「妹ちゃん」
「少しは綺麗にしたらどうなのよ」
部屋に入ってきた美時の第一声は、スムーズな嘆息だった。
帰宅後、「いいこと」とやらを聞くべく美時の部屋に向かったのだが、今朝俺が勝手に部屋に入って寝床からの別れを促したことを芳しく思っていなかったらしく、一歩たりとも我が領域に入れてたまるかといった表情をしていらっしゃったので、不承不承俺の部屋に移動した次第である。
とはいえ、起こさなければそれはそれで怒髪で突かれそうな気がしないでもないので、恐らく明日もまた、俺は妹ちゃんの部屋に不法侵入することであろう。いやはや、なんとまあ犯罪臭溢れるセリフだろうかね。
「自分では結構、綺麗なつもりなんだがな」
「ふーん」
俺の部屋の散らかりにはあまり興味はないらしい。だったらわざわざ口にするなよと言いたいところだが、無情なるローキックはあまり数多く受け止めたいものではない。賢明な人間は口数を多くはしないのさ。
「それで、何の用なの?」
「いいこと、ってのを教えてもらおうかと思ってな」
「あぁ、それね。うーん」
美時は悩むような素振りを見せて、口をへの形にしながら右上に視線を流す。だがそれは一瞬のことで、すぐさま口元をにんまりと持ち上げたかと思えば、瞳に悪巧みの色をちらつかせた。
「もしかしたら、荷物運びくらいじゃあ釣り合わないかもねぇ。学校の授業も疲れちゃってさ。マッサージでも、お願いしようかな」
「いやぁ多分だけどさ、俺の方がだいぶ疲れてると思うんだよなぁ」
兄使いの荒い妹ちゃんの目が三日月の形になる。いいからやりなさいよ、とでも言いたげだ。
「わぁったわぁった、そう睨むなって」
「ふん。マッサージされながら話すわよ」
「おうそれで頼む。ほれ、うつ伏せになれ」
さすがにここは反抗的にはならずに素直に従う妹ちゃんである。こうして改めて間近で見ると、やはりちっこい背中だ。あんまり力を込めるとポッキリいっちまいそうだな。あのローキックの威力がどこから湧いて来てるのか、想像もつかないぜ。
始めに背筋のあたりに手をかける。続いて肩から首筋にかけて、ゆっくりと慎重に力を加えていく。別にプロでもないわけだから、仮に正式なマッサージの手順があったとしても俺の知るところではない。
そして判明する事実がある。
うん、美時。お前まったく凝ってないぞ。やっぱり俺の方が疲れてると思うなぁ。
「そんで、いいことってのはどんな話なんだよ」
「ああ、正直馬鹿みたいな話。何言ってんの、って思われても仕方ないと思うよ」
手を枕にしながら目を瞑っている美時は、そう言った後に一つ溜め息を漏らした。おお、お前そんな表情も出来たのか。ただやかましいだけかと思っていたが、いつもそんくらいしっとりしてれば可愛げもあるってのに。
なんてことを口にするわけにもいくまい。仮にもこいつは妹で、俺はその兄だ。
「それなら、何言ってんだ、と言うかもしれないな。でも気になるから一応聞かせてくれよ」
「しょうがないわねぇ。ちょっと手、どかしてくれる?やっぱり起きて話すから」
「注文の多い野郎だな」
「文句の多い野郎ね」
「お前が言うかよ」
「うるさい」
結局この四文字にはかなわねぇ。
「それじゃ、端的に言うわね」
体を起こしてあぐらをかいた美時は、ひたすらに黒い瞳で真っ直ぐに俺の目を見据える。その視線に、今朝と同じだ、何故か懐かしさを感じた。いつだったか、誰かに、向けられたことがあるような。そして俺も、その視線に答えた覚えがあるような。
ふむ、見事なデジャヴだ。我ながら感心してしまうくらいの。
妹ちゃんが口を開く。
「やっぱり馬鹿みたいな話。でも言っておくことにするわ。私も気になるからね」
視線を一度、躊躇うかのように下げる美時。だがすぐに、しっかりとこちらを向き直す。瞳に揺らぎはない。その真剣な顔つきに、目を離さずにはいられなくなりそうだ。少なくとも、俺に荷物を運ばせたり、蹴っ飛ばしたり、マッサージを強要したりした妹ちゃんの面影は、ほとんど鳴りを潜めている。つまりはそれほどに、重みのある言葉を述べようとしているということか。
「お兄ちゃん、いや、あなたは」
思わず息を吸い直したのが、俺なのかそれとも美時なのかは、わからなかった。
そして流れる2秒間の空白。待ちかねた沈黙の妖精がふわっとこの部屋に降りてきそうになった時に、妹ちゃんの口が再び動いた。
「あなたは……私のお兄ちゃんでは……ないんでしょ?」