少しだけ理想的な、家路
「なんであんたが付いてくるのよ」
斉藤という俺と同じように変化に気付けた人間を発見し、少しだけ胸を撫で下ろしたのもつかの間、帰宅途中にばったりと美時に出くわしてしまった俺は、この謎の妹の言葉によって、弱めの酸性水を頭から浴びせられているような気分を味わっていた。
「なんでもなにも、しょうがないだろうが。同じ家に住んでるんだからよ」
「だからって一緒に帰ってるみたいな形にすることないでしょ!なに、わざわざ追いかけてきたの?」
「自意識過剰もいいとこだぜ、おい」
確かにお前は可愛いけどさ、と言いかけて口をつぐむ。また気持ち悪いだとかストーカーだとか罵倒されそうだったし、仮にも妹であるこいつに対してそのような発言は好ましくもない。無論、社会的に。
そして何よりもだ。
不自然であってもれっきとした兄という立場にいる俺に対して、いわゆる敬意と呼べるものが全くもって感じられないこの妹ちゃんに、可愛いなどと称賛を投げ掛けることに一種の敗北感を覚えたのだ。
「美時よぉ、お前もっとこう、ないのか。兄に対する敬意だとかさ」
目尻から塩水が流れそうなほどの切実な思いを込めて言葉にしたはずなのだが、美時はあからさまに嫌そうな、本当に嫌そうな顔をして、
「なにそれ、気持ち悪い」
と一蹴した。
「そもそも私、あんたのこと兄だなんて思ってないから」
一蹴どころか多段コンボだった。ああなんだか心が痛い。
「だってそうでしょ?」
「なにがだよ」
格闘ゲームのキャラだったら、もはや頭上に星が3つほどくるくる回っているような状態になっていた俺の耳には、美時の疑問系はほとんど届かない。
「もういいよ、言わない。はっきりしないしね」
「それは俺の現在の意識のことですかな」
「あんたの意識が飛ぼうがなんだろうが心底どうでもいい!」
そんなことを綺麗な笑顔で言うな。
斉藤がなぜあんなに妹を溺愛できるのか理解しかねるぜ。敬意をちゃんと払ってくれるなら首を縦に振れるかもしれないがな。ああ、この美時を斉藤のところに妹として放り込んだらどうなるだろうかね。それでも溺愛するようなら斉藤は普通に妹好きの良い兄か真性のマゾかのどちらかだ。斉藤の妹を実際に見たことがないから、あまり大きなことは言えないけれど。
「というわけで、はいこれ、どうぞ」
なにが「というわけで」なのかは知らないが、唐突に首に俺のものではない鞄が掛けられてうおなんだこれ死ぬほど重てぇ。
「私先に帰るから、荷物ヨロシクお兄ちゃん!」
「まてこれ重すぎだろ。何入れてんだこの中」
こんな時だけお兄ちゃん呼びして、あまつさえ語尾にハート浮かばせるなんざ、悪女以外の何者でもねぇ。そしてこの明確な悪意を感じる重量感だ。俺はたまらず美時の鞄を首から取って手に持つ。冗談じゃなく首がもげそうだ。いやまあなんにしても重たいけれど。
「あぁそれね、私は教材全部持って帰ってくるの。そういうタイプ。いやぁ、優しい優しいお兄ちゃんがいて助かるなぁ」
「笑顔なのに一ミリも笑ってねぇじゃねぇか」
こんなもんやってられるかよ、などと思いつつも鞄を投げ返さないあたりは、元一人っ子の年下への世話好きが為せる技か。畜生、これじゃ斉藤の溺愛っぷりを今後バカに出来なくなるではないか。
「ほんと、あんたはいい人だねぇ」
「これ以上何を言っても、俺は荷物は持てんぞ」
もう持たせるもんないわよ、と軽やかに笑う美時。軽やかに、というのは何ら大袈裟な表現でもない。実際この妹ちゃんは今現在、手ぶらだ。
「よーし、それならこうしよう。あんたがこの荷物を家まで運んでくれたなら、いいこと教えてあげる」
「お前のバストの大きさなんかだったら知らなくてもいいぞ」
「死んでも教えないわよ!」
シュルシュルという効果音が聞こえてきそうな妹ちゃんのローキックは見事に俺の太股に命中、俺に出来たことと言えば、顔を引きつらせながら悶えることのみである。いや、太股に当たるってことはローキックでもないのかな。
「とにかく、早く持ってきてよね!」
ビシッと片手を斜めにしたかと思えば、とたんにむちゃくちゃ早い逃げ足で去っていきやがり、小柄な背中はみるみる遠くなって突き当たりを右に消えていく。一息入れたい俺は立ち止まり、ふっと鼻から息を抜く。
理不尽だなぁ。
しかして、自分でそんな言葉を脳裏に巡らせておいてなんだが、一人っ子だった俺には「こういう感じ」も新鮮に感じる。わがままな妹に振り回されて、やれやれやってられるかとぼやきながらも、結局は遂行してしまう。そんな感じだ。
以前から俺は、「こういう感じ」を少なからず求めていた。
とにかく、早く持ってきてよね!
美時の言葉が頭に響くのと共鳴するかのように、手に持った鞄がずしりと重たくなる。うむ、さっさと帰ろうかね。変化に関しての調査は追々進めるとして、美時が言うところの「いいこと」ってのも気にならないわけではない。
雪の気配など毛ほども感じられない七月の風が、きりきり歩けこのど阿呆と背中をどついてくる。いてぇよこん畜生が、言われなくても二本の足はついておるわ。
「いいこと、か」
寝起き一発目から驚きと違和感の連続で、正直のところ心境は穏やかではなかった。そりゃ当然だ。理解できないことばかりだったからな。だがこの家路、風と漫才を繰り広げられるくらいには、心に余裕が出来ているようだ。心なしか足も軽い。
そんなこんなで重てぇなこのやろうとぼやきつつ、黙々てくてくと歩いていると、気付けば家の前だった。何も考えずに歩いていたり、もしくは深く考え込んだりしていると、案外早く到着するものだ。いやはや、人間の心身とは不思議だなぁ。
ちなみに本当にどうでもいい余談だが、家の玄関を開けるまで、風との漫才は続いた。