魔性憑き‐3
グレイスはむくれていた。
「結果オーライなんだから、いいじゃない」
現在、三人は宿の部屋の中だった。アズは眼帯を隠した犯人を知ってグレイスを叱り付け、当のグレイスは不服そうに壁にもたれかかっている。そして、その二人の様子を見て、フランクはずっと何事か口を挟みたそうにしていたのだが、
「そうですよ。悪気はなかったのですから……」
やっと発言したのはたった一言だった。彼は彼女を擁護したかったらしい。
結局、フランクは魔性に対して友好的な人種で、アズが普通の人間ではないことを知ってもほとんど動じなかった。眼帯を隠した犯人グレイスは、それを理由に開き直ろうとする。「そういう問題じゃないって言っているだろう。――フランクさんも、あんまり甘やかしてはダメです」
だが、アズはそれを認めなかった。
下手をすれば通報されていたのだ。悪戯と言えども命に関わる結果になりかねなかった。
「罰として、買い出し」
アズは、メモを差し出した。簡単な買い物だ。朝食や必要な品を買うための店を示した地図と、数枚の硬貨も添える。
「買ったら先に食事を済ませていて構わないから。この辺りで落ち合おう」
アズは地図の一画をグレイスに向けて指し示した。
朝の散歩の件で、一応単独行動はできることが証明されたはずだ。簡単な買い物程度ならできるだろう。
「罰と言っても、やはりそのくらいが妥当ですよね」
実害も悪意もなかったのですし、とフランクが納得する。
「えぇー」
アズと一緒に行きたかったのにー、と不満の声を上げるグレイス。
「買い物くらいはできるよな……?」
「馬鹿にしないで!」
彼女は地図を握り締め、胸を張る。ぷんすか、という擬音がよく似合う怒り方だった。
「買い出しのことは、このあたしにまかせなさいっ。絶対に間違いなく買ってみせるから!」
それを聞いてアズは、なんだか余計に不安になった。
◆
静かでささやかな住宅が立ち並ぶ区画。アズはフランクに案内されて、その中を歩いていた。この辺りはオニテュの市街地で働く者が多く住み、日中は人気がない。
「むしろ安心しました」
歩きざまにフランクに聞いたところ、そんなふうに言われた。
赤の他人だから、と気軽に打ち明けたつもりだったが、思った以上に食い付かれたので急に不安になったのだと言う。言葉巧みに近付いてきて、息子を始末するつもりなのではないか、と。
しかし、息子を救える可能性があるなら藁にでもすがりたかったフランクは相談だけでもできれば僥倖だったのだ。なにしろ、魔性の話をしたら大抵の人間は嫌がる。
そこで、アズの素性を知った訳である。
「……魔性が怖くないんですか」
普通の人間なら怖くて当然だ。常識的に考えれば、魔性は害悪に違いないのだから。
「ええ。はじめはとても恐ろしく思っていました。でも、あの子が憑かれてから間違いに気付いたのです。少なくとも、魔性憑きは恐れるものとは限らないのだと」
フランクは『魔性憑き』という表現を使ったが、アズは違和感を覚えていた。
アズの意識は既に混合してしまっている。憑いている側であり憑かれている側でもあるのだ。決して、アズは魔性に憑かれている訳ではない。人間の体を奪った魔性としての意識も強く残っている。
確かなことは、当時死にかけていたアズの中の魔性が、差し出された少年に取り憑き生きる誘惑に抗えなかったこと。そして、少年としての怯え。
あの時、魔性が憑かなければ、少年は普通に生きられたはずだった。その事実が、アズの中では魔性の罪悪感であり、少年の絶望でもあったのだ。
決して、魔性として人間になりたかった訳ではない。これは償いのようなものだ。命を繋いで貰った恩を、仇で返したくはなかった。人間として生きることの叶わなくなってしまった少年に、魔性として生きろというのは酷すぎた。せめて人間の中で生きられれば。
それで、現在アズは人間の中で暮らすという選択をしている。
きっと、フランクの息子とやらも、アズと同じく『人間寄り』なのだろう。
魔性を害悪だと考える者からしてみれば、アズのような存在がどのように思われるのか、想像に難くない。『魔性に取り憑かれてしまった可哀想な人間=魔性憑き』と。
