主人公二人目
高校での午前中の授業は拍子抜けするほどにすんなりと終わり、現在時刻は正午を少し過ぎたほど、誰もが皆浮き足立つ昼休みになった。
しかし俺の足はと言えば、浮くどころか先端に鉄球が付いたごつい鎖を巻かれているかのように、ただただ沈む一方である。何かしら変化が起きていないかと朝からずっと目を凝らして探していたのだが、数学教師が「ネクタイを青からピンクに変えたんだ」とかなんとか自分で言っていたことくらいしか変化らしきものは見られず、手がかりと言えるものは何一つ手に入れられなかった。
4時頃の雪はまだ、「俺の見間違い」でなんとか誤魔化せるかもしれない。美時という謎の妹も、母と知らない女の子が一緒になって俺にドッキリを仕掛けた、と言われれば納得がいく。
まあどちらにしても、不自然極まりないのだが。
誰が何を言っているのかはっきりとはわからない、都会の雑踏の一部を切り取ってきたかような様相を見せる教室。男子も女子も仲の良い者同士集まり、会話を弾ませている。この不変っぷり、まさか皆の身の回りには何も変化が起きていないのか?それとも、俺の母のように、起きてはいるけれどもそれを何故か当たり前であるかのように思ってしまっているのか?
頬杖をつきながら教室を見回す。弁当を頬張る男子、昼休みだというのに勉強を続けるメガネちゃん、誰が追いやったわけでもないのに教室の隅でひっそりと盛り上がるアニメ好きの男女、それとは対称的に教室の中心で騒ぐモテ子や派手子、そしてイケメン君の御一行。恐らく日本全国このような光景は見られるだろう。取り立てて説明することもない。
ちなみに中学生のときの昼休みの俺は、ジャンルを問わずゲームを持ち込んでは数人の友達とプレイしたり、一人黙々と攻略したりしていたもんだが、高校になってからはゲームは家でのプレイのみだ。というのも攻略寸前だったソフトを通りかかった教師に取り上げられ、あげく卒業まで返してもらえなかったという中三の頃の苦い思い出があるのだ。そこそこ高校受験の為の勉強もしていたし、リスクを負ってまで学校でゲームする必要は無かったから、昼休みにゲームをすることはそれきり止めた。結局昼休みは暇になってしまい、友人と話したり一人教室を眺めたりすることが多くなった。ちょうど今のように。
ようするにここで言いたいのは、俺はちょっとしたゲーマーであって、今現在もそうである、ということだけだ。それだけだ。
教室を見渡し終わって一つため息をつく。
自分がゲームの世界に入り込んじまった、みたいな理由に起因してこの変化が起きたのなら、俺は何とかしてこのゲーム的な何かを攻略しなければならないのだろう。だが、この状況でどうすればいい?「世界がおかしくなっちまった!」と喚いたところで、「頭がおかしくなっちまった奴」と認識されて、警察のお世話になってしまうであろうことは想像に難くない。そうなってしまえば攻略も何も言えたもんじゃないぜ。
もうこの際、ド直球に魔法やら変なビームやらを出せる奴が現れればいいのに。そうすれば変わったのは世界のほうだと明言できる。このままだと俺は、自分の頭がいかれちまったということも視野に入れなければならない。
「見てみて、あたしこんなのできるようになったんだよ!」
教室中心の御一行の一人が声を上げたので、俺はなんとなくそちらを見る。特に興味はない。モテ子か派手子かは知らん。なにやら右手首を左手で掴むようにして、手のひらを上にしている。
「こうやって、ほら!」
おぉ、と小さく歓声があがる。どうした、何か手品か。親指が離れて……とかいうやつではあるまいな。あれはもはやほとんどの人が手口を知っているから、やったところで周囲に寒波を呼び込むだけだぞ。
「ほら、君も見てみてよ」
何かしら出来るようになったらしいクラスメイトが、俺のほうに近付いてきて言う。わかったわかった、見るよ。炎やビームやらを出すと言うなら笑ってやる。
「いくよ、ほら!」
ゴオッ、というまあまあ派手な効果音と同時に、クラスメイトの手のひらの上に薄らぼんやりとしたオレンジの光が集まり、かなり熱くなった風呂のお湯くらいの熱を発し始めた。
最終的に、それは真ん丸い火の玉の形を取った。
その丸さと言ったらもう、驚きを隠せずに見開いた俺の瞳と同じくらい、綺麗な円だった。
俺は言葉を失う。
笑ってやるとは言ったが、正直、全然笑える気がしなかった。
「ね、なかなかやるでしょ!」
俺とは対称的に、屈託なく笑うクラスメイト。前触れもなく、種も仕掛けもなく、生じた炎。そしてそれに何も言わず、疑問すら抱いていないような顔をしている周囲。
「それは、魔法か?」
俺は思わずそう尋ねていた。
手がかり、変化、異常、平常……いくつかの単語が脳内を高速回転し始めているのが、まじまじと感じられた。
「そうだよ。お母さんに教えてもらって、やっと今日出来るようになったんだ」
