはずはないと思う。この考えはだれにも言ってはいないのだ。姑息だと思われるかもしれないが、たぶん言っても馬鹿にされるだろうし、この仕事は自分むきなのだ。己をおいて他、太刀を捨てる馬鹿はいないし、逃げ足だってだれにも負けないという自負がある。

 とはいうものの、化物を捕らえろというなら話は別。それは後からくる乾らがやってくれるだろうし、その準備にも抜かりもないだろう。

 そうであっても、ことは乾らの思うように簡単にはいかないだろうと新兵衛は思う。あの化物はおいといて、この雰囲気がどうも気分を晴らしてくれない。どんよりとした空気に死んだような森。何か大事なことを見落としているのではなかろうか。そういう思いが、知らぬ間に頭の中を支配してしまっている。あの化物がどうして太刀にこだわるかを考えたところでそれはあまり意味をなさないのは分かっている。あれはああいう化物で、皿を数えるなら数えるだけ、小豆を研ぐなら研ぐだけ、化物とはだぶん、そういうものなのだろう。

 鏡村を出たところで道は丁字になる。きっと、この道はさっき最初の二股を右に折れた方に繋がっている。案の定、そこへいくと目前に鏡川がある。

 今井村には既に報せが届いているらしく、大勢の人が川上から下に向けて移動を始めていた。鏡村で残る者の人選をしていたあの間に話が行ったに違いない。子供の手を引く夫婦、杖を付く老人、その傍らで差料持ちらが、混乱が起きぬよう声をかけている。

 今井村の先は?

 ふと、化物が土佐山に向けて飛んでいった光景が頭に浮かんだ。あれは己の意思で飛んでいったわけではないと、いまになって思えた。どうも、なにか別の強い力によって引っ張っていかれたようだった。旋風は下端から空気を吸い込み、上端のところでそれを吐き出していると見受けられるが、化物を巻いた渦はその逆で、細くなっていく方の下端は間違いなく土佐山の方を向いていた。やはり、ことは簡単にはいかないのだろう。

 川沿いの道に出て、人の流れに逆らう形で新兵衛は進んだ。果たして今井村に入ると郷士が五人、待ち受けていた。なにか手伝いたいと言うのだ。それに対して、鏡村で篝火の準備をしているのでそれを手伝ってくれとお願いし、新兵衛はさらに進む。

 それから一刻ほどか歩いて、中切村の前に立った。人の気配が全くないどころか、生臭い匂いが漂う。頭の隅では想像していたが、その場に立ってみると尻込みしてしまう。乾らは今井村から先を知りたいといっていた。川上から降りてくるものがだれもいないからだという。頭をよぎったのは人の死。それも一人や二人ではない。

 ざっと見渡すと村はずっと昔に捨てられた廃村を思わせた。ことごとく戸は閉められていたかと思うと、一方で壁に大きな穴が開いている。傾いている家もあり、屋根の置石や葺かれた板が通りに散乱していた。そしてその雰囲気。空気が沈殿しているというか、溜まっているというか、体全体に重くのしかかってくる。この感覚はなんだろうと考える。本能がそれ以上行くなとでも言っているのであろうか。

意を決して新兵衛は、だれかいるかと声を掛けつつ、注意を周囲に払って進む。小作の家だろう、何軒か狭い敷地に集まっている。そのうちの一軒を選んで入ってみた。

 果たして人が死んでいた。壁の隅で横たわる者、板間から土間に頭から滑り落ちたかっこで止まっている者、障子の下敷きになっている者の計三体である。一面血に染められていて、どういう力がかかったのか家具は尻を丸出しに転倒し、囲炉裏は火山が爆発したように灰をまき散らしていた。

 板の間に上がると空がむき出しであることに気付く。何かが屋根を突き破って侵入してきたのだろう。よく見ると屋根板や置石も板間や土間に転がっている。

 壁の隅で死んでいる者はその手足から男だと判別出来る。どうして新兵衛が性別の確認から始めたかというと、あるはずの頭が半分以上ないのだ。さらにはその死体の腹に大きな穴が空けられていた。そして内蔵がない。

 しゃがんだ新兵衛は傷口というか、えぐられた跡というか、その損傷部を凝視した。明らかにそれは鋭い牙で噛み取られたようであった。侵入した何ものかは肉を好むのだろう。それも人のキモを。おもむろに倒れた障子を退けた。

 そこにある死体は頭がまるっきりない。腹も横からえぐり取られた形で片方の腰の肉で辛うじてつながっている。振り返えると、逆さになって、肩を土間につける死体。手足から女であろう。それから考えると目の前にある死体は大きさからいってこの夫婦の子供に違いない。そしてもう一つ、気付いた。足元に小さな手が転がっている。赤ん坊だ。何ものかは赤ん坊をまるごとがぶりとやった。その顎からはみ出したものがこの手なんだと新兵衛は想像した。


 どの家を見ても状況に変わりがなかった。その惨状が繰り広げられた家々に囲まれて新兵衛は立ち尽くす。どの家からも悲鳴が聞こえてくるようであった。

 耳を抑えた。

 それでもその声は頭の中を駆け巡る。そして恐ろしい黒い影が大口を開けて襲ってくるのを瞑った目蓋に見た。這いつくばって、新兵衛は嘔吐した。

 どれぐらいたったのだろうか、もしかしていくらもたっていなかったのかもしれない。立ち上がった。そしてぐっと前に踏み込んだ。さらに進もうというのである。

 ゆきが今日の朝、別れ際に言った。わたしは死なないと。機嫌を直してくれたかとほっとして笑顔を返した。だがその言葉をそのままとれない。昨夜もわたしのことは構わずに思いっ切りやってくださいみたいなことを言っていた。だがそうであろうか。本当はゆきがわしに言いたかったのはそういうことではなかったに違いない。

「ゆき、すまぬ」

 生きて帰れる保証はない。考えていた状況以上なことが起きてしまっていた。甘かったと言わざるを得ない。

 それでも、ここが始まりでも終わりでもないはず。あの破戒僧風体の化物が常通寺橋からここに降り立った形跡はないし、ここの惨状は状況から別の何かの仕業に相違ない。

 見極めて報告しなければ、後続の者らが大変なことになる。

 ところが、その先の弘瀬村は様子が違った。依然として人がいないものの、荒らされた形跡が見当たらない。中切村のときのように声をかけずに今度はゆるゆると歩みを送る。

 村の中程で家に入ってみる。死体がないのはほっとしたが、人気がないのに人の匂いというか、体温というか、生々しさを感じた。

 かまどの脇に水を満たした桶がある。そこに大豆が浸かっていた。何倍にも膨らんだ大豆を一粒摘む。弾力の具合から丸一日以上は浸かっていると新兵衛はみた。

板間に上がり、囲炉裏に掛かった鍋を火箸で避ける。その下には使われた木炭の灰が混ぜ込まれずにその形を留めている。

 床板を指でなぞる。うっすら線が描かれるが、指先にはそれほど埃はついていない。見渡すともちろん死体なぞない。

 家を出た。たぶん、他の家も同様だろう。これでは村人全員が同時に神隠しにあったようなものである。そして浸った大豆から推察すると消えたのは昨日の晩ではない。村人はおとついの六日、囲炉裏のようすから夕食が終わるまでここにいたのではあるまいか。破戒僧風体の化物が鏡村を通ったのは、ほぼ時を同じくして六日の夕刻。それからやつはあちこち彷徨ったのだろう。七日の朝五つ頃、あの小高坂村での騒ぎであったから、弘瀬村の神隠しと破戒僧風体の化物は関係ないとみていい。

