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爽やかな春風が、砂を巻き上げながら、桜の花を散らしていた。
河川に並ぶ桜の木々は、散り初めだしている。
今年は、異様に暖かい日が多い。
桜通りの河川敷を、一人の若い女が歩いていた。
華奢な体に、セミロングの髪を後ろで束ね、ほんのりと塗った化粧にベージュのスーツを身に纏っている。
女は肩にかけたカバンから、一つの封筒を取り出した。
封筒には、女の住所があり、『奥村 陽子 様』と書かれていた。
奥村 陽子
若く華奢な女の名前だ。
陽子は、大きめ茶封筒をひっくり返す。
左下あたりに、住所と『きずなの家』代表者 片瀬 正徳 とゴム印で押されていた。
ここが、私の仕事場なんだ……
封筒を握りしめ、バックにしまう。
母親から貰った、白色のショルダーバックだ。
母の愛用していたバックで、良く言えばレトロだが、悪く言えば古臭い。
陽子は、仕方ないと思いつつ、肩にさげていた。
桜通りの河川敷から、橋を渡るとそこには信号機がある交差点になっていた。
交差点の近くに、電信柱がある。
ん?何これ?
陽子は、電信柱を……いや、電信柱に飾られたポスターを見た。
「どう言うこと!?」
陽子は、眉をしかめる。
ポスターは、『きずなの家』のモノだった。スタッフ募集と書かれてあり、建物の写真と簡単な説明があった。
陽子の目的地だ。
飯のタネになる場所でもある。
しかし、陽子が眉をひそめ、憤りを感じたのはポスターではない。
落書きだ。
ポスターには、赤い油性のマジックの落書きがあった。
『害虫』
大きく書かれていた。
「ひどい!」
眉をひそめ、唇を噛みしめた。
「いくらなんでも、これはないわ!」
ジワジワと、怒りがこみあげた。
何だと思っているの?
陽子が『害虫』に怒りをこみ上げていた時、一台のワンマンバスがバス停に止まった。
バスは、一人の老人を降ろすと、また走りだす。
老人の降りたバス停から、陽子の見ていたポスターは目と鼻の先にある。老人が陽子が怪訝な顔をしていることが、気になり声をかける。
「ねーちゃん、どーした?」
陽子は、その声に振り向く。
「あっ……これ、ちょっと酷くないですか?」
陽子は、ポスターを指差した。
老人は、その先を見る。
「へぇ、うまく書けてんなぁ」
老人はニタニタしながら、『害虫』を褒めた。
「それは、どういうことですか!」
陽子は怒りを表に出し、老人を睨み付ける。
「きずなの家は『害虫』の巣だ」
老人はそう言うと、陽子とは反対の方向に歩きだした。
陽子は老人に言いたげではあったが、何も言わずにいた。
老人の言うことも、ある意味否定できないことを陽子は知っていた。
つまり、『害虫』の意味を、陽子は判ってはいたのだ、それを認める訳にはいかないとしても……
白い軽自動車には、きずなの家と描かれあった。
陽子は、それに同乗している。
待ち合わせの役所前で、陽子を軽自動車は拾った。
「クルマ、持ってないの?」
運転しているスタッフが、陽子に聞いた。首からさげている社員証は、左胸ポケットにクリップて止められてあり、「南部 士郎」と書かれてある。
「クルマ、あります。大丈夫です」
硬い表情で、陽子は応えた。
「まあ、ないと困るから、良かったと言うべきかな?それとも、当然だと言うべきか!」
荒っぽい運転をしながら、南部は言った。
今回は送り迎えがある関係で、施設のクルマで陽子を乗せているわけだか、南部は正直面白くなかった。
陽子もそれを感じとった。
「スミマセン、でも今回は、送迎をしてくれるとありましたか……」
「わかってますよ!家長から、細かい内容は聞きましたんで!」
引きった笑顔は、目が笑っていない。腐った鯖のような目をしていた。
「家長?」
陽子は、頭を傾げる。
「きずなの家の代表者ですよ。だから、家長と言うんだ。
名前は、片瀬 正徳さん
俺達の長でもあり、きずなの家の責任者……まあ、書類を見ているから、知っているとは思いますがね」
南部はそう言うと、大きなあくびをした。
少しアクセルを踏んだようで、エンジンが唸りを少しあげその分だけ、スピードが増した。
