49話 温徳殿、天水出立
続きを投稿。お楽しみ頂ければ幸いです。
少しずつながらも、内容は前進させていきます。
ではどうぞ。
洛陽、温徳殿内部。
床天井壁に内装外装に至るまで、匠なる意匠が施された建物の中に宮服を纏いし者達が生活するは、後宮に住む女。そして、中常侍。男根を切り落とす事で禁中に入り、帝に仕える事を許された彼等は普段財産、神器の管理から料理、清掃に至るまでの雑用をこなす。
勿論、帝の印璽を預かり詔を自在に操ることも。
宦官は皇帝や寵妃に重用され、権勢を誇示する者も出て来るようになると、自主的に去勢して宦官を志願する自宮、という事例も出てくるようになった。その様に欲望を剥き出しにして後宮に入る者が居る為、各々は表では皇帝を補佐しつつも、黄巾賊の乱では自己保身で頭がいっぱいの愚人が多い。
―――と、中常侍にして十常侍筆頭、張譲は部下に足を洗せつつそう考えていた。
「下拵えは、万端か」
瞑目の中で天井を仰ぎ、さも気持ち良さげに語る皺の多い彼の顔は、宮中の中に於いて知らぬ者は居ない。
その知らぬ者さえいない張譲の背後で中常侍達が静やかに立つ中、宮中に於いては見知らぬ顔の者が口が開く。
「張譲様のご随意のままに」
「ふん、息巻いて楯突いてきおった時は、流刑にでもしてくれようと思うたが……中々どうして、塩梅を知る食えぬ胡娘よ。お主の言う通りであったな」
「恐縮で御座います」
恭しく礼をする彼に、張譲は愉快そうに喉を鳴らして笑う。
「これで私の悩みの種は除かれ、お前の望みも叶うた事になるな」
「恐れながらも」
「単身私の屋敷を訪れた時は物乞いかと思うたが、ちと良い拾い物をした様かな。ほっほっほ」
湯で足を洗われる張譲に、背後に立つ男は礼をしたまま、口元を僅かに歪ませた。
天水太守董卓が臣、李儒の元腹心、馬扁。
彼は宮服を纏い、張譲の侍従として傍に居た。
腰の革帯に七本の短刀。上半身には機動性を殺さぬ様細く、且つ薄く編まれた鎖帷子。手脚には革製の護具。そして背中の革帯に小太刀を差込み、二本のサーベルを佩く。
神坂が今回の出征で持ち出すのは、これのみ。
馬上の戦いに至るならば三尖槍なり偃月刀なり持ち出すが、その場合は輜重より使えば済む。副軍師として董卓と賈駆と共に居る場合が多いだろうが、常勢が無い戦に斯様な常識など持ち合わせる事は出来ない。ともすれば、長刀も事前に用意すれば良かったのか。
「やめやめ」
言った所で今更と首を軽く振り、自室より出ずれば外に高順。壁に寄り掛かる彼女も斧槍を持ち、戦支度を済ませている。
「よう、もう済んだか」
「ああ。……思えば遠征なんて初めてだから、他に揃える物がないかとつい模索しちゃうね」
「もう良いだろ、昨日から散々ぱら確認点検してんだ。それよか早く行かねェと眼鏡が癇癪起こすぞ」
「それは怖いね、何よりも」
藍色の羽織を纏い、彼は半歩後ろの高順を引き連れ歩を進める。
司隷、豫州に荊州への遠征。
己が知る歴史と詳細が本来の流れより大幅に乖離されている。となると、そも愈々常識を捨て去るべきだと、思わずには居られない。
出征兵、その数九千。
涼州より出でたる者も居る中、各将の調練により整然たる並び、それは正に壮観なる眺望。段々に組まれた台座の上にて、董卓が中央に屹立し左右に将軍参謀といった重鎮。各々が凛然とした佇まいで居る中一人、董卓は主たる風格を保ちつつ、台座より悠然と兵を睥睨していた。本人には睥睨する気持ちは無くとも、兵には主君たる董卓の姿に緊張の為か、そう見えてしまうのは致方ないだろう。