 中切村の惨劇はというと腐敗の具合から見て昨日、七日の夜でほぼ間違いはない。時間的には六日の夕食後に事が起こっただろう弘瀬村の異変とその中切村が関連していそうな気がするが、といっても神隠しと惨劇とはまるでようすが違う。それでいてこれら全てはなんらかの事柄で一つにつながっているといわざるを得ない。どれもあまりに怪異なのだ。だとしたら、それがなにでつながっているのか。答えを得られず、さらに進もうかと、そんなことを考えていた。この先には桑尾村がある。そこまでいけば土佐山の山頂とはもう目と鼻の先だった。

 ふと背後に気配を感じた。振り返ると家屋の途切れたところに十二三の少年が立っていた。声をかけようとしたところ、逃げてゆく。慌ててあとを追った。

 少年は山肌にある田んぼの畦を上へ上へと走っていた。向かう先には庄屋の屋敷がある。果たして少年は屋敷の中に消えた。

 門をくぐるとすぐさま線香の匂いが鼻についた。そして屋敷はというと他とうって変わって荒れている。障子や戸が散乱し床に足の踏み場がないうえ、それは庭にまで及んでいた。庭池に浮いているものもある。植木に寄りかかっているのもある。相当な勢いで飛ばされたことがうかがえる。

 相当なといえば、灯篭の各部位がちりちりに転がっていた。その一つ一つの大きさから、立っていたならば軒よりも高い灯篭であったのは間違いない。土台は直径が四尺もある。それがどうだろう、転んでいる。片方から相当な力がかかったに違いない。

 その一方で庭の一画、大きな植木の前だけは綺麗に片付けられていた。そのなんにもないところに腰ほどの高さにぽっかりと土が盛られてある。新兵衛はそばによって手を合わせた。これは塚なのだ。線香が束ねて燃してあった。

 障子やら石を片づけた後に塚を作った。何ものかが暴れて死人が出た、が、さほどでもない。別の化物か? といっても暴れっぷりは中切村を彷彿させる。

 分からなくなってきた。中切村の被害は甚大だ。それに比べたらこの村はどうだろう。あるいは中切村を襲った何ものかをここでは撃退したというのか。いや、事前に知っていて避難したとも考えられる。そして運悪く逃げ遅れた者が犠牲となった。それでもその中には何らかの対処をして生き延びられた者もいたということか?

 もし中切村を襲ったような敵をさえぎるとしたらと新兵衛は考えた。あの少年は生き延びた。たぶん土蔵に籠ったのだろう。

 果たしてその土蔵には横から大きな穴が穿たれていた。そこから中に入ってみると白い壁のところどころに血しぶきがかかっている。死体はというと片付けられたに違いない。となると十中八九、あの塚はここで死んだ者ら。ならば、あの少年は事前に避難できた者らの方の手。戻ってきて犠牲者を葬ったのだろう。あの少年から他の村人の行方を聞き出せるかもしれない。

 そう想像しつつ土蔵から出たところで新兵衛は不意に、その少年の姿を見た。濡れ縁に立っている。それがきびすを返し、屋敷の中に入っていった。

「待て! 待ってくれ!」と慌てて追う。

 なぜ逃げるのか? 走りながらもそんな疑問が頭を占領していた。化物と勘違いされているのだろうか。いや、そうとばかりはいえない。どうも誘っているようにも見える。よくよく考えると土蔵から新兵衛が出てくるのは待っていたようでもあった。

 障子やら襖がなくなっていてさえぎるところもなにもない中を少年は走っていく。それが立ち止まった。なぜかそこだけ板戸があった。少年はその戸を引き、一歩踏み出すと身を翻して戸を閉めた。もう少しで少年に手が届くところだった新兵衛は転がるようにその戸にへばり付いた。

「わしは城下の郷士、小松新兵衛ってもんじゃ。藩命によりここに来た。危害は加えん。すまぬがちょっとだけこの戸を開けてもらえぬか」

 返事がない。

「ほんのちょっと開けてくれ、なぁに一尺もいらない。なにも食ってないんじゃろ。ここに握り飯がある」

 少しだけ戸が開いた。すかさず背中の風呂敷包みと腰の水筒をその間に差し込む。するとそれは一瞬で中に消え、戸はまた閉まった。

 逃げ込んだ場所に、その怯えきり様。もしかしてこの村で残っているのはこの少年だけではなかろうか。そんな考えが新兵衛の頭を巡った。と同時に疑問も湧く。もしそうならどうやって生き延びたのだろう。生半可なことではない。それを考えると中切村の惨劇が頭の中で重なってきて胸が苦しくなる。なんとしてでもこの子を生かしたい。命に変えても鏡村まで連れて行く。

 とはいうものの引きずっていく訳にもいかない。何が起こるかわからないところを進んでゆくのだ。途中で逃げたり、勝手なまねをされたりではもちろん生還は難しい。だからといって首根っこをふん掴まえてなんてことをしてもそれとはなんら変わりない。要は少年自らの意思で鏡村まで下ってもらわなくてはならないということ。差し当って、この隠れ家から出る気があるのかないのか、先ずそれからだ。

「スミスアンドウエッソンって、知っているか。メリケンの銃で五連発だ。火縄のように面倒な玉込めはないし、敵が来たらドン、ドン、ドンと五発まで即発射出来るっていう代物だ。日ノ本には数えるくらいしか入ってきていない。ほしいか?」

 返事がない。

「それをいま持っている。鏡村まで行くと約束してくれたらあげてもいい。どうか?」

 だが反応はなかった。さて、どうしたものかと思い悩んだ。考えてみれば銃なぞより命なのだ。銃を持ったからといって命の保証はないし、かといって銃ほしさに命を捨てはしない。だれでもが出来る足し算引き算といえよう。ましてはこの状況で生き残ったほどの子である。

 わしとしたことがと、苦虫を噛む。やはり正攻法で説得するしかないか。だが新兵衛はというとそれを得意とはしていない。

 と、この時。地面から伝わる地鳴りと空気を震わす轟音がいっしょくたになって襲ってきた。咄嗟に銃を床に置き、「これで身を守れ!」と新兵衛は走った。

 屋敷を出ると音がきたと思しき方向を見た。斜面ずっと左上に寺がある。そこに砂塵が上がっていた。

 尋常ではないと驚きつつ斜面を駆け上がる。ほどなく山門の石段を横から入った。そこで一転、息を潜めた。身を低くして両手両足、石段をよじ登るように進む。

 突然だった。山門を鞭で叩くように、巨大な黒い帯が走ったかと思うと音の衝撃に襲われた。ぎょっとして無防備なところにのべつまくなし瓦や木片が空から落ちてくる。慌てて、石段を駆け下りる。が、踏みとどまる。これは明らかに新兵衛への攻撃ではない。振り向くと棒を起こすように黒い帯が山門を支点に起き上がってきている。太陽と重なり逆光となっていてその端は見えないが、それが垂直に達したかと思うと今度は新兵衛目掛けて倒れてくる。

 当たる寸前、その帯は身を翻した。新兵衛の頭上で風を切り、大きく円を描いて山門の右側の築地塀に張り付く。

 それは巨大な百足であった。新兵衛は目の前でそれが翻った時、しっかりと見た。平ペったい顔の下ヅラに鎌状の牙が生え、両側面には毬ほどの眼球がついていた。焦点が合っているのかいないのか、新兵衛と目が合ったはずである。真っ黒く光沢のある硝子玉に新兵衛の顔が映っていた。それがグンっと右に振れる。先端の赤いヒゲが急激な動きの変化に一旦はおいてけぼりをくらうも、あとから棚引き付いていき、そして行ってしまった。

