41話 変わりゆく日々(伍之巻)
これにて一旦区切られ。
すこし雑把になり勝ちな部分があると思いますが、お楽しみ頂ければ幸いです。
住家は傷み崩れとても人の住める環境ではなく、軒並みも似た様なものだった。道々には腐臭を発する作物から鼠といった動物の骨の残骸。そして地に座し物乞いをする老人から無気力に壁にもたれ掛かる大人、力無く横たわる幼子。それらに共通して言えるのは目に光無く生気を感じる事さえも危うく、虚無が宿る目。
天水城下の離れ。
南地区画の一部。
一日に何人が産まれ何人が死すかも判明されず、個人の戸籍さえ存在しない。
家族を亡くし、或いは一切の財を奪われ失い、或いは流民として着き。
その者たちが今日まで生存出来たのは人目を掻い潜っては盗み、泥水を啜っては木の根を齧り、極限の中で必死に生へとしがみつく執念が故。
確かに言えるのはその中で永遠の闇へ誘われる者が日に幾人も居り、此処の住人と化す者が日毎に増すのも又然り。
だから今日も、それで一人の少年が果てようとしていた。
虚無を発する瞳は一切の光も無く、やせ細った体躯に肉付も見られない。
端々が切れた泥塗れの麻服を纏った彼は身動き一つ取ることも出来ず、地へと横たわっていた。
病で父母を亡くし生きる為に食の盗みを働いては数日間で保たせ食い繋ぎ、鼠や虫さえ喰み続けたが、それも既に限界だった。
自失が続き身体の活力は空腹へと奪われ、指一本動かす事すら儘ならない。
己は今日死ぬ。
霞む視界の中で彼は自分の事ながらも漠然と捉えていた。
……いい加減ウンザリしていたかもしれない。
極限の中で生きる理由は何だったか。
人としての尊厳を棄ててまで生にしがみつく由縁は、何だったのか。
……それを考えるのも煩わしい。
いっそ、死と共に忘却してしまおうか。
「腹、減った な」
だがせめて。
死ぬ前くらいは腹一杯に飯を食らいたかった。
視界が霞む彼方より来たる、数十人分の飯を一気に腹へ収める程の量を。
もう空腹なんて気にならない程に――――…
「あ れ」
彼方の数十、人。
……数十人?
「此処で良いか?」
「良いだろ。半分は此処に残して残りの半分は、廻りへ布告な」
「なら俺等は布告行ってくるわ」
兵士。
董卓軍の兵装をした者たちが荷を積んだ二輪の車を運び水瓶を担ぎ、次々に通りを占拠していく。荷台は筵で覆われているが、少年はそれを本能的に正体を掴んだ。
「あ あ」
うつ伏せになりながらも這ってそれに近付こうとする反面、兵達は通りに立ち並び、設置した机に大きい椀を山積させる。
そして作業を終えると一人が立札を地へ刺し、兵達の先頭に立つ男は声高らかに叫ぶ。
「我が名は宋憲。窮する民草共よ、此処にありったけの食糧がある! 未だ生への渇望ありし者はこの飯と共に仕事を与えよう! 今此処より人として生きていくか、このまま野良狗の如き死を迎えるかを選べ!」
宋憲が荷車に覆い被さっていた筵を払い除け、その荷姿が露になった。
握り飯や点心、野菜。
それも荷車一杯に積まれ、それは一乗分だけに収まらず。
「……めし」
誰かが立った。
草履を履かない骨張った足を引っ張り、ひたひたと兵達の下へと歩む。
「めしだ」
一人。また一人。
虚ろで生気のない瞳を宿しながらもその両足はしっかりと大地に立たせ、歩んで行く。
「め、し」
少年も歩む。
訪れたであろう死。
諦めかけた生。
合切を捨て置き指一本動かせなかった身体は何時の間にか立ち上がり、荷台に積まれた食料は手を伸ばせば届きそうな距離に。
宋憲はすぐ近くに居た少年に視線を向けると尚も叫ぶ。
「食らうがいい! そして今、生の実感を十分に噛み締めろ!」
「……ッ、飯だっ!」
虚無の中に生気を宿し、狂気に似た歓喜がその場で生まれた。
歩みは走りへと変わり人々は並べられた机へと殺到する。
直接荷台に近付こうとする者は兵に抑制され並べられた列へと押し込み、兵は両手でなければ持てない大きさの椀に握り飯や点心、温菜を放り込む。
順番に受け取った者は少し離れると地べたに座り込み、夢中となって食した。それは少年とて例外ではなく、配給を受け取ると列の先頭、並ぶ兵の前で食べだした。
「あぐっ、ングっ」
握り飯を夢中で頬張り、咀嚼も満足に行わず飲み込んで喉を通り、米が胃に到達した時。
少年の目から涙が溢れた。
止めど無く溢れる涙は頬を伝って手元の握り飯へと落ち、それも夢中で頬張った。
おいしい。
米だ、ご飯だ、
おいしい。おいしい。
「おい坊主、泣く力があんならちょいと離れて食うことに力使え。じゃねぇと後で困るのは坊主になんぞ」
兵士に促されて列を離れ、他の者と同様地べたに座り飯を頬張り続けた。
……もう、駄目かと思った。
いっそ死んでも良いとさえ思った。
苦しい思いをして生き続けるよりも、そのまま死んだって良いと。
「……っく、うぁ」
でも、どうだ。
自分はまだこんなにも生きたいのだ。
放り出した生をみっともなくも再び手にした。
涙も洟も垂らしながら飯も食っている。垂れ流すのは、生を再び掴めた安堵からか。それとも……
「うめぇ。うめぇよぉ」
周りの者も少年同様、顔をぐしゃぐしゃに歪めながら食していた。
誰だって死にたくなかった。腹を満たしたかったんだ。
