物語の始まり
「俺が本当の兄ではない、か」
美時が言っていることは正しい。俺は美時の本当の兄などではなく、そもそも一人っ子だ。それが今朝になっていきなり、兄になったのだ。
早朝に雪が降り、わけがわからないままに意識が飛び、再び起きてみれば妹ができており、学校では魔法らしきものが眼前に現れた。何かしらの異変が起きていることは理解できた。俺はそれらを享受した上で、解決しようと思っていた。それは俺の周囲の人々のほとんど、つまりは圧倒的多数が、俺や斎藤が「異変である」と感じている事柄を、「自然である」と思っているようだったからだ。下手に騒いでも、圧倒的少数の立場にあるのは俺たちだからな。余計にややこしくすることは好ましくない。
そして美時は逆に、圧倒的多数の側の一人だった。そうだと思っていた。なんだ、また思い込みが間違っていたのか。斎藤の時といい今回といい、俺は思い込まないほうが良いみたいだな。
「そうだ。俺はお前の兄じゃない」
俺は嘘はつかなかった。俺が兄でないということを知っている。つまりは、この「妹ちゃん」だった美時は、何らかの形で変化に気付いているかもしれないということだ。斎藤に続く人物である可能性が高い。
この美時という人物そのものが、「それじゃあいったい誰なのか」ってのは置いといてな。
「ありゃあ、やっぱそうなのね」
拍子抜けする軽い口調に、座っていながらも綺麗にずっこけそうになった。さっきまでのシリアスな雰囲気はどこにやった。もう少しこう、神妙な面持ちで言葉を返してくるかと思っていたんだが。
などという俺の心の中のツッコミは、当然美時に届くことはない。
「私、今日の朝4時に目が覚めたの。めちゃくちゃ寒くてさ、雪でも降ってんじゃないかって思っちゃうくらい」
美時はおもむろに立ち上がり、窓の燦に手をかけながら、どこかで聞いたようなセリフを吐いた。窓の外に飛ばした視線は、流れていく小さな雲を追っている。
「そこでさ、気付いたんだ。ほんとに雪が降っていること。それから、この家が私の住んでいた家じゃないってこと」
美時につられて俺も外をみる。目に映ったのは、見間違えようもない初夏の空だ。日は傾いているがまだ明るい。伸びてくる暖かな光がガラスを通過して、美時の顔を照らしている。
「で、しばらくその景色を見ててこう思ったのよ。ああ、何か異変が起きてるんだなって。だからこんな風にさ、笑っちゃったよ」
そう言ってこちらを振り返ると、美時はニッと口の片方を釣り上げ、白い歯を見せた。どこか楽しげな、というかむしろ明らかに楽しそうな表情だ。例えるなら、台風の到来を楽しみにしている小学生のような顔だ。そう、「休校になるから」などといった安易な理由ではなく、台風という非日常を心待ちにしている、まだ小さい子供のような顔だ。
だから俺は、こう言わずにはいられなかった。
「いや、なんでそこで笑うんだよ」
純粋な疑問だ。普通、雪に気付いた時点で何かしらの焦りは生まれるはずだ。俺は雪景色を目にした瞬間に意識が途切れたから、考える間もなかった。だが美時はしばらく見ていたと言うのだ。こんな言い方はおかしいかもしれないが、焦ったり混乱したりする時間はあったはずだ。年齢的に、非日常を心待ちに出来るような幼さは無くしているはずなのだからな。こいつは高校生だよな?帰り道が同じになったわけだし、中学校や小学校はまるっきり道の方向が違う。
そりゃあ確かに、非日常は図らずもワクワクしてしまうさ。だがな、7月の雪は明らかにおかしいし楽しくもない。地球を本格的に心配してしまう。知らない家で寝ていたのもまた然りだ。こちらは夢遊病の心配をしてしまう。
ああ、何か異変が起きてるんだな。そう思いながら笑える理由が分からないぜ、美時。
「え?普通笑っちゃうでしょ。楽しいなって思うでしょ。だって7月に雪だよ?知らない家でいつの間にか寝てたんだよ?面白いって思わない?」
美時は美時で、逆に俺が言っていることの意味がわからないといった風な顔つきだ。心の底から、異常を楽しいと思っているらしい。
「世界が変わっちゃってて、自分は気付いてるのにほとんどの他の人はそのことに気付いてない。あんたは気付いてたみたいだけどね。これって、私たちがお話の主人公になったみたいだって思わない?」
「俺たちが、主人公?」
「そう、主人公。あんたが世界を元に戻すヒーローで、私がヒロイン。兄と妹で世界を元に戻す物語が始まった。そう考えると、楽しくなってこない?」
そんなもんなのか。そんな、簡単な。
俺が今日目覚めてから今に至るまでのアレやコレを、そんな風に捉えてしまっていいのか。仮にそう捉えても、実質何も解決していないぞ。
「だからさ、解決するんでしょ?変化に気付けた私たちが。あたふたしたってしょうがないじゃんか。あんたが主人公だなんて、正直勘弁だけど」
「結局どっちなんだよ」
「どっちでもいい、面白いから。あはは、せっかくだから楽しもうよ、『お兄ちゃん』?」
堪えるように笑う「妹ちゃん」。楽しくって仕方がない、とでも言いたげに、肩を震わせている。朝初めて見たときは気付けなかったが、なるほど、こいつはなかなかの変人らしい。それも、普遍と不変を嫌い、変化と異常を求めるタイプだ。
しかしなんだろう、不思議なもんだ。黙って立ってりゃ見映えのする姿形をしているのに、口を開けばやかましいし、蹴りは鋭いし、加えて変人ときた。次から次に設定を加えていきやがる。本当にこれが、美時をヒロインに据える物語だったとするなら。ああそうだな、俺なんて凡人は主人公にはふさわしくないだろうよ。見た者全てから「なぜお前が」と言われかねない。むしろ俺だってそう言ってやりたい。
だだまあ一言だけ、言えることがある。
笑う美時の表情は、その理由がいかにせよ、異常を楽しんでいるにせよ、確かにヒロインであるにふさわしい輝きを放っているということ。これは確かに自信をもって、首を縦に振ることができるのだ。