 大百足の無数の赤い足が動くと波をうつようである。築地塀の高さとほぼ同じ幅の赤い頭が塀にへばりついて走ってゆき、黒い胴の節も次から次へそれに続く。だがそれでもまだその全貌は見せていない。その先は右に傾いている山門の棟瓦を折り返してその向うにある。それが棟瓦を越え二本の尾脚が天を指した。全長十五、六間はあろうか。悠長に、固唾を呑んでいた新兵衛であったが、そうはさせてもらえない。さらなる音の衝撃が辺りを襲う。

 さっきのとは段違いであった。踏ん張っていなければ新兵衛は石段を真っ逆さまに転げ落ちていただろう。山門の甍はというと散々に飛び散り、空中に舞っていた。それがバラバラ落ちてくるのに驚き、這いつくばって頭を抱えた。そして瓦礫の下となった新兵衛は見た。ぺしゃんこになった山門の上で白い大蛇が鎌首をもたげている。体格は百足の方より大きいか、それが身をひるがえした。

 一方で大百足はほとんど築地塀を越えていて最後の二節、三節を残すのみである。また境内にもどっていくのに、回り込んで大蛇の後ろを襲おうとしていると新兵衛は直感した。

 それを大蛇は許すはずもない。視界から消えたと思うや否や、頭と入れ代わるかたちで尻尾が飛んできた。そのしなり戻りが瓦礫となった山門を横にさらう。轟音とともに砂埃が舞った。

 やつらは戦っているんだと新兵衛は思った。あの大きさからみて、中切村や弘瀬村を襲ったのはこの二匹ではない。だがそれがどうしたという。破戒僧なぞほんの序の口だった。嫌な予感はしていた。これがその答えか。

 視界が晴れ、山門は綺麗さっぱり無くなっていた。築地塀も山門との接点から両方半分はその姿を失っている。瓦礫から這い出した新兵衛はその姿勢のままじりじりと石段を這い上がり、その上端からそろりと顔を出した。

 大蛇と大百足は互いに鎌首を挙げ、にらみ合っていた。おのおのが隙を狙っての膠着状態である。ああやっているうちはいいと新兵衛は思う。動き出せば被害は甚大だ。

 だがどうやってこいつらを退治する? あの動きの速さから大砲はまず当たらないだろう。

 ともかくも、乾らに報せなくてはならない。その前に、あの少年! 這いつくばったまま、後退した。立ち上がってもあの二匹の視界に入らないところまでどうにか下がると石段を駆け下りた。

 一目散に走って、庄屋の屋敷に戻った。しかし、少年はいなかった。それであちこちの家に飛び込んだ。果たして影形もない。

 そうなのだ。彼らはここで生き延びたのだ。探したって見つかりっこない。諦めて、新兵衛は道の真ん中にあぐらを組んで目を瞑った。少年の方から出て来てもらう以外ない。

 だがこの感じ、この無防備さ。母の手から離れ、独り歩きしだしたときの様だった。あれから母はどうなったのか、記憶は途中からすっぽり抜けて消えてなくなっていた。死んだのか、父と別れたのか。逝ってしまった父はそれについは何も言ってはくれなかった。

 押し寄せる怖いという感情を必死に押しとどめる。風の音が微かにするだけであった。この数日間でいくつの化物を見たというのだろうか。架空とまでは言わないにしろ、普通の人生で言うなら一体でも、それは全くと言っていいほどあり得ない。それが三体。見ていないのを含めると四体。まるで地獄の蓋が開かれたようであった。あるいはあの少年も化物。そう思うと背筋が凍った。

 しかし、腑に落ちないこともある。あの塚の大きさである。これほどの村だ。あれでは小さすぎる。やはり村人はどこかに避難している。それなら村人がごっそりいなくなったのに理由がつく。

 だがそうだろうか。似通っているものの中切村と全く違う手口だったら。

 やはりあの少年は化物なのか。いや、今更そんなことをいっても始まらない。もうそこまで、少年は来ている。足音がした。一歩一歩踏み出す音が新兵衛の徐々に高鳴る鼓動に重なっていく。

 やがてそれは止まった。固唾を飲んで新兵衛は目を開ける。そこに立つ少年が言った。

「小松さん、藩命で来たと言ったが一人か?」

「一人だ」

 自分が偵察で本隊が後ろから来ているということをいまは言いたくなかった。少年はというと残念な表情を見せ、そして言う。

「これ、貰っておくよ」 太刀を差すように、帯に銃を差していた。それに違和感がなく、しっくりしたその様子に新兵衛は確信した。

 生身の人間だ。たすけなくては。

「撃鉄を起こして引き金を引く。それで弾が出る。反動がでかいので上に逃がすように」

「ありがとう、小松さん」 

 少年は去ろうとした。「まってくれ!」

 少年が足を止めた。

「名は? 親父は郷士か?」

「西森安吾、親父は地下浪人じゃ」 

 そう言うと走っていった。

 間違いない。新兵衛は安吾と名乗った少年を追う。正真正銘の人間、少年は土佐の下士なのだ。

 果たして今度はうまく捕まえることが出来た。後ろ襟と掴んで引き寄せる。

「鏡村に討伐隊が入る。今日の夕方だ」

 その言葉に安吾は食らいついた。

「大将はどんなやつなんだい? いけ好かないのか?」

 やはり下士の息子だ。しかしどうしてそんなことを聞くのか。だが答えなくてはなるまい。

「上士とは思えぬいいおひとだ」

「いいひとか」 安吾はなにやら考えあぐねている。いいひとだけでは身を預けるには言葉が足りないのだろうか。新兵衛は考えた。考えた挙句、正直な感想が思わず口についてしまった。

「変わったおひとだ」

 その言葉に安吾の表情が明るくなった。そうだ、安吾が思うとおり変わったぐらいではないとこの状況は打開出来ない。その安吾が叫んだ。

「おねぇちゃん!」

 遠くの家の影から娘が顔を出した。それが小走りに来る。年は十五六であろう。あの庄屋の隠れ家で安吾はただ一人ではなかったのだ。きっとこの娘と一緒にいた。そして守っていた。たぶん娘の方が一歩も動けなかったのだろう。それで新兵衛から来てもらうために誘った。そうなんだろ? 安吾、と新兵衛は内心問いかけた。だが、そんなことは分からない安吾が言う。

「どうしても大将にお願いしたいことがある」 そして娘に向かって言う。「行こう」

 娘の名は弘瀬たえと言った。あの屋敷の、庄屋職の娘だ。それだけは分かったが、安吾もたえも他には口をきかない。喋っている時間が惜しいというわけか、乾さんに会いたいとみえる。新兵衛を置いていきかねない足送りだった。それが中切村に入った途端、様子が変わった。鼻につく血の匂いにそこでなにが起こったか、分かったのだろう。安吾は噛み締めるように涙を流し、たえはというと耐えられないのだろう、声をあげて泣く。

 それ以後、二人がとぼとぼと歩くのに新兵衛は急かさなかった。日は傾きだしていた。山に沈んでしまわない内に鏡村に入りたい。村を抜けても二人の速度は上がらなかった。たぶん、この二人はその全てを知っているのであろう。荒れ果てた中切村を越えた後、その落胆と怯えぶりからうかがい知れる。一体なにがあんなひどいことをしたのか。周囲への注意は否応なしに高められ、過剰なまでの警戒心が風で揺れた葉などでも見逃すことを許さない。そしてその度ごとに気を張り、精神力を消耗させていく。運を天に任すくらいの気概がないと戦場では生き残れないと戦国の頃の武士は言ったそうだが、それをもし、この場でだれかが言おうものならどうだろう。このじわじわ来る恐怖には慰めにもならない。実際、新兵衛らは中切村を襲った何ものかから見れば獲物そのものなのだ。やつが新兵衛らを見つけられるか、そうでないか。それを運というなら、どうかその何ものかはあほうであってほしい。であるなら、そいつは獲物をみすみす見逃すということなのだ。そしてあほなためにどこぞの山奥で迷ってしまい二度と山を降りてこられない、なんてことになってほしいとそれこそ天に願う。だがそうもいくまいな、とも思う。何ものかは人肉を欲しているのだ。ならば人が行き交うこの道沿いで待ち伏せしているのは必定。