アズは人間の振りをして暮らしているが、魔性の部分も間違いなく半分を占めている。幸か不幸か相性が良かったらしく、最近はすっかりお互いの精神が同調してしまって思考の境目が判らないことが多いのだが。ちなみに、相性が悪くうまく融合しきれなかった精神は、どちらが主導権を握るかで争い、一方の精神がもう一方を殺してしまうこともあるらしい。そんな場合、大抵勝つのは魔性の側だ。
そんなこともあって、『魔性憑き』は人間よりも魔性に近い生き物だとアズは思う。人間の精神は脆いのだ。人間たることを否定されたら、壊れてしまう。そして、『魔性憑き』を受け入れられる人間など、おそらく世界中に数える程しかいないのだ。
「あの子は本当は優しい子なのです」
フランクと、元少年の兄。受け入れてくれる人間はいても、人間の心は歪んでいってしまう。魔性の心よりも、変わってしまいやすい。ただでさえ精神が混ざり合ってしまうのだ、元通りの『本当の』息子はもう戻って来ない。
「どうか、ニックを助けてやってください」
フランクが低頭する。
アズにできることはそう多くない。助けが必要かどうかさえ、よく分からない。実際はどうだか、会って確認してみる必要があった。
◆
ニックは十歳になったばかりだった。五年程前に母親を病で亡くしてからは、フランクが男手ひとつで育ててきた子供だ。
妻が亡くなって以来、フランクはニックを馬車に乗せ、いつも仕事場に連れていた。もうそろそろ仕事の手伝いも卒業して、まだ一人前とはいえないが、簡単な仕事は任せられるようになる頃だった。
しかし、事はそううまく運んでくれなかった。
雲ひとつなく晴れたある日、フランクはいつものようにニックを連れて馬車を走らせていた。
もうすぐ走ればオニテュに着くな、と思った時、フランクの真上の空がかげった。
見上げると、両翼を広げた鳥によく似たシルエットが不安定に滑空していた――鳥かと思ったがよく見れば違う。胴体には獣のような体毛が生え、尻尾がはためいている。
ふらついては高度を下げるそれが、うまく飛べていないのは一目瞭然だった。
「父さん、あれ、飛ぶ練習みたいだね」
フランクは、少し離れたところを先行して飛んでいく親の姿を認めた。
子連れの魔性は気性が荒いとよく言うし、魔性が輸送の馬車を襲うこともある。警戒するに越したことはない。
「ニック、危ないからお前は隠れていなさい」
ぎしぎし、という妙な鳴き声が親鳥のほうから聞こえたのは、フランクがそう言うのとほぼ同時だった。
「ぼくは平気だよ!」
不満気に主張して見せたニックにも、変化が訪れていた。
――ぼんやりと輪郭を包む蒼白い光。
「……え?」
「どうした?」
そして、ニック目掛けて真っ直ぐに墜ちてくる魔性。その体も淡く輝いているように見えた。
体を薄く覆っていた光は、勢力を拡大し周囲の空気をも侵食していく。
強い光に飲み込まれる二つの小さな影。
フランクは直視することができず、目を細め、思わず目をそらした。
光が弱まって、フランクが荷台に蹲るものを見たとき、そこにいたのは、もう『ニック』ではなかった。
翼が生え、羽が生え、獣のような姿の少年が、怯えた目をしてへたり込んでいた。
「……と、うさん?」
「本当に、ニックなのか?」
上空を旋回し続ける親鳥を見上げて逡巡したまま、少年は黙ってしまった。
「……さあ、これを被りなさい」
フランクは、毛布を手渡した。
「このまま街まで突っ切ろう。大丈夫、見捨てはしない」
とにかく、フランクはそのニックと覚しき少年を連れ帰り、自宅の一室に匿うことにしたのである。
◆
アズが通されたのはカーテンを閉め切った薄暗い部屋だった。
窓が開いているらしく、カーテンが風で揺れ動いている。部屋の中は、物が散乱していて足の踏み場がない。部屋そのものはまだ新しいから、これでは、グレイスの小屋とまるで対極の状態だ。
「ニック?」
ベッドの上に寝ているはずのニックを起こそうと、フランクが揺するがまるで反応がない。違和感に気付いた彼は、上掛けを捲り上げた。
フランクの息子であるというニックはそこにいなかった。ベッドの上には、彼の代わりに丸めた毛布が横たわっていたのである。
「逃げた」
渋い顔をしてフランクが呟いた。




