知らない妹
「なあ母さん、美時って誰だ?」
心の底からの疑問を目一杯表情に持ち上げる。本当にわからなかったのだ。俺は一人っ子だ。兄や姉、もしくは弟や妹、どれか一つだけでも欲しかったものだ。しかしながら結局、兄弟はできなかった。つまり肉親は、両親と祖父母しかいないのだ。
それじゃあ何か?知らない誰かが我が家にやってきて朝を迎え、その上惰眠を貪っていると。つまりはそういうことか?
状況的にも心境的にも、穏やかではいられないぞ。確かに俺自身も、先程まで惰眠を貪っていたわけだがな。
「やっぱりあんた、まだ寝ぼけてるんじゃないの?一晩で忘れるくらい頭が悪くなったの?それとも病気?」
どうやら美時という何者かのことを知らない俺を心配してくれているようだが、逆に俺は母がその人物を知っていることが心配だ。
「俺は健全だしきっちり目覚めてるよ」
「わっけわからないわねぇ、ほんとに」
そっくりそのままその言葉をお返しする。奇遇にも、俺も同じ心持ちなんだ。
母は呆れたように長く大きな溜め息をつき、眉間に中指を置きながら言葉を続けた。
「あんたの妹でしょ、美時は」
「ほう」
なるほどなるほど。妹、とな。
本当に何を言っているんだ、母よ。腹を痛めて生んだ子はあんただけだって、あれほど熱弁していたではないか。兄弟を作れなかったことを少し後悔してる、ってさ。
「ほう、じゃないわよほんとに。冗談もほどほどにしなさい」
「あぁそうか、そうだそうだ、妹だった。思い出した。いいじゃんほら、エイプリルフールだと思えば」
なるべく表情を変えないようにして、架空の妹を思い出したかのように装う。どうやら母は、本当に俺に妹がいると思っているらしい。もちろん俺には微塵も覚えがないのだが、この状況でそれを口にしたところで余計にややこしくなるだけだろう。
やはり何かがおかしい。7月早朝の雪、存在するはずのない妹。母が迫真の演技で嘘をついているとも思えない。何かの拍子にゲームの世界にでも入り込んだか?いや、確かに俺は暇さえあればゲームをするし暇がなくてもゲームをするが、目と頭がおかしくなるほどにやりこんだ覚えはないぞ。
「ごちそうさまでした。ごめん母さん、朝っぱらから冗談かましちゃって」
最後に味噌汁を流し込んで手を合わせたあと、とりあえず謝ることにする。何が何だか分からないが、俺の身体もしくは俺の周辺がおかしなことになっているようだ。ああ畜生、自分で言ってて笑えてくるぜ。
「はいはい、わかったわよ。とにかく早く美時を起こしてあげて。また遅刻しちゃうわ、あの子」
「わかった、起こしてくるよ」
「妹の部屋も忘れたとか言うんじゃないでしょうね?」
「言うわけないだろ、ちゃんと覚えてるよ」
もちろん全く覚えてないんだがな、いない妹の部屋なんて。
だが本当に妹の部屋らしきものはあった。俺の部屋の隣にもう一つドアがついており、「美時」と表記された簡素なコルクボードが掛かっている。どうして起きたときに気付けなかったのだろうか。母も言っていたように、俺はしっかりと寝ぼけていたのかもしれない。
よく分からないが緊張してきた。仮にこの美時とやらが妹であったとして、いやむしろ妹であるからこそ、このドアノブを回すことに躊躇いが生じる。
「とにかく早く美時を起こしてあげて」
「また遅刻しちゃうわ、あの子」
「また遅刻しちゃうわ」
「遅刻しちゃうわ」
「遅刻……」
母の言葉が脳内で反響してきたところでふと気付く。そういえば俺も遅刻ギリギリなのだった。混乱しすぎて忘れていた。そして思い出された危機によって躊躇いはまさになんの躊躇いもなく打ち消される。人の心とか気持ちとかいうものは、案外単純に作られているのかもしれないな。
かくして俺の手によって、妹なる人物、美時の部屋のドアは開けられた。