 山の中を行くか。そんなことを考え始めた頃、たえがしゃがんだまま動けなくなってしまった。肉体的にも精神的にも限界なのだろう。その気持ちは十分分かる。だが時間は刻々と日暮れへと向かっている。

「仇を討つんじゃろ!」

 安吾のその声に、たえは立った。ほっとしたものの新兵衛は、山の中を行くには無理だと思った。鏡村に到達できず、森の中で野宿するのと比べるなら、日があるいま、何ものかに出くわした方のがよっぽどましなのだ。

 やがてその日陽も山の端に掛かり始める。それを見た安吾とたえが打って変って足取りを早くした。それでいよいよ新兵衛は確信した。何ものかは夜に姿を現す。

 果たして、その推察通りその何ものかは今井村のほど近く、鏡川の底で目を覚ます。暗い淵に同化し、目だけがぎらぎらと光っていた。

 そうとは知らず新兵衛らは無人の今井村を走っていた。鏡村はもう目と鼻の先である。日没直後で、白日は太陽の残り火だけでなんとかもっていた。

 それもほんのちょっとの間。辺りは唐突にとっぷりと暮れ、こうこうと光を発する篝火が鏡村だけを闇の中に浮かび上がらせていた。安吾とたえの手を引いた新兵衛は、漆黒の世界から抜け出そうと無我夢中であった。光と暗黒の境界線はもうすぐそこにある。安吾もたえも足を絡ませて立て直しの連続であった。

 光の中には藩兵が三人立っていた。それが新兵衛らに気付いたようで、なにごとかと叫んでいる。その手振りから止まれと言っているのだろう。そんなこと無視して新兵衛らは光の中へ飛び込んだ。

 果たして新兵衛が帰ってきたのに、藩兵らのほとんどは驚いた。既に落ち合う時刻は過ぎていた。逃げてしまったか、殺されてしまったかと思っていたのである。その藩兵らの案内で新兵衛らは庄屋の屋敷に入った。そこで安吾とたえから引き離されると奥の部屋に通された。そこには乾、唯八、樋口の三人が待っていた。

 まず、唯八がかんかんだった。一人で行ったのはなぜかとか、なぜ、なぜの質問攻めである。それに新兵衛が答えないのに余計頭にきたのだろう、命令違反だから隊から外すと言い出す。城下に戻ったらどんな処分となるのだろうかと当の新兵衛はぼんやり考えていた。そこへ乾が助け舟、と言ってもいいものか、口を挟んだ。

「そんなことより唯八、僕は小松君が見たことを聞きたいんだ」

 唯八がむっとした。そしてぶっきらぼうに言った。「小松、話せ」

 新兵衛は中切村のこと、弘瀬村のこと、見たこと全てを話した。乾も唯八も樋口も言葉を失っていた。当然だろう。討伐は破戒僧風体の化物を考えていたはずである。案の定、唯八は馬鹿を申すでないと取り合わないどころか、また癇癪を起しはじめる。

 だが実際にその目で見たのだ。山門を一瞬のうちに破壊してしまう化物がこの先、二体。そして姿を見せない人を食う化物が一体。この話を聞いた者はだれでも唯八のようになるとは思っていたが、ただ、乾は違った。

「あの子達はどうなんだ?」

 え? どうなんだってどういうことなんだろうと新兵衛は考えた。元気だと言えば元気だし、気落ちしていると言えばそうだろう。いや、そういうことではない。どうなんだってことは化物じゃないかと疑っているってことか。この話の流れからならそう取れる。

「いや、間違いなく人間です」

 ふふっと乾が笑った。「小松君、化物と分かって連れてくるばかがいるかい。そうじゃないよ。話せるのかい? って聞いたんだ。あの子達の話も聞きたいんだ。なぜ、生き延びられたのか、とかな。君はなにか聞いたかい?」

「いや、なにも。というか、それどころでは」

「で、いま、喋れるのか? あの子達」

 様子を見に行きましょう、と樋口がその場を立った。その一方で新兵衛はふと、道中で安吾がたえに言った言葉と思い出す。

「そういえば、仇を討つと言っていました」

! 「そう言ったのか?」

「はい。それと乾さまにお願いしたいことがあるそうです」

 的を射たのか、乾の顔色が明るくなった。樋口を待ちきれないようである。立ってうろうろとしだす。そこに樋口が戻ってくると、どうかね? とは尋ねているがもう足は安吾らのところへ行っている。それを察したのか、樋口はその答えを飛ばして、お一人で? と問を返す。

「いいや、君たちも一緒だ。もちろん小松君もだ」

 果たして安吾とたえは畏まっていた。深々と頭を下げた状態で身動きすらしない。確かに上士相手では十二三の子供はそうなる。ましてやその頂点ともいえる大監察を前にして平然とはしていられない。

「お願いってのはなんだい」

 そう乾が言うと、どきりとしたようで、安吾はなにも言わず平伏する。

「やりにくいなぁ」と乾。安吾に近づくとその肩を起こして、目を合わず。「仇を取るんだろ」

 呆気にとられた安吾だが、言った。

「はい」

「そうか。頼もしい。で、その君たちが僕にお願いがあるってことは、この僕に仇を取るためになにかしろってことなんだろ」

「い、いえ、いや、はい」

「僕に詳しく話してくれないか。どうにもわからん。小松君に聞いたことによると正直、我々でもお手上げだ。それを子供と言って申し訳ないが、君たちが仇を討とうとしている。その辺のところが知りたい」

「はい」と安吾は話を始めた。

 ことはおとついの昼過ぎ、鏡川で桐の箱を拾ったことから始まったという。大きさはこれくらいと手で示してみせた。縦横六寸三寸の高さ一寸くらいか。ひと目で高価な品が入っていると感じ、たえを連れて廃寺の本堂でその蓋を開けた。するとそれを待っていたかのように札が中から次から次と飛び出した。

 床に落ちた札は見たところ唐草模様なのか、広がった場はその絵ばかりだった。好奇心にかられ、安吾は一枚を拾ってみたという。

 裏には立派な絵と字が書いてあった。弁慶のような僧と『刀鬼』である。それでもう一枚捲ってみた。今度の札は蜘蛛のような形で頭が牛の怪物に『牛鬼』とある。なにか嫌な予感がしたという。

 おどろおどろしいのだ。一見して、めでたい絵柄でないことは分かる。書いている単語も忌むべきものだ。人に仇成すものであることは容易に想像できる。

 それが人の手によって描かれていたのならばまだいい。なにかの遊びか、儀式かなにかに使われるのだろうと都合良く考えられる。

 だがどう見たってこの札はそうではない。筆を刷いた痕跡は見受けられないし、細部も省略せずこと細かく表現している。

 描いたのではないとしたら。

 いや、よそう。百歩譲ってそれは見立て違いだったとして、それでも札から絵の化物がいまにも飛び出してきそうな気配がする。安吾もたえも背筋に寒気が拭い切れない。

 もしかしてとんでもないことをしたのであるまいか。

 その想像は間違いではなかった。ふと、後ろに気配を感じた。固唾を呑んで、恐る恐る振り返る。

 そこに見た絵そのままの僧が立っていた。

「あっ!」 安吾とたえは抱き合った。

 じーっと僧はそれを見下ろしていた。そして何も言わず去っていった。

『牛鬼』とあるもう一方の札。

 それを思った途端、安吾もたえも体の震えが止まらない。逃げなくてはと立とうとするが、腰が抜けてもがくばかり。それでも二人は転げるようになんとか本堂を出た。そこでやっと腰に力が入り、そのまま裏手に走り、山の中に身を隠した。