「春は、眠いですよね」
陽子は、言った。
南部の大きなあくびに、反応した言葉だ。
「眠いよ……本当なら、夜勤明けで帰るのに……残業手当は出るけどさ」
ひきつった笑い顔で、陽子を少し見ると南部はまた前を見た。
「スミマセン」
陽子は、短く、弱く言った。
クルマは、山沿いに走っている。
いつの間にか、人気がなくなっていた。
陽子は少し心配になった。
外の景色はまだ雪が残り、標高が高いことがわかった。
「心配ないぜ、もうすぐ着く。まあ、好みでもないしな!」
ケラケラと、南部は笑った。
陽子の心を見透かした様に……
雪が残る山沿いの道を走り続けると、道が二つに別れているのが見えてきた。
一つは山の頂上まで伸びているようで、一つは緩やかな下り坂になっている。
下り坂の道には、案内標識がありそこに「きずなの家」と書かれてあった。
クルマはもちろん下り坂に、入って行った。
「新人、もうすぐだ」
南部は、言った。
「……」
陽子は、無言でうなづいた。
下り坂の一本道は、左に折れている。その折れた所を、軽自動車は道なりで曲がった。
春の芽吹き前の草むらと、土で汚れた名残雪の景色から、オレンジ色を基調にした建物が陽子の目に入ってきた。
封筒に入っていたパンフレットの写真より、少々暗めのオレンジ色の施設は『社会福祉会 自閉症自立支援 きずなの家』と呼ばれている。
正直、なんだか異様な感覚に、陽子は襲われた。
それは自然の澄んだ空気や、空の青さ暖かいお日様が全て、異様なオレンジ色に染められていくような、可笑しな感覚だった。
「ここが、きずなの家……」
陽子は、言った。
「そうだ、このオレンジ色の可愛い鉄骨の建物が、きずなの家さ。俺のいる場所で新人が門を叩いた場所だ」
南部は、言った。
死んだ鯖の瞳が、ここに着いたとたん、キラキラと輝きだした。
まるで、悪さを企む、子どものような感じだ。
クルマは、きずなの家の裏側に回った。そこには大きな駐車場があり、数台のクルマが主人を待っている。
そして、かなりの駐車スペースが空いている。
「この駐車場が、全て埋まることはない。好きな所に停めるといい、但し家の近くのスペースは、専用車両用だからそこはダメだ。まあ、黄色い線が引いてあるあそこら辺りだな」
南部はそう言うと、黄色い線のあそこら辺りにクルマを停めた。
陽子と南部がクルマから降りると、そこからは町が一望できた。
大きな町がほとんど視界に入り、なかなかいい眺めだ。
つまりきずなの家は、高地にあるとこを意味している。それだけ、人目に付かない場所にあるのだ。
「隔離……」
陽子は、呟く。
肌寒い空気に、どこか閉塞感を感じていた。
「さて、家長のとこまで、行こうか」
あくびをしながら、背伸びをしていた南部は、フーと息をつきながら言った。
その声に陽子は南部を見ると、コクンと頷いて施設の裏口を目指そうとした。
「ワー!ウワァー!アウアウ!」
何か悲鳴?雄叫び?が、きずなの家の玄関から聞こえる。
それは、陽子の耳にも入り、歩き始めた足が止まった。
「ワーーーーーー!がぁーーー!」
陽子は、呆気にとられながら、奇声を聞いていた。
南部は頭を掻きながら、苦笑している。
「また、将太クンか……」
南部は、言った。
「将太……クン?」
陽子は、首を傾げている。
「そう、将太クン、家に入居しているおバカさん一人だよ。本来なら午後のチーム作業中なんだが、アイツらしっかりしろよ!また、脱走だ」
奇声の方向に、軽蔑の目を向けながら、南部は言葉を吐き捨てた。
「あのー、スイマセン!バカは差別用語になります」
陽子は、南部に言う。
その声に、鋭い視線で南部は、陽子を見た。今まで、のらりくらりとしていた姿からは、想像もつかない殺気に満ちていた。
「申し訳ありません」
陽子は反射的に、南部に頭を下げ詫びた。
悪いことは言っていないが、ここは低姿勢がいい……本能がそうさせた。
「本当に、そう思ってる?」
「はい、出過ぎたことを、お詫びします」
陽子は、頭を下げ続けた。
…………
南部は、無言だった。
ナイフのような鋭い視線は、陽子のベージュのスーツを見ている。
ナイフが笑う!