呂布、張遼、華雄、臧覇、姜維。
特に各将が手塩に掛け鍛え上げた麾下は、思わず将軍と呼掛けしたくなる程に精悍な顔付き。その中で、明らかに敬遠されている様に全体の隅に居る兵。
李傕、郭汜ら破落戸の隊五百。
高順の調練よりあの日から一人として欠けていない事に、神坂は口元を綻ばせた。
これより中原への遠征。
知恵の働く者ならば九千の内四千が騎兵となれば、飼料となる秣やそれを引かせる牛馬、即ち輜重。四千という数では行軍が鈍重になり勝ちではないのか、という疑問。
擁州涼州とは住まう天も地も人も異なる。
風土病への配慮は。
激戦区となっている豫州の情報は。荊州は、司隷は。
様々な疑問が生まれ、絶えることはない。
思考は違えど、兵も同じ。
生き残る事が出来るのか、無事家族の下へ帰れるのか。
己が力は敵に通ずるのか。
未開と言ってもいい、中原への遠征。
不安、焦燥、懸念。
それ等が心中に渦巻き、一部の兵は穏しからぬ心境。
ドンッ、と台上より音。
兵達の空気を縫い、重く発せられた音源は董卓が持つ刀を地に降ろした音。
かつて、董卓がまだ天水太守になる前の事。耕田に際し一振りの刀を見つけ、大学者で知られる蔡邕に項羽刀と鑑定された。以来戦に際し時、不敗たらんと臣下に進言され今迄持っていた。今持つ刀が、正にそれ。
「私は中原を見た事があります」
吸、と息を入れ董卓は兵では無く、彼方を見るが如きに語る。
「天はかくも穏やかで、社稷は祀られ地は豊穣となり、人は繁華の中で紅灯緑酒」
しかし、と紡ぎ、瞑目。
「彼の天は淀み、社稷は蔑ろにされ実りの地は荒廃。人は荒みきり親は子を売り、心腹の友を裏切り一日の糧を得る。悪官汚吏が蔓延り不満怨念が天下に満ち、官軍は剽賊にすら劣るようになりました。中原はかくも惰弱にして淪落のものとなりました。……そして」
―――罪無き民だけが、犠牲となった。
「中原の民と私達とでは住む天も地も違う。しかし、唯一不変たるは同じ漢族。耳を澄ませば、今でも彼等から聞こえてきませんか」
民の一人一人の、悲鳴が。
「奪う事しか知らない賊から、救いたいと思いませんか」
震える手は何の感情か。
憤怒か、悲哀か、或いは、恐怖か。
……否。
「私は助けたい。戦禍に喘ぐ人達を、今尚助けを求める人達を。でも、私一人では余りに非力。だから」
彼女は謳う。
魂の根底にある願いを、全てを込めて絞り出す。
「勇士の方々、私達を信じてどうか力を、貸して下さい」
立場上頭は垂れない。あくまで屹立し、悠然たる出立ちで皆に放った言葉。
然れど懇願とも取れる言動は、人の上に立つ者として不全のもの。
「……お」
誰かが漏らした。
何故であろうか。
彼女の言葉に侮る事も、ましてや不全と思う事もない。
「おお」
彼女の言動の所為か、或いは己に点在する義侠心故か。
全身より沸々と湧き上がる衝動。
剣を持つ手が炎の様に熱い。
身体が芯より震え、声が漏れる。
大呼を挙げ己が全てを今吐き出したい、この感情。
「おおおおおおぉぉぉッ!」
誰かが吼えた。
それに触発され一人、また一人と。
いつしか声は、一人のものから九千のものへと。
剣を掲げ、槍を掲げ。
台上に居る将軍へ、軍師へ、そして董卓への意気。
いつしか疑問や不安は、消え失せていた。
「いざ中原へ」
董卓は項羽刀を抜き、遥か東に向ける。
台上に居る者達も剣を抜き、遥か東へ向ける。
賊共に負けるつもりは、毛頭ない。
そして兵への鼓舞の後、九千の兵を率いて天水城を出立。
留守を任せる張済、樊調、徐栄の三将軍。執務代行の文官達と天水城民より見送られ、天水郊外の野を行軍する。