 どれくらいたったのだろうか、自分たちの名前が呼ばれるのに安吾とたえは目を覚ました。抱き合って縮こまっているうちに寝てしまったに違いない。もう日は暮れていた。たえが返事をしようとしたまさにその時、葉擦れの音が聞こえた。はっとして二人は藪の下に潜る。遠く暗闇の中に光る目があった。それが向きを変えたのだろう、消えた。

 山には安吾とたえを呼ぶ声が木霊していた。たえは庄屋職の娘である。村人は総出で二人を探していた。それが悲鳴に変わる。安吾とたえはここでは危ないと大きな木を見つけてその上に登った。そこからは松明の山に散らばる様子が手に取るように分かる。そしてそれが悲鳴とともに次々と消えていくのも否応なしに目に入った。

 恐ろしかった。身動きすら出来なかった。

 翌朝、安吾もたえも山を下りた。恐怖はあったが村人のことが心配であった。いや、取り残されるのが不安だったのかもしれない。そしてそういう意味でいうなら二人の予感は的中していた。

 廃寺の境内は死体の山であった。身内を探そうにも頭を食い取られ、誰かだれだか分からない。見るも無残。たぶん、山中もそうであろう。夜、唐突にあのような化物と森で出くわせば取り乱すっていうものじゃない。なされるまま。そう、餌になるしかない。ただ境内でいうなら村人たちは戦った。太刀や武器となった農具が四散している。ここで食い止めていたのであろう。

 それでも安吾はだれか生き残っている者がいるかもしれないと思った。これだけの人が戦ったのだ。死体はないにしろ怪物とてただでは済まされまい。そんな思いで村に降りて探し回ったがそれも徒労に終わる。だれもいないうえ、あの庄屋の土蔵である。死んでいたのは乳飲み子、幼子、そして女二人。連絡があってここに避難したのであろう。そしてそれはたえの捜索を庄屋に許されたか弱き者たちだった。

 壁を突き破らんとする音がどんなに恐ろしかったことか、そこに立っていると安吾はその音が聞こえてきそうな気がした。そして小さくなって震える子供達。みな見知っているから怯えるその顔が目に浮かんできてしまう。たえはほとんど発狂していた。そのたえを屋敷の中に入れると安吾は死体を運び出し、それに土を被せて葬った。

 不謹慎かもしれないが、なにかしていると正気が保てる気がした。だがそれも終わってしまう。やるべきなにかを探しているともう一度あの廃寺に行ってみようという気になってしまった。

 どうかしていると思ったが、一旦思うと、いてもたってもいられない。それに、たぶんではあるがあの恐ろしい目の化物は、昼間は襲ってこないと思えた。札を捲ってもすぐ出て来なかったことからみて、日光が苦手なのだろう。いまはきっと現れはしない。どこか暗い闇の中で光から身を隠しているに違いない。

 果たして安吾の推察通りであった。昨日、札が捲られると『牛鬼』は弘瀬村の少し下手の川淵に姿を現した。日中だったのでそこから出ることなく日が落ちるのを待っていた。日が暮れれば一旦はあの札を目指し廃寺に向かうのである。そして実際、そこで惨劇が起こった。

 ともかくもたえをそこに置いて安吾は屋敷を出た。

 札はまだ本堂にあった。二枚捲ったはずだが全てが裏返っている。だれか触ったのだろうか。その札の前で、安吾は立ち尽くす。確信したのだ。信じられないことだが、札は自分でもとに戻ったに違いない。考えてみれば箱の蓋を開けた時も勝手に飛び出してきた。いや、そんなことなんて些細なことだ。この惨状。それを引き起こした元凶がこの札なのだ。ものすごい霊力があるのは十二三の少年とて分かろうというもの。だれがなんのためにと思うと恐ろしくもあり、不思議でもあった。

 無秩序に並ぶ札は自らが宙を舞って掻き混ぜた結果である。それを眺めているうちに安吾は、はっとした。もしかしてこの中にアタリが有るのではないか。

 その考えに、安吾は迷いに迷った。アタリがあればどうなるんだ? 

 いや、そんなことより仮にアタリがあるならハズレもある。そしてハズレの方がだんぜん多いに決まっている。あんなのがどんどん出てこられでもしたら命がいくつあってもたりはしない。というか、自分の命だけでは済まされない。国中が大惨事になる。しかしそれとは裏腹に、安吾の手は札に向けて伸びていた。

 イチかバチかだ。一枚、これというものを選んだ。

 捲るろう!

 すると急激に心臓が高鳴った。そのうえ喉がギュッと締め付けられてで息が詰まる。それでも細い息を過剰に繰り返し、なんとか札に触れる。が、手が震えて爪を札の端に引っ掛けられない。がりがり床板を爪で掻くも全く埒があかない。息も苦しくなる。手を引っ込めた。

 途端、息がやわらぎ、心臓の音も聞こえなくなった。ほっとしたそこで鼻の下に生温いものを感じる。鼻水かと思ったら鼻血だった。拭った裾にべっとりと血がついている。逆上せている。

 大きく息を吸って気を取り直す。そして札に手をつけた。先のほどの苦しみはもうない。ゆっくりと札を開ける。


 弁慶のような僧と『刀鬼』


 あっ! 昨日と同じものを引いてしまった! 

 一瞬そう思ったが、いや、違う! もう一度、場を見返した。

 間違ってない。昨日とはまったく別の場所を引いている。だが待てよ。それがどうしたというのだ。

 固唾を呑んだ。

 また、僧が現れる。そう思って後ろを振り返った。が、しかしいない。

 ずっと待った。

 ところが現れない。不安と緊張に押しつぶされそうで頭が変になりそうだった。うなだれた下で、手で顔を覆い、そして拭う。

 ふと、この状態のまま、昨日の『刀鬼』を引いたらどうなるだろうという考えが頭の中をよぎる。僧が現れないので無理矢理にも出てこさそうとしているのか。己の考えに苦笑した。それでもその札に手が伸びる。気が狂ってしまったに違いない。そう思いつつ安吾は札を捲った。


 弁慶のような僧と『刀鬼』


 場にふたつの『刀鬼』がある。まったく同じ絵でおなじ文字だ。それが突然、跳ね上がった。そして桐の箱にすっぽりおさまる。途端、箱が唸りを上げた。ごーごー鳴っているところに屋根を突き破って昨日の僧が飛び込んできた。風の渦に巻かれ、その回転の勢いから飴細工で飴が伸ばされるように体が細く長く引き伸ばされている。それが旋回する風諸共、桐の箱の中へと消えていった。

 安吾は固まっていた。

 あっと思った。同じ絵を引けば化物は消える。それは間違いないと確信した。なんせその目で見たのだ。

 あの化物を消すことができる! あの憎らしい化物を!

 暗闇に目を光らせる何ものかを思い出していた。『牛鬼』と札には書いてあった。出くわしたとき、暗闇でまっくらで見えなかったが札にはその姿がちゃんと描かれていた。ぱっと見、蜘蛛を思わせる。タンゴを二つ串に刺したような胴と片方三本のつごう六本、細く長く甲虫の足を思わせるそれがついていて、恐ろしいことにおのおの肘から象牙を思わせる爪が伸びている。そして牛の頭。草食のはずだが、どの歯も尖った犬歯のようで、上からはともかく下からも生えている。その顎にやられたらひとたまりもない。そして最も恐ろしいのはその目だ。人のとまったく同じで、知性や感情を感じずにはいられない。

 それをなんとか引き当てて、退治する。目の前に広がる札はざっとみて二十かそれ前後だったはず。それが目の当たりにしてみるとなんと多く見えることか。三十や四十じゃぁきかない。

 耐え難い不安と緊張にまた襲われる。喉がひりひりし、口の中はからからだった。うつむいたところで顔を手で覆い、拭う。手が脂汗でべちょべちょだった。

 固唾を飲む。

 これだと決めたところを勢い良く開ける。


 白い蛇に『うわばみ』


 外で、砂が擦れる音がした。しだいに大きくなる。向かってきているようだった。それがザザザっと間近までくると、豪音と共に本堂の戸が四枚、跳ねとんだ。目の前に巨大な蛇の頭がある。触れるか触れないかのところで、二つに割れた真っ赤な舌が踊っている。その舌が引っ込んだかと思うと顔が上下に避けた。天板に届かんばかりの大口。

 食われる!