そんな感じで、目が細くなった。
ニタニタとしている。
南部は、何かを企んでいた。
そして、行動に移す。
「新人、表に行くぞ。少し手伝え」
南部は、言った。
陽子は、頭を上げる。
「わかりました」
と、言った。
ふっ
悪戯な微笑みに、何かある……
陽子は警戒しながら、南部といっしょに表玄関にまわった。
第一話
赤を舐める青年
きずなの家、玄関近くにポストがあった。
ポストの入り口は、粘着テープでグルグル巻に封印され使用不可になっている。
数ヶ月前に、郵便局ときずなの家のやりとりで、ポストを撤去する取り決めをした。
ここで、ポストに手紙が入ることは、ほとんどなく、余計な仕事を増やしたくないと、郵便局から通告があったからだ。
家の方も、なくなったところで、不便ではないとの理由で、使用不可にした。
後は郵便局の、取り壊し待ちだった。
そのポストに、抱き付くようにへばりついている青年がいた。
その青年は奇声をあげて、ポストを舐め回している。
唾液によって汚された場所と、唾液が垂れて汚染された場所が、お日様の光に反射していた。
「またそこ!将太クン!」
玄関から、悲鳴に近い大声がきこえた。
大声を上げたのは、水野 摩季と言うスタッフだ。
黒髪ショートヘアーの、ふっくらとした娘で、昨年短大卒業と同時にスタッフとなったまだ駆け出しの社会人だった。
「……」
水野の後から、無言で歩いてくる大きな身体の中年男がいた。
丸坊主で、強面である。
そして、何より無機質に見える。
スタッフ証には、加藤 一とあった。
「将太クン!」
水野は、再びヒステリックに叫んだ。
「はいはい将太、みんなの所へ戻ろう」
低い声で、加藤は言った。
やる気なさそうに、棒読みである。
青年……将太は、相変わらずポストに、唾液をたれていた。
ポストの封印された入口辺りを、必用に舐めている。
ポストは勿論、封印している粘着テープまでもが、唾液まみれだった。
その姿を見る度に、水野は背筋に虫酸が走る。これでも慣れた方だと言い聞かせ、距離を少しずつ近づいて行く。
ヤレヤレ……
加藤は、水野のフリに軽蔑の眼差しをむけた。
やる気なさそうに、そんな感じに見えたのは水野と今回ローテーションを組んで、仕事をしていたからだとしておこう。
加藤は水野を異性としては歓迎しているふっくらとした身体と、あどけない顔はストライクだ。しかし、同僚としては、最低であった。
例えば、今のこれだ。
口だけで、手を出さない。
加藤はワザと肩で水野にぶつかり、水野の前に出た。
そして、ポストに愛撫する青年に、肩に手をかけた。
「将太クン、戻ろうよ。後で舐めればいいんだから……」
加藤はそう言うと、力で引き離した。
「ギャーーーーーー」
力づくで引き離された、青年……将太は断末魔の叫びを上げた。
甲高い叫び声は、玄関はおろか家の裏側まで響き、陽子の耳にも入った。
「……」
怪訝な表情で、陽子は叫びを聞く。
「やってる、やってる」
ポケットに手を突っ込み歩く、南部は面白そうにしていた。
陽子が玄関前に来ると、加藤が力で将太を家に戻そうとしている。水野は、あたふたしていたが、南部の顔を見つけると、藁を持つかむような感じで大声を出す。
「士郎さん!」
「はいはい」
南部は、水野に手を挙げて応えた。
加藤も目を向けた。
「おっ、士郎君、今日は終わったんだろ?」
加藤は、言った。
「いちさん、ウッス!」
南部はあいさつすると、親指で陽子を差した。
なるほど……
加藤は、理解した。
「残業、お疲れさん」
加藤は、皮肉混じりに言った。
スタッフ達の会話中も、将太は叫びながら暴れている。
まるで、主の言うことを聞かない、飼い犬のようだった。
将太は、陽子に気付く。
いや、違う。
陽子がベージューのスーツを、身に着けているのに気付く。
それを見た南部は、加藤に駆け寄り、押さえつけていた将太を、「いちさん、スンマセン」と言い解放した。
「お!」
加藤が一言ある前に将太は、歓喜に近い叫び声を上げながら、陽子に一直線に突進した。
えっ、まさか!
