蜘蛛の巣‐3
「取引しないか。俺は、人に危害を加えるのを止めて欲しいんだけなんだ。止めてくれるなら、代わりにひとつ、望みを聞く」
交渉の開始だった。
苛立ちを隠さず魔性グレイスの口許が歪む。
「さっきから言ってるじゃない。ずっと、死ぬまで、永遠に、アタシから離れずここにいなさいって」
嫌な条件だ。できればお断りしたい。
「そう言えば、他の人たちは?」
断ったらどうなるのか。それが知りたかった。
「ここに来た人たちはアタシの正体を知って逃げ出そうとしたのよ。ひどいでしょう? だから、逃げ出せないように閉じ込めたの。最近、アタシを殺そうとする人も多いけど、そういうのもきつーく縛って閉じ込めといたわ。もしアズがおとなしくしてくれるなら、自由にしてあげてもいいのよ、この小屋から離れなければね」
つまり、消えた村人たちは、もう一つの部屋に押し込められているということか。少なくとも、しばらくは生かされるようだ。
しかし、どうしてそこまでこのおんぼろ小屋にこだわるのか。グレイスのほうがアズについてくれば、トトナ村の問題もすぐに解決できるだろうに。
そんなことを考えていると、彼女はアズの左目を覆うものの存在を気に止めていた。
「ねえアズ、その眼帯、ないと困るわよね。何を隠しているのかしら。人に晒したくないから隠しているのでしょう?」
彼女はアズの自由を奪えることに喜びを感じているようだった。形勢は間違いなく、グレイスが優位だ。アズと取引などしなくても、彼女は思い通りに振る舞えるのだ。
危機の真っ只中だが、アズはひとつの可能性に思い当たった。――もしかするとグレイスがこの場所にこだわるのは、ただ怖がっているだけなのではないか、と。
「醜い傷? それとも痣かしら?」
アズは問いに答えなかった。
奪いたければ奪えば良い。アズは別に困らない。衆目に晒したいものではないが、グレイス一人に見られるだけならまったく問題なかった。むしろ、事実を知ってもらったほうが良いように思う。
するすると灰色の髪が腕を這上がり、アズの頬を撫でる。そして、器用に眼帯を外し持ち去っていく。
左目には傷も痣もない。右目と同じく茶色い瞳があるだけだ。
「アズ、あなた――」
グレイスの丸く見開かれた瞳から赤が引いていく。拘束が、弛む。
「アズも同じだったのね」
彼女が見たアズの姿は、人間のそれではなかった。髪と同じ、黒っぽい茶色の獣に似た耳が頭部から生えている。人間にしても魔性にしても中途半端な姿だ。
初めはアズも怖かった。
誰にも受け入れてもらえないのではないか、この姿がバレたら殺されてしまうのだ、と。
眼帯は、この姿を隠すための封じだった。身体的バランスを故意に崩し、姿を人間優位に変えるための枷だった。おそらく、グレイスのあの包帯もそうなのだろう。
「似てるだけだ、同じじゃない」
きっと、幼い頃のアズとグレイスは魔性に捧げられた子供として、似た境遇にあったに違いなかった。肉体や精神に魔性が混ざり込み、それを受け入れなければならなかった。だが、アズはこんな所で暮らすのは御免だし、人を襲う趣味もない。
グレイスはただ、寂しかったのだろう。アズには〈母〉がいたし、変わり果てた身を引き取ってくれる兄もいた。でも彼女は一人きりだ。
だから、敢えて言う。
「おいで、グレイス。人と暮らしたいならこんな所にいちゃ駄目だ」
この子をひとりぼっちにしてはいけない。誰もいないのならば、自分が保護者になろう。
グレイスはふらふらと、アズの許へと歩き出す。
「……アズ、あたし、大丈夫かな。怖いの、ずっと怖かったの」
顔を覆って、グレイスは再び泣き出した。
「人のいる所に出ていって、魔性を暴走させてしまったら、って。そう思うと、ここにしかいられなかったの」
「……」
そういえば、アズとグレイスの間にさらに大きな相違点があった。アズは治癒魔術しか使えないから気にしたこともほとんどなかったが、グレイスの魔力が暴走したらどうやって止めるのだろう――まあ良い。乗り掛かった船だ。なんとかなる、……だろうか。
ほとんど解けてしまった灰色の蜘蛛の糸を振り払って、アズは手を伸ばした。
「もう心配しなくていいんだ。暴走、しかけたら止めてやるから」
その手の先にいたのは人を喰らう魔性ではなく、一人の寂しがりの小さな少女だった。
◆
そこに一歩足を踏み入れたアズは、きつい腐敗臭に顔を顰めた。
グレイスの小屋の狭い別室には、たくさんの人間が詰め込まれていた。
村の青年と覚しき八人組、気性の荒そうな男が五人、何も知らずに迷い込んだらしい少女が二人。そして残りの十人は遺体だった。
グレイスがいると問題があったので、彼女には小屋の裏で待ってもらっている。一人にすることに多少の不安はあったが、ここにいる面々に助けに来たアズまで敵視されては叶わない。
アズは生きている者の束縛を解いていった。
皆が解放を喜び合うなか、筋骨隆隆とした男が、お前のような若造に云々、と何かを言っていたが聞かなかったことにする。
さて、死者の弔いは後から村で行ってもらうとして――その遺体の中には、白骨化どころか、脆く崩れたものまであった。グレイスはいったい何歳なのだろうか――今はただ、生者たちを村まで帰すことが先決だ。
グレイスをひとり置いていくことに一抹の不安を感じていると、何かを察したのか、トトナ村の青年たちが率先して帰ろうと提案してくれた。
アズは彼らの厚意を受けて先に生存者たちを見送り、グレイスを迎えに行った。
◆
何がいけなかったのだろう。
「アズ、みてみて。人だわ、人がいっぱいいるわ」
窓枠に手を掛けて、グレイスははしゃいでいた。アズはいたたまれなかった。
「懐いたから連れてきたとはどういうことだ!」
縮こまるアズの正面では、トトナの長が怒り狂っていた。
グレイスがトトナ出身だと言うので、親戚や顔見知りがいるはずだった。
しかし、村長が生まれてから今まで、トトナ村は魔性に犠を捧げたことがないらしく、無論グレイスを知る者もなかった。彼女を連れて尋ね回っていたところを今回の生存者に見つけられたらしく、村長が駆けつけて来て宿に連れ戻されたのである。
戻ってきた宿の一室。アズは村長からお叱りを受けていた。
「こいつは魔性なんだぞ! お前には、常識というものがないのか!」
この村長は、さっき泣いていたのと同じ人物だろうか。性格の違う双子ではないのか。疑いたくなる。
村の危機を救ったはずなのに、魔性に関わりがあると分かると急に冷たくなる。そういうものなのだ。今、眼帯を外したら、この説教は攻撃に変わるだろう。
「いいか、その魔性を連れてさっさと村を出ていけ!」
ばん、とでかい音を立て村長は扉の外に消えた。
急激に静かになる室内。
ふと、背後からグレイスの声がした。
「大丈夫よ、アズにはあたしがいるわ」
彼女は眉をハの字にして微笑んでいた。今に泣くのではないだろうか。似ているはずもないのに、鏡を見ているような錯覚に捕われそうになる。
「……そうだなあ」
アズは気が付いた――寂しかったのは、実は自分自身だったのかもしれない、と。