 無我夢中に、それこそ手元を見ずに札を捲った。

 外で、今度はカサカサっと笊のうえで豆を転がすような音が聞こえた。途端、うわばみが口を閉じ、振り返る、その頭を横に振る動きで、残っていたうわばみを挟むようにある戸板が二枚飛んだ。左側は安吾の方へ、右側は外へ。


「それから二匹が戦い始めた」

「それで君は命からがらそこから離れたが二度と戻れなってしまった。だからその本堂に行きたいと君は言うんだね」と乾。

 安吾は深くうなずいた。

「こんな時に嘘を言ってはいけないよ、西森君」

 驚いた。突然、乾はなにを言い出すのかと新兵衛は思った。わしの話は聞いてくれたのに、安吾のはハナから全否定か、それはないってもんだろ、

「乾さん!」と叫んで割って入ろうとしたところ、樋口に袖を掴まれた。

「乾さんと西森が話をしている」

「されど、」と新兵衛は返したが、樋口は首を横に振る。

「な。小松君も納得しないではないか。だから小松君がいるこの場で言いたいのだが、いいかな。西森君、いや、弘瀬君」

 たえは平伏したままで顔を見せない。新兵衛はというと腑に落ちない。今度は話がたえに移っている。一体、この子供らをどうしたいんだ、乾さん。

「返事がないってことは嫌なのかい。じゃぁ、君は行かないのだね」

「行きます。行きたいです」と蚊の泣くような声でたえが言った。「乾さん! おかしいじゃないか。なんでたえがわしらと一緒に行く! たえは大利村の新宮神社に避難するんじゃなかったのか!」

「ほらね。小松君がそう言ってしまうだろ。こう見えてもね、彼は女性には理解があるんだ」

 平伏したたえに返事はない。乾が続けた。

「じゃあ、言わせてもらうが貝合わせを知っているかね。女の子だから聞いたことがあるだろ。平安の昔には貝覆いといったらしいが、二枚貝のちょうつがいを割っておのおの二つに分ける。それが幾つもあってそうした物の中からそれぞれ合うのを見つけるという遊びなんだが、これはそれと一緒だろ」

「わしが悪んです!」と安吾が声を上げた。「拾ってきたのはわしじゃ。桐の箱をねぇちゃんにあげて」 「弘瀬君が初めに札を二枚捲った」とすかさず乾。

「ねぇちゃんは関係ない!」

「西森君、だれが拾ってもこうなっていたよ。もちろん僕でもね。といっても弘瀬君がやったら西森君の番、それが終わったらまた弘瀬君の番。そうだろ」

 たえが顔を上げた。涙を一杯目に溜め、乾を見ていた。

「大丈夫。小松君がついている。彼はあの僧と戦ったんだ。そして見事、取り押さえた」

 わしになにをさせようとしているのか。新兵衛は嫌な予感がした。乾が続けた。

「ちょうど良いことに西森君で順番が止まっている。それでだ、小松君にその次をやってもらうと思う。心強いだろ。もちろん僕らはうわばみと大百足を引きつけておくよ」

 呆気にとられ、ぽかんと口を開ける安吾とたえ。それが一変、床に擦り付けるように頭を下げた。

 乾退助は変わっている、土佐には珍しい男だと新兵衛は思った。大体の男は南海の風土がそうしているのか、頑固を男らしいと思い、その頑固をしたいがために馬鹿なことを大真面目に言い出し、そして引かない。土佐者は全く人の言うことを聞かないのだ。理屈もなにもあったものではない。武士には一分があるというけれど土佐者には七分も八分もあるのではないかとそれを知らない者は思う。見た目、ほとんど偉っそうである。そういう匂いが乾には感じ取れない。たぶん、間違っていたら間違っていたというのであろう。そんな乾を神輿に担ぐ下士連中はきっと心底、尊敬の念を抱いていない。皆、本論を置いといて頑固比べをしたいのに、乾は相手になってくれない。それでは頑固をやっている方が馬鹿に見える。だが、しょうがないのだ。彼らはわがままを通したいし好き勝手したい。持て余すほどの暇があり、かといって小作から入る米で生活が成り立つのだからちまちまと働きはしない。己の考えを思い通りに表現できる、そのような都合のいい働き口を探しているのだ。

 だから、己の選んだ頭がいる。その乾はというと鏡村にくる途中、一体どんな調練を集めた下士に施したのだろうか。思うに、好きなようにやらしていたのではあるまいか。いざその時となったらうまく使ってやるさと、でんと構えていたに違いない。ただ、唯八の方は目を血走らせ、大変な剣幕であっただろう。それでどうにかこうにか隊としての体裁が整った。そのために唯八も加わっているはずだ。それもきっと乾さんの計算のうちだろうが。たえのことも、普通ならかわいそうにと思い、大利村に避難させる。だがそうはならなかった。ほっとする反面、もしそうしていたら明日はどうなっていたのか。

 不意に、銃声がした。五六発。「小松君、二人を頼んだよ」と言った乾に続き唯八、樋口が飛びだしていく。たえは部屋の隅で縮こまり、安吾はそれを守るように拳銃を構える。外では銃声が鳴り止まない。こっちにいる!とか、追い込め!とか叫び声が聞こえる。

 燭台の火がゆらゆらと揺れていた。うわばみと大百足ではない。夜に活動し人肉を求める化物。それを安吾は『牛鬼』と言っていた。脳を食い取られ、内蔵をすすられた死体。足元に転がった赤子の小さな手が思い返される。あれは家族団欒のところへ不意に飛び込んできて、手当たり次第に食い散らかした。そして血が飛び散った家の中で、顎からしたたらせた血を舌でべろりとやっていたのだろう。

 ふと、天井からの音に気付く。三人に緊張が走った。やつはこの屋根の上にいる。

 カツカツと瓦を硬いものでこつく音が部屋に響く。銃声は止まっていた。外の者らは『牛鬼』を見失ったのだろう。息を凝らして天井を見上げる。

 乾いた音は右へ移動したかと思えば左に向かう。行ったなと思えばまた戻ってくる。行け! 行け! と新兵衛は心で念じているが、その音は無常にも三人の真上で止まった。

 固唾を呑んだ。穿つと思えるほどの強い視線を天板に向けて、安吾もたえも固まっている。

 どこへ行ったと男たちの叫び声が四方八方から聞こえてくる。ここだ! とは言えない。ただ、息を凝らして去ってもらうのを待つばかりなのだ。

「いた!」と外で、『牛鬼』の姿をこの屋敷の屋根に見たのであろう、大きな声が飛んだかと思うと今度は天井からガツンと叩いたような音が響く。『牛鬼』は屋根を跳ねたに違いない。立ち去ったかと、ほっとした矢先、ふすまの向こうでドカンと大きな衝撃音を聞いた。そして埃がそこで充満したのだろう、閉じているふすまの間から白煙が漏れてくる。