陽子はこちらに向かって来る将太に、身動き一つ出来ない。人は心の虚を突かれると、全く動けなくなる見本だった。
陽子は、将太に抱き付かれる。その際に陽子の視線は、南部の笑っている目を見た。
陽子は漸く、南部の企みが判った。
「いやー!」
甲高い大きな声が、周囲に響く。
陽子は、頭を抱えうずくまる。
将太の鼻息と、ハーハーと薄気味悪い息が、陽子の耳に入った。
将太はベージュ……鮮やかな赤色に、心を奪われる。
陽子は震えながら、うずくまったままだ。
「おい、士郎!やりすぎだ!」
加藤はそう言うと、将太を引き離すために陽子に近付いた。
水野は、ただ呆然とやりとりを見ている。目に不安と、足に震えを感じながら、起こっている出来事を見ていた。
将太は陽子に、覆い被さるように、抱き付いていた。
しかしその後すぐに、陽子の右手を引っ張りはじめる。
ん?
不思議な行動に、加藤は将太を見た。
右手を引っ張られる将太に、陽子は腕が抜けるくらいの痛みを感じ、成り行き任せに立ち上がる。
すると、将太は陽子の右手を更に引っ張り、ポストの粘着テープが巻かれて部分に右手を押し付けた。
?
どうゆうこと?
陽子は不自然な将太の行動に、どこか引っかかった。
将太は陽子の右手で、テープを剥がそうとしているのだ。
何?
どうしたいの?
「はい、将太クン、ここまでだよ。」
面白そうに見ていた南部は、そう言いながら、将太に声をかけ、陽子の掴んでいた手をはなした。
その時、南部は陽子に、「これくらいにしてやるよ!」と、ぽつりと耳元で呟く。
『コイツ!』
心の中で、陽子はほざいた。
加藤は何かあったことに、気付きはしたが何も言わずに、将太を取り押さえた。
加藤に取り押さえられた将太は、再び奇声の叫び声を上げる。
加藤は何も言わず、将太を家の中に強制連行しようとしたが、水野が目に入った。
「水野、汚いと思うなら、辞めてしまえ」
凄みのある加藤の大声を、水野に言葉を吐いた。
「辞めてしまえ」をぶつけられた水野は、顔が引きつっていた。
何だか、笑っているようにも、陽子の目からは見えた。
「さて、俺帰るわ。水野、後頼むわ!っことで」
そう言うと、南部は背中を向けて、歩き出した。
どこか、嬉しさと達成感が、歩みに感じられた。
陽子はそんな南部を無表情で、少し見送ると、水野に声をかけた。
「スミマセン、ここの代表者さんに会いたいのですけど」
「えっ、あっ、はい」
水野は、陽子の声に我に返った。
加藤は先に将太を抱えて、その場を去っていた。
水野は肩で息をして、気持ちを整える。
「チーム作業場の途中に、家長室がありますのでそこまで、いっしょさせて下さい」
水野は、笑顔で言った。不自然な笑顔だ。
ヤレヤレ……
陽子は、空を見上げた。
皮肉なくらい、青い空だった。