五話目
夕食を食べ終え、近くの壁に背中を預けて天井を見上げる。ここに投獄されてもう数百年が経過するが、それにつれてここも年季が出てきた。地下にあるせいで湿っぽく、カビもところどころ生えている。飛び散った血は乾燥して奇妙な模様のシミとなっていた。
「ふぅ……」
チラリと横を見ると椅子の姿に戻った椅子ウサギ。今は睡眠をとっているようで、座ってもびくともしない。案外寝るのが早かった。これでは話し相手になってもらうのは難しそうである。
そろそろ俺も寝ようとしたところで――聞こえてくる異音。まるで硬い何かを引きずるような音が俺の耳朶を打った。瞬間、勢いよく身を起こしてその場から離れる。
「誰だ……?」
音源地は俺が背を預けていた石の壁。今なお、異音は鳴り響き、そして――
ゴトン……。
俺がそこに向かおうとしたのとほぼ同時、はめ込まれていた長方形の石の一つが落下。それは地面とぶつかり、硬質な音を響かせた。
「……?」
浮き出る冷や汗を拭い、生唾を呑みこんでぽっかりと空いた穴の方を見やる。暗くてよく見えないが、何かの姿が視界に映った。全体は見えなかったが、ネズミやイタチでないのだけははっきりした。
一歩ずつ、慎重に足を進めていくと聞こえてくる何かを漁るような音。やはり見間違いなどではなく、本当に何かいるらしい。俺はそちらを凝視しつつ、ゆっくりと口を開いた。
「誰だ……?」
「人が……いるの?」
確かに――聞こえた。人の声だ。
「あなたは、誰?」
澄んだ鈴の音のような声がするりと俺の耳に入り込んでくる。
「俺は……化け物だよ」
「本当? でも、それなら人の言葉は喋れないわ」
声のトーンや口調から判断するに、少女のようだ。しかし、何でこんなところに……?
「ねえ、こっちに来て。顔を見せてちょうだい」
「あ、ああ……」
空いた穴の方に寄り、少し屈んで顔を覗かせると、同様にこちらを覗き込んでいた人物とピタリと目があった。綺麗な目だ……まるで澄んだ海のような深い青をしている。
「こんばんは。ちょっと待ってね」
そう言って声の主は持ってきていたらしきマッチを擦り、ろうそくに火をつけて灯りをともす。光に照らされたその姿を見て、俺はハッと息を呑んだ。
目の前にいたのは金髪碧眼の美少女。それも豪華なドレスを身に纏い、どことなく高貴な雰囲気を漂わせている。ただ、声の通り年齢は幼くて、十歳くらいに見えた。とてもじゃないが、こんな場所にいるような人間ではない。
こちらの驚きなどつゆ知らず、彼女は火のついたろうそくを掲げてこちらに向けてきた。かと思うと、その薄紅色の唇を半月の形にしてふっと柔らかい笑みを作る。
「ほら。やっぱり、化け物じゃなかった」
穴からスッと伸びてきた細くて白い腕が俺の顔を撫でた。どこかたどたどしく、おずおずと探るような手つきに思わず気恥ずかしさを覚えてしまう。今まで暴力的な扱いは受けてきたが、こんな扱いを受けたことはなかった。ちょっと泣きそうになってしまった自分が恥ずかしい。
「ねえ、あなたのお名前は?」
名前……か。そういえば、ずいぶん言ってなかった気がする。ここで囚人として過ごす俺には長らく不要だったものだ。かつての記憶を呼び起こしながら、俺はその言葉を口にする。
「……ウルブ。昔はウルと呼ばれていた」
「ウル。いい名前ね。じゃあ、私の事はメアって呼んで」
「わかった。じゃあ、メア」
「なぁに、ウル」
「今すぐここから帰るんだ。早く」
だが、彼女は不思議そうに首を捻り、
「どうして?」
「どうしてって……ここは君みたいな子が来る場所じゃない。いいから、帰るんだ」
「でも……」
「帰るんだ。早く」
「……わかったわ」
名残惜しそうに俺の頬を撫でてから、彼女は手を引っ込める。どことなく寂しそうな仕草で身支度をするのを見ているとつい胸が痛くなった。だが、これもしょうがないことである。彼女のような存在は俺と交わるべきではないのだから。
「じゃあね、ウル。また明日」
直後、ろうそくの明かりが消え、穴の向こうはまた暗闇と化す。あの口ぶりから察するに何もわかっていないようだ。きっと、明日も来ることだろう。