 やつは一旦飛んでその体重に任せて瓦をぶち破り、隣の部屋に入った。

 『牛鬼』は匂いから狙いを定めてここに入ってきたのだと新兵衛は直感した。目的は子供。若鳥が美味いのを人に例えていうのはよこしまな考えかもしれないが、きっと味を占めたに違いない。たえを抱きかかえた新兵衛は、埃が漏れるふすまと反対側の部屋に移る。それからふすまを開け、ふすまを開け、走りに走る。

 果たして、いまし方までいた部屋のふすまが弾け飛ぶ。黒い塊。右、左と視線を巡らし、だれもいないと見るや大口を開けて新兵衛らを追ってきた。開いて収まっている左右のふすまを次々に跳ね飛ばし、鶴が彫刻された欄間をへし折り、その黒い塊は猛進する。その尖った足のかき回すような回転に、畳が後ろにびゅんびゅんと巻き上げられていく。

 どう考えても追いつかれるのは時間の問題だった。安吾もそう思ったのだろう。ガチンと撃鉄を上げる。新兵衛も鯉口を切り、たえを下ろし、行けと命じる。そのたえが走っていくと、おまえもいけと安吾にもいう。ところがすでにその銃口は黒い塊をとらえていた。安吾が発砲する。銃弾の衝撃がそうさせたのであろう、凄まじい勢いの黒い塊はつんのめったように前へ転んだかと思うと足をおっ広げて横向きに二度三度転がり、仰向けになって新兵衛の目の前で止まった。

 真っ黒と思ったが牛鬼は少し灰色がかっていた。そうであろう、真っ黒ならば暗闇にはかえって浮いてしまう。肌にぎっしりと生えた短い毛がその色目を出していた。

 胸と腹の間は節とまではいかないにしろ、ぐっとしぼんでいて、胸は移動などの運動器官、腹はその維持のための内蔵を詰め込んでいるのだろう。しぼんだ紙風船のようにだらっとたれていて、その大きさは四畳半ほどある。どれだけ人を食えばそれがパンパンに膨らむのか、想像がつかない。

 だらりと力を失った足は子供の頃捕まえたツガニを思い出させる。甲羅を持って腹から見た様子とそっくりであった。ただ、ものは全く違う。肘と言えば良いのか、そこから微妙に円弧がかった円錐形の爪というか、骨というか、硬いものが伸びている。先端はちょんちょんに尖っていてその材質からみても鎧兜なぞ優に通されるであろう。そして頭についた角である。牛なぞは先が内側に向いているものだが、牛鬼のはまっすぐ前を向いている。どれもこれも人を殺すためと思うと背筋が凍る。

 安吾は大の字になって倒れていた。銃火の反動を上に逃がした証拠である。それを抱き起こした新兵衛は言った。

「すごいぞ、安吾」

 牛鬼の鋭い牙の間から分厚くて長い舌が垂れている。裏返って見えないが、安吾の弾は見事眉間に命中したに違いない。

「早くたえを追え。おまえが守るんだ」

 死んでいるのは一時なのだ。安吾の話から、牛鬼を倒すには弘瀬村にある札を『貝合わせ』のようにそろえなければならない。さ、早くと安吾の背を押すと新兵衛はその足音を背中で聞きつつ身構えた。すでにだらしない格好の舌は顎の中にしまわれている。

 唐突に、牛鬼の足が天を突いた。それが凄まじい速さに変わり、次々に繰り出すその勢いで牛鬼の体が上下に振動する。たぶん、ひっくり返ったことがいままでになかったのだろう。起き上がりたいのであれば、足を上下に動かしたところでどうにもならない。しかし早々にそれを悟った。遅れ馳せながら牛鬼は体をのけ反らせる。そして足をかき回すように使いだす。

 気味の悪いものを見てしまっていると新兵衛は思った。知るかぎりこんな醜い生き物はいない。床に突き刺さっていた角が床板を破壊して抜ける。当然だ。牛鬼の力から言えば床板はペンペラなのだ。ドンっと、反った体が天秤をくらって床を打つ。またのけ反る。角が床から抜ける。そんなことを繰り返していると頭の周りの床が見る間に無くなってしまう。起き上がるための支点を失った牛鬼はそれでもめげずそこで頭を振り回し、唾液をそこら中に撒き散らす。ギャーギャー喚きながら、足はというとめったやたらに飛ばしている。

 新兵衛は子供の頃、亀を飼っていたことがある。鏡川で捕まえたイシガメだが一尺はあった。のろのろ動く動作と鏡川の鏡の字が『きょう』と読めることから『きょうじい』と名前をつけて可愛がった。そのきょうじいがひっくり返って起きられないところを何度も見た。牛鬼のように頭で地面を押そうとしているのだが、それが滑って力が抜ける。その仕草が滑稽で起こしてやる度、幼き新兵衛の心のひだがくすぐられた。だが目の前にあるそれは凶悪で、近寄るにしても危険極まりなく、五体に備わる殺人武器が人の思いやりなんて生易しいものの介在を許さない。

 好き勝手というか、滅多矢鱈に振り回される牛鬼の六本の足。その一つが偶然にも柱にガツっと突き刺さる。するとその体が横にずれた。それで狂ったように回す頭が敷居の上となりその角がそこに引っ掛かる。

 そこを首でぐっと押したかと思うと体がねじれ上がって裏返る。当の本人はというと、なんで戻ったのか気付いてないようだ。牛鬼はきょとんとしている。それも束の間、何事もなかったように新兵衛を正面に捉え、大きく口を開き、咆えたかと思うとそこから万歳をするように足を大きく上げる。

 生臭い鼻をつく息と意識を吹き飛ばす声に硬直してしまった新兵衛は無防備にも牛鬼に上から見下ろさたかっこになっていた。

 はっとした。相手の姿かたちに呑まれてはいけない。咄嗟に牛鬼の懐へ自ら飛び込んで前転、右脇をすり抜けてその背後に回ると脇目をふらず一心に駆けた。

 一瞬、新兵衛を見失ったのだろう、牛鬼は固まっていたが、両側頭部についた菱形の耳が背後に向く。ガーとも、ゴーとも聞こえる咆哮を発すると足踏みするようにガツガツガツと足を床に突き刺し、胸を中心にその場で旋回する。

 新兵衛は庭に躍り出た。背後の牛鬼とはかなりの距離を稼いだつもりだった。それでもやはり速度を落とさず庭を突っ切ると植木に向けて飛び、その幹に足を掛けるとその反動で築地塀に上がり、さらにその棟瓦に両手両足付くや否や弾けるように体を伸ばし宙を舞う。より遠くへ行こうと、もっと牛鬼から遠ざかろうとする飛びであった。

 ところが背後、いや背面に気配を感じた。牛鬼も飛んでいたのだ。新兵衛より高い位置で両足をばっと広げて、あたかもハエトリグモが蝿を捕まえようとするように落下してくる。

 ぎょっとした新兵衛は着地すると勢いを殺さず、前方に回転する。背後でドンと大きな音がした。牛鬼である。それが悔しがっているのか、憎らしく思っているのか、咆えた。新兵衛はというと立ち往生となる。着地点が悪かったのか、回転のしかたが悪かったのか、前方を家屋で塞がれていた。それを追い詰めたと確信したのだろう、哮り狂っていた牛鬼は一変、喉をゴクリとやってじーっと新兵衛を見据える。その目は飢餓に苦しむ人の目であった。

 十年以上も前になるが、新兵衛は大地震を経験した。当時は寅の大変と呼ばれた安政南海地震である。はじめゆらゆらと揺れ、それが激震に変わり、やがては津波に襲われた。家は流失し、あるいは残っていても潮水に浸かり使い物にならず、多くの人が道端で暮らしていた。土地は塩害でままならず、その時に飢える人の目というのを知った。牛鬼の目はまさにその目だった。それが一直線に向かってくる。