大変だったなぁ、と伏し目がちにため息をつく、クラスメイトこと魔法使い。ああ、大変だったみたいだな。でもまあ、俺の頭の混乱具合に比べれば、それほどのことでもないのかもしれないぜ。
「あ、すまね、ちょっとトイレ行ってくるわ。その魔法、すごいな。尊敬するぜ」
冷静さを取り戻す為に一時離脱を試みる。整理が必要だ。たった今はっきりしたことがあるんだ。おかしくなったのは俺じゃなく、周りだ。ああ、それなら受け止めようがあるさ。俺がいかれちまったわけじゃなかったんだからな。だが少し、時間が欲しい。幸いにも、教室を出てすぐ右の位置に男子トイレはある。別に催しているわけではないが、とにかく人のいないところなら何でもいいんだ。
しかしそんな俺の心境を知ってか知らずか、話しかけてきた男が一人いた。
「お、なら俺も行くぜぇ」
状況的に最も無粋だと思われる発言をしたのは、俺の悪友、斉藤和人に他ならない。
勉強の成績も運動能力も、そして恋愛の状況に至るまで、性格と顔以外ほとんど俺と瓜二つの人物。それが斉藤和人だ。だがしかし、一緒にしてもらったら困るぜ。斉藤はどう見てもチャラ男だ。俺はそうじゃない。別にそこまでの大差ではないがな。
そんな男とトイレに行く。それを断る理由も特にはないが、望まれた事態でもない。こいつの話はそこそこに流しつつ、思索にふけるとしよう。
トイレに入る。別に俺は使用する予定はなかったので、設置してある鏡に映る自分を見て、相変わらず平々凡々な顔だな、などと心内で呟く。
斉藤も斉藤で、用を足すこともなく、俺の隣の鏡を見ながら髪の毛をいじっている。なんだ、お前も使わねぇのかよ。ならわざわざ付いてくるなよ。こっちは真剣に考えなきゃいけないんだからさ。
俺の心の呟きが聞こえたのか、斉藤は髪をいじるのを止め、こちらを向いた。言っちゃあ悪いが、すごく変な顔をしている。なんだろう、あえて言うなら、不安だとか疑問だとかを隠しながら、無理に強めの笑顔を作っている、みたいな感じだ。
そんな顔をしていた斉藤が、意を決したような表情になって、こんなことを言い始めた。
「なあ、ちょっと尋ねてもいいか。変なやつだって思うかもしれねぇけど」
「なんだよ」
「あのさっきの、火の玉だよ」
火の玉。その言葉を聞いて、また脳が熱を帯び始める。
異常。平常とは異なるもの。しかし誰もが、然るべきものだと思っているようだった。ずっと前から、それが世界の必然だったと言わんばかりの顔をしていた。
俺だけだ。違和を唱えられるのは。
そう、思い込んでいた。
「やっぱあれ、おかしいよな?変だよな?昨日まで、普通だったもんな?お前はどうだ?当然のことだと思ったか?」
お前がびっくりした顔だったから話した、と付け加えて、斉藤は何かを飲み込むように口を閉じた。
ピキピキ、という小気味よい音が、鼓膜を揺らしたような気がした。
突然に、そして静かに声を荒げ、疑問系の嵐を吐き出した斉藤和人その人によって、俺の思い込みは打ち砕かれたのである。
おかしい。変だ。昨日までは普通だった。
そんなことが言えるのは、昨日までを「普通」に過ごした人物だけだ。
俺のような人物だけだ。
打ち砕かれた。この言葉を、良い意味で使う日が来るとは思わなかったぜ。
「俺はあんなの、絶対おかしいと思うぜ、斉藤」
俺がそう言うと、斉藤は明らかに安堵した表情になった。
「だろぉ?ああよかった、俺がおかしくなっちまったのかと思ったぜもう。朝からおかしいんだ、おかんは手のひらからバーナーみたいに火を出して朝飯作ってるし、親父は箒に乗って空飛びながら会社に行くし、俺の可愛い妹は、いなかったことになってるし」
妹の話をした途端に、表情を暗くする斉藤。そうだったな、そういえばお前は妹が大好きなんだったな。普段ならドン引きしてたところだが、今回ばかりは話が違う。素直に同情するぜ。
「俺の方は存在しなかった妹が家にいたぜ。親父は見かけなかったけどな。それに4時頃起きたら、七月だってのに雪が降ってるしよ」
「マジかよ、俺も見たぜその雪。普段絶対起きられないような時間に起きちまったと思ったら、むちゃくちゃ寒くてよ……」
15分くらいだろうか、トイレに居座って、俺と斉藤は色々と身の回りで起きたことを報告し合った。俺たちの状況は酷似していて、細部は異なれど、方向性は似た変化が起こっていた。
変化を自覚出来た人物が、俺一人でなかったというのは大きな発見だ。RPGゲームに例えるなら、主人公ソロでクリアしなければならないと思っていたところに、仲間が現れてパーティーが結成された、みたいな感じだ。攻略の難易度がぐっと下がる。
そもそもこの状況がゲームだとして、どんなジャンルのゲームになのか全く分からないのも問題だがな。それでも、少しだけ前進したのではないだろうか。
一応その後の話をすると、昼休みの後には特に何も起こらず、そのまま帰宅となった。クラスメイトの手のひらから火の玉が沸いて出ただけでも、十分ぶっ飛んだ話なんだけどもな。