「先ず新平にて馬騰の軍と合流し、長安へ入城。後に函谷関を経由し洛陽を守備する大将軍何進へ拝謁、そして司隷周辺の黄巾賊を薙ぎ払う。その後、穎川で駐屯する皇甫中郎将と連携し、黄巾賊を討つ」
「荊州国境の賊は」
「勿論穎川と荊州国境へは軍を二分して派兵、と言いたい所だけど、実情そう上手く行くかどうか分からないわ。場合によりけりね」
時折空馬を用いて斥候を操り、付近の警戒をしつつ構成される軍は前軍に張旗と華旗。後軍に呂旗と臧旗。そして中軍には董旗の牙門旗に添う様にして連なる賈旗と姜旗、そして高順の旗である高旗。旗は無いが、客将である趙雲、戯志才、程立の三者は本人達の要望により前軍に配置された。
副軍師である神坂の旗が無いのは、元来の姓名より旗を掲げる為、そうなると神坂の場合は色々問題が発生する。故に、製作しない事とした。
「あの、でも勅令では皇甫中郎将と司隷周辺の賊掃討ですよね。確か現在は穎川の黄巾賊と交戦中で奮戦中と聞いたんですけど、その辺は」
「そうですね。もしかすると司隷は私達の軍と馬騰さんの軍のみで、戦う事になるかもしれません」
「……勅命、ですよね」
「言いたい事は分かるけど、だからこそ時と場合よ」
「じゃあ別に態々軍を二つに分ける必要無くない? って思う俺は駄目な子ですか」
「本当はそれが理想ですけど、私達は実質、北中郎将の盧植さんの後釜同然ですので、皇甫中郎将の様に止むなき事情が無い以上厳しいんです」
「皇甫嵩率いる官軍は兎も角、他の官軍は練度上期待出来る訳も無く。実際連携取るなら、皇甫嵩と馬騰の軍にしか期待出来そうに無いわね」
賈駆の言は理解は出来るが、董卓の言には納得はいまいち出来兼ねる。勅命というものは、えてして謹んで拝命するのが当たり前、という常識を持っていた神坂と姜維は首を傾げてしまう。
しかし皇甫嵩、盧植、そして馬騰。
皇甫嵩は乱の折、党錮の禁の解禁、銭穀軍馬放出を帝に具申する胆力の持ち主にして、文武両道清廉の士。人物像の詳細は知らないが、信に値するのは確かだろう。
盧植は節義を重んじ博学にして剛毅。冀州にて黄巾賊を打ち破り快進撃を見せた。が、帝より派遣された監察に賄賂を要求され、それを断ったが為に免職となった……らしい。定からぬ事ではあるが、恐らくこの情報に間違いはない。罷免された後は名門の出、袁紹の軍が冀州の賊討伐に乗り込んだと言う。
そして、馬騰。
董卓と賈駆曰く、一世之雄にして進取果敢の人と聞く。
豪放磊落な性として西方の雄と言っても差し支えのない人物とも聞いた。直接話した事はないが、董卓と賈駆の口ぶりから信に足る人物であろう。兵は五千を率いての遠征と聞いていた。
「でも良かったんですか、行軍の足を乱してまで俺の……睡蓮さんの故郷に立ち寄らせて貰っても」
「良いのよ、別に。遠征途中だから挨拶程度の時間しか上げられないけど、通り道なんだからそれ位」
「……有難う御座います」
「それに、ボクも一度挨拶した方が良いだろうし。二人の面倒預かり身として」
言われ、姜維が数瞬考えているのを見、神坂はハッとして止めようとしたが間に合わず。
「私達、やっぱり飼い犬みたいですよね」
「ああやっぱ言ったよ畜生睡蓮さんはそんなにその表現が好きかね」
前にもあったよこんなやり取り、と神坂が言い姜維が思い出し照れる様に、困った様に笑い、賈駆は肩を竦ませ董卓も微笑んだ。
……しかし。
董卓のその微笑みに一瞬陰りが生じたのを、角度上二人は見ることが出来なかった。