 垂直に跳び上がった新兵衛は逆手に軒瓦を掴むと逆上がりの要領で足を上に放り投げる。間一髪、その下を牛鬼が行った。壁を破壊し、埃と轟音をあげ、そのまま家の中に突っ込んでいった。

 新兵衛はあげた足の勢いで屋根に上がると斜めに駆け上がり、棟へと達するとそこを一直線に走る。そしてそれが途絶えると飛ぶ。隣に移ったその棟をまた走る。そしてまた飛ぶ。

 後ろからものすごい音が近づいてくる。それは破壊音に違いなく新兵衛を追って牛鬼が壁を突き破り、柱をへし折り、家の中を突き進んでいる音に間違いない。

 前方ずっと先を乾ら数人が走っていのが見えた。さらに向こう、川沿いの道にぶつかるその地点に横二列の藩兵の姿もあり、どれも肩口から銃を水平にし、牛鬼を待ち構えている。

「小松君! こっちだ!」

 乾の叫び声に新兵衛は答えた。屋根を斜めに下り加速をつけながら道に向けて飛んだ。ところが飛んだのは新兵衛だけでない。牛鬼もまた壁を突き破って飛んでいた。

 新兵衛は忘れていた。牛鬼の武器はその体に備わる角や爪、牙だけじゃないことを。その跳躍力、あの築地塀を飛んだ時、まざまざと見たはずではなかったのか。牛鬼はもう新兵衛の背中まできていた。

 着地と同時に横に飛ぶ。間一髪かわしたものの牛鬼も着地の反動を利用してさらに飛ぶ。宙でまた、追いつかれた。

 だが今度は飛んだ先がよかった。家と家の狭い隘路で、牛鬼は二つの家に突っかかって新兵衛の着地点まで及ばなかった。そのうえ衝突の勢いで隘路がせばまる方向に家が傾く。瓦がバラバラと牛鬼の背中に降り注ぐ。挟まりやがった。

 癇癪持ちの子供のように、それでも構わず突き進もうと牛鬼はもがいている。家はきしみを上げていた。倒壊寸前、角の柱が折れるのも時間の問題だった。

 その牛鬼を目の前にして、大きく息を吸うと新兵衛は端座した。そして腰の太刀を鞘ごと抜くと自身の正面で鐺を地につけて立てた。柄を右手に握り、鞘に左手を添える。小松家に伝わる京八流は正確にはそのさらに古流。『鞍馬刀法』といい、突き詰めれば念術であり、それは概ね三つであった。

 一つは眼術、一つは掌術、一つは刀術である。眼術は見ただけで相手をすくませ、それを極めれば殺すことだって可能だという。掌術は相手に気を送り、その内部を破壊する。それを極めれば気を自在に飛ばすことができ、触れずして相手の外傷、内傷思うがままである。そして刀術。それは三つのうち初歩であり新兵衛の力量はここまでしかない。細く長い息を吐きながら正面に立てた太刀に気を送る。鞘の中に己の気が充満していくのを脳裏に描く。

 牛鬼の挟まっている左側の家の方が作りが悪かったのか、がくんと屋根が下がった。それに動じず新兵衛は己の術に集中する。そこへ牛鬼の爪が襲いかかる。左の壁越しに家の中から爪が一本通された。

 それが鼻先をかするや否や、新兵衛は気を溜めた鞘から太刀を放つ。上段から繰り出される白刃が牛鬼の爪を両断した。鯉口を鳴らし太刀を収めた新兵衛は落ちた牛鬼の爪を持つ。そしてそれを牛鬼の鼻穴から下顎に突き通すとそこから強引にも爪先を地面へもっていく。ちょっとでも牛鬼をその場に固定させたい。新兵衛は爪の切断面を踏み台にした。飛んで、おもいっきり全体重を乗せる。刺さった爪がザクっと沈む。うまくいった。あとは乾らに向けて走るのみ。そこから二回三回と牛鬼の背を跳ね、道に出ると新兵衛は一心不乱に突っ走る。

 牛鬼の怒りは凄まじい。頭を振って地から爪を抜き取ったかと思うと、体の向きを変えるのに左側の家を倒壊させた。だがその思いと裏腹に、右足一本失って身の釣り合いを取れずガクンガクンと、しかもその度ごとに顔に刺さった己の爪が地面につっかかって追いつけるどころか、むしろ新兵衛から遠ざかっていってしまう。

 新兵衛はというと乾らの射程までもう少しであった。振り返って付いてきているか確認すると、牛鬼は相当頭に来ているのだろう、喘ぐようについてくる。

 さぁーついてこい! 

 と思い上がったのがいけなかったか。その時ちょうど牛鬼の鼻先にある爪が煙となって消えた。咄嗟に、刀鬼の腕を掴んだ時のことを思い出す。切り離した部分が消えると再生が始まるのだ。

 果たして牛鬼の右足は再生を始めた。『刀鬼』の頭は随分と時間がかかった。化物といってもやはり頭は頭、複雑な創りで、一方牛鬼の足先は簡単な創りである。再生は瞬く間に終わった。一挙に、新兵衛は距離を詰められる。あの跳躍力を使われれば捕らえられる、もうそんなところまで牛鬼が近付いてきていた。

「伏せろ!」

 との声である。川に飛び込むように新兵衛は前へ飛んだ。と同時に銃声が鳴る。乾らが一斉射撃したのだ。牛鬼が足を止め、哮り狂う。

 射程があるだけに命を取れないまでも牛鬼の目先を変えさせることに乾らは成功した。新兵衛はというとその隙にごろごろと地面を横に転がって、家の影に身を隠した。

 獲物より敵である。離れる新兵衛を横目で見つつも牛鬼はそれを捨て置く。目の前でがちゃがちゃやられていたらゆっくりと食事もとれやしない。とりあえず新兵衛は我慢するとして、乾らに狙いを定めると猛突進を開始する。

「引きつけろ! 頭を狙え!」

 唯八の声である。牛鬼は砂煙を上げて向かってくる。

「まだだ!」

 もう目と鼻の先である。

「討て!」

 一斉に発射した。十九の銃口が火を吹く。道に筋を作って、牛鬼は急停止した。だれかの弾がその目に当たったのだ。視界を失ってしまい一旦は逃れようとしたところ、そこにさらなる銃弾が加えられる。無数の弾に顔面を捉えられ、それであえなく命が奪われてしまう。

「縛りあげろ!」

 刀鬼のこともあり、この醜悪な化物が間違いなしに、しかも直ちに息を吹き返してくるのをみな、察していた。乾ら指揮官を除いて発砲した藩兵十九人が鎖を手に取り、牛鬼に駆け寄る。そして唯八の号令よろしく、六本ある足をその背中側に持ち上げて一つにまとめる。

 用意した鎖は刀鬼を縛り上げるためのものであった。長さが足りないならばそれなりの縛り方がある。円弧がかった牛鬼の爪先は通常、内側へと向く。それがこの場合、天を指しているのだから当然外に向かって円弧がかる。偶然にもそれは縛るには好都合だった。背面で六本まとめた爪をぐるぐると鎖で巻き、幾つもの錠で固定する。これで牛鬼は目覚めても身動き一つ取れないだろう。縛られた牛鬼の姿がギュッと絞られた巾着袋を思わせた。

 それを軒下で眺めていた新兵衛はほっとして抜け殻同然となる。壁に体を預けて大股に足を放り出し、軒でさえぎられた細長い空を仰いていた。

 一方、牛鬼の周りでは四方に散っていた藩兵がちらほら集まりだす。おのおの顔を合わす度、互いに胸をなで下ろすのだが、自分にとって大切な人を殺された者もやはりいて、そこで騒ぎが起こる。そのためか、いや、単にその存在を忘れられたのだろう、それ以降随分と長い時間、新兵衛は暗い軒下に独り放置されることとなる。


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