途中下船‐1
翌日、グレイスたちは船の上にいた。
「……うええ気持わるいぃ」
余裕があったのは始めのうちだけで、グレイスはもう完全にぐったりと船縁に寄りかかっていた。アズが背中を擦ってくれているが、楽にならない。
船酔いである。
「嬢ちゃん、あんまり端に寄んないでくれよ」
船頭は気のいい中年男だった。港からも見える背の高い緑の塔が何なのか尋ねたときも、笑顔で教えてくれた。
『ああ、ありゃ灯台だよ。暗くなっても、どこを目指しゃいいのか照らしてくれるのさ』
空に向かって聳える塔が、湖面を往く船のためにあると知って、グレイスは感心したものだ。
その船頭が、彼女の顔色を見て気遣ってくれる。顔色といっても、包帯から露出している肌はわずかなのだが。
「今日んとこァ早めに切り上げて、イコル辺りに泊まるかい?」
その提案で、グレイス、アズとギルの三人は早めに陸に上がることとなった。
◆
そもそもアズとグレイスが首都ザンヴァに向かうことになったのは、ギルの勧めがあったからだった。何のことかさっぱり教えてはくれなかったが、「首都まで行く用事」があるのだという。行き先が決まっていないのならば、せっかく再会できたことだし一緒に行こう、と誘いを受けたわけだ。そして何より魅力的だったのは、ギルが二人分の旅費も負担してくれるという点である。どうせ辺鄙な町の長の息子だとは言うものの、その辺の一般的な人と比べれば金持ちには違いなかった。
陸に上がってなお平衡感覚が戻らないグレイスと、彼女の傍に付きっきりで介助するアズに続いてギルが船を降り、木製の桟橋を軋ませながら足を踏み入れる。
船を泊めた村、イコルは風光明媚で、今日は青空の広がる好天だ。大きな伸びをして清々しい空気を身体中に取り込んだ後、数歩前を行く二人に声を掛けた。
「どうせ泊まるなら、せっかくだし、ちょっと観光したいもんだよね」
ギルの一言に、船頭が口を挟んだ。
「いやいや。おれァ、ここイコルの出身だが、観るもんなんかねェよ。それに加え、イコルの人喰い鬼と言やぁ五十年前に滅んだアーデルクの吸血鬼と並ぶぐれェ有名でよ。あんまり出歩かねえほうが身のためだしな」
「人喰い鬼……?」
こんなに穏やかな村の側に、人を喰らう魔性が棲んでいるのだろうか。
「そうさ、あの森の先に人喰いどもの集落があってな。ちょうどそこに貼り紙も――おや?」
船頭が言葉を切って目を向けた方へ視線を送ると、少し先にグレイスを座らせたらしいアズが、折り返して戻ってきていた。
「すみませんが船頭のおじさん、そこの貼り紙について聞きたいんですが」
「アート、正気か? 昔っから喧嘩は苦手だったろーが……」
たとえこの数年で喧嘩に強くなっていたとしても、争い事にわざわざ自分から向かって行くような真似は絶対にしないと思っていたが。
「人喰いの退治なら、報酬は良い額かもしんねェがなァ……。よっぽど腕に自信があるんなら引き止めたりゃしねぇが、あぶねェから勧めはしねぇぞ」
船頭も、ギルの発言を聞いてか聞かずか、アズを諭そうとする。
「……退治? いや、あの『治癒魔術師を募集している』という内容の」
心配は無用だった。やっぱりアートはアートだ、とギルは心の中で呟いた。
「む? あんた治癒魔術師だったのか。見たとこあの嬢ちゃんも怪我か病気のようだが、治してやらんのかね」
グレイスのは怪我でも病気でもないが。
「……魔術には、治せないものもあるんです」
治癒の魔術にできることは、生命力をコントロールし、分け与えることくらいだ。そもそも魔術の素となる魔力とは、生命力を濃縮したものなのだ。だから、力の回復を待たずに魔術を使いすぎると、死ぬ。
ある程度力を抑えて術を使うのが常識だが、瀕死の患者が多く出ると、誰より先に治癒魔術師が死んでしまうことがあるほどなのだ。
「そういうもんかね」
「何事にも限界はありますから」
魔術を使うことのできない者の中には、魔術を万能と誤解している者も少なくない。そういう者が上に立つと、得てして術師を死に追いやってしまいがちである。
「ところで、依頼主の家というのはどの辺りにあるんです」
改めて本題に戻る。つもりだった。
「アズ遅いー! 何してるのっ?」
仲間外れにされたと思ったのかもしれない。
やっと半分回復したグレイスが、よたよたとこちらに戻って来て、会話は遮られてしまった。