どこか諦めの中に希望を持ち続けていて、それがもたらされたから泣くのか。
久々の『食』にありつけて嬉しくて泣くのか。
生の実感を味わえているから泣くのか。
それは、涙で濡れた握り飯を持つ彼等だけが知っている。
東中郎将、破虜将軍董卓より布告す。
一つ。仕事無き者から家無き者、以下に記載している場所まで来られたし。
一つ。流民難民は希望あらば土地を貸し、五公五民の下での生活を確約す。
一つ。各地の城に『免』の旗を立てた。その旗下にて帰順降伏した者は条件付きで命の保証を確約す。
一つ。天水の関税と市場税は免除とし……
「長ぇよ。幾つあんだ」
「いや四つ目で放り投げないで欲しいんだけど」
高順が投げた文書を片手で受け取り神坂は思い切り溜め息を吐いた。
天水城内、神坂の私室。
机に頬付きをして余所を向く彼女は不機嫌そうで、放り投げた文書はくるくると丸められた。
「食料持って城下に行った奴等が居たが、これに関係あんのか」
「まあね」
「死に損ないの奴らに恵んでやるって話か。詰まる所偽善かよ」
「勿論タダで提供する訳じゃない。城壁修理に鍛冶の補助、荒地からの耕作、農作物の実験とか諸々手伝って貰う予定だし。帰順した賊は無償奉仕だけどね」
「金と食料の出処は」
「天水豪族の提供。勿論、今後彼等に損はさせない心算でもある」
「……黄巾の馬鹿共がまだ喚いてるってのにンな事してて良いのかよ」
「拙いだろうね」
おい、と突っ込む彼女に神坂は余所を向いたまま。
「でも高順知ってる? 天水に限らず雍州や涼州って比較的黄巾党が少ないんだよね」
「……あ?」
「逆に豫州、荊州、冀州は激戦区になるだろうけど」
「何でンなことが分かんだよ」
「そうなる予定だから」
茶を啜る神坂を怪訝な顔で見つめるが、表情に変化はない。
「俺の知ってる雍州と涼州って氐族や羌族も入り乱れての叛乱云々で面倒な事になってると思ってたけど、月さんは全方向で友好関係築いてるからそういうの全然見られないし」
「……おい」
「出兵も多いと思ってたけど多少なりとも兵を温存する余裕さえあるから、良い意味で俺の知ってることは宛にならないけど」
「おい」
「まぁ俺も高順も忙しくなるからそこんとこ宜しく」
「おい!」
外まで聞こえる程の威力で机を叩き、茶や文書が軽く宙に浮いた。
少し驚いた様子を見せ、高順が何を言いたいのかを察した彼は「ああ」と思い出した様に訊く。
「不思議?」
「所の話じゃねぇ。なんでそんな詳しい風に語れんだアンタは」
「高順、その理由を聞いたらもう引き返せないけど、それでも聞く?」
「おい主さん」
机に足を乗せる彼女は眼光鋭く、それは舐めるなと言いたげな表情。
「アンタの際見極めるっつったろ。あとテメェの尺でアタイの尺を計んな」
「……そうだったね。なら高順、これは与太話でもなければ空言でもない。そして他言無用であると心得えよ」
その神妙な態度に高順は眉を顰め、乗せていた足を降ろし正面を向いた。
そして神坂の私室に董卓と賈駆が訪れた頃には、彼女は凶悪な笑みでもニヤリと笑う訳でもなく。
未知の物に出逢えた様な、嬉々とした表情を浮かべていた。
「ひなたさん」
「ん、帰って来たね」
天水北門。
人々が溢れ帰る城門付近には兵達が槍を持って立ち並び、開門したまま彼方より近付く軍勢を待ち受ける。
漆黒の華旗と紺碧の張旗。
各々が隴西と広魏の境より帰還する両将軍の凱旋を将兵は直立したまま迎える。
「……ていうか一緒に帰って来たね」
「あるんですね、こういう事」
感心した様子で嘆息する彼等は近付く軍勢に目をやりながら、董卓や賈駆、呂布に臧覇も並ぶ中に加わり待ち受ける。
「ひなたさん」
隣に立つ少女、姜維は視線を移すことなく呼び掛ける。
「宜しい、んですね」
「うん」
彼も視線を移すことなく門を向いたまま語る。
「……正直、私は複雑です。嬉しい反面、ひなたさんは矢面に立つ事に」
「睡蓮さん」
その呼び掛けはある種制止の意味も含まれ、それ以上彼女は紡ぐことは出来ない。
「俺、上邦で高順に斬られた時思ったんだ。俺達みたいな人間はいつ何時に死ぬか分からないものだって、改めて」
隣の彼女にだけ聞こえるよう、静やかに。
「このまま死ぬのは嫌だって。何も遺さず逝くのは嫌だって、思った」
感情に乗せず淡々と。
「だから、自分が出来る、自分だけの生きた証を残したいって」
――――思ったんだ。
「それに言ったでしょ、一緒に成長しようって」
「……はい」
「置いてけぼりは、嫌だから」
「ひなたさん」
「もう、自分を見て貰えないのも、嫌だから」
そこで初めて横を向きそうになったが、なんとか踏み止まる。
彼が何を思いそう語るかは分からない。分からないが、
「……私は」
小さく。
呟かれた言葉は神坂に届き、彼は微笑みながら「有難う」と返した。
姜維は己が発した言葉に赤面することもなく同じ様に微笑み、もう近くまで来ていた張遼と華雄を他の将兵共々包拳礼を以て迎える。
それから、幾許かの月日が流れる。
次回の話より多少間を飛ばすことになります。どうかご了承を。
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