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カタルシスー閑話ー ~切り取ったいち風景2~

掲載日:2026/04/12

注)ほんのりBLテイストが漂っています(BLではありません)。

BLが苦手な方は、回れ右をお願いします。

 涙が、止まらない。

 タクヤの両目から、次から次へと涙が溢れ零れ、止まらない状況。

「…っ。ふ…っ…。」

 タクヤは口許を押さえているが、それでも嗚咽が漏れ落ちる。

 月島からの依頼でクライアントである『彼女』の深層に橘と共にタクヤは降り立っていたのだが、その場から今、戻り、現実の世界である月島の診察室に隣接する事務室の椅子にタクヤは腰掛けていた。

「センセ。どうしましょう。」

 橘コトネが困惑した声音で、このカウンセリングの室長であるカウンセラーの月島に問いかけている。

 橘の、このような困りきった感のある声音を聞くのは、タクヤは少なくとも初めてだった。

 珍しい、ことなのだと思う。

 おそらく、たぶん、今回以降、このような橘の姿を見ることはないだろうな、と予測する。

 彼女は、現実(・・)では、ふわふわとつかみどころが何となくなくて、柔らかな、優しい雰囲気をいつもまとっている。ただ、それは現実の彼女の姿であって、深層(・・)ではそれとは真逆の凛とした、厳しい姿だ。そして、その、凛とした厳しさのある姿が、彼女の本質だった。

 橘は現実だとふわふわとした感じがデフォルトなので、今まさにふわふわと困っている感じの彼女を、タクヤはありありと感じていた。現実の橘は、深層の厳しさをまとう橘でもあるのだから、あの、凛とした厳しさの橘が困っているのだと思うと、タクヤは、その困惑気味の橘の姿をきちんと見てみたいと思う。現実でも深層でもこのように困惑している彼女の姿は、きっとレアな姿なのだろう。

 とはいえ現状は、タクヤが感じ取ることができるのは、困惑した色が混じる橘の声のトーンだけなのだが。

 涙が尽きることなくぽろぽろと零れ落ちているタクヤのこの状態では、橘の姿は涙で滲んで、残念なことにはっきりと見えない。

「直ぐに戻ってきたのですが、影響が大きかったようなんです。センセ。」

 戸惑いの色。

 その橘へ、

「時間の経過と共に、『彼女』の感情は、永良さんから消えていくと思います。」

 心配ないですよ、と答える月島は、橘の戸惑いの色とは反対の、普段と変わらないトーンの声。タクヤがぼろぼろと涙を流し続け、しかも嗚咽まで漏らしているというのに、慌てた様子は一切見られない。

 ある意味、不動の月島の対応だ。

 その、普段のままの月島の、

「コトネさん。いつものように、紅茶を淹れていただけますか?」

 との彼からの依頼に、

「わかりました。」

 の、橘の返答は心なしかやはり、歯切れの良さはないように思える。タクヤのこの状態を心配しているようだった。

 それでも、月島からの依頼を遂行すべく、

「センセ。永良さんをお願いしますね。」

 と、橘は事務室に隣接する給湯室へと入っていった。

 彼女が給湯室へ入っていったあと、さて、と月島が、

「永良さん。辛いですか?」

 と、タクヤの前に跪き、タクヤを覗き込む。

 それには、タクヤは、首を横に振る。

 涙が止まらなくて流れ落ち、口許を押さえても嗚咽が溢れるこの状況は、身体的にはキツい。その事の問いなら、タクヤは是と答える。

 けれども、月島の問いは、タクヤの身体的な辛さを問うているのではない。

 精神的に辛いのかを訊ねている。

 また、その精神的な辛さはタクヤ自身の心の辛さではなくて、『彼女』と同調したことによる『彼女』の辛さのことだ。その『彼女』の辛さをタクヤはまだ内包してしまっているのか、といった問いだった。

 その問いなら、否、だ。

 橘と共に降り立った『彼女』の深層は、足元の所々に緑色の蔦が這っていた。よくよく観察するとその蔦には小さな棘が無数にあった。おそらく、『彼女』はその無数の棘で、己自身を傷つけているのだろう。

 と、タクヤが思ったとたん、タクヤの中に『彼女』の胸を締め付けられる痛み、苦しさ、悲しさが、怒濤のように流れ込んで来てしまった。

 やってしまった、と思った時にはもう遅かった。タクヤの目からはぽろぽろと、涙が零れ始めてしまっていた。深層でのそのタクヤの状態を確認した橘が、直ぐにその深層からタクヤと共に離脱したのだが。

 直ぐに戻ってきた成果か、現実に戻ったとたん、タクヤの中にあった胸を締め付けられるような痛みや辛さ、悲しさはたちまち消えて無くなってしまった。

 なら、溢れ零れ落ちる涙も止まるのだと思ったのに。

 しかしながらそれは期待に反して、止まるどころか深層に居たときよりも酷い状況だ。嗚咽まで、零れ落ちてしまっている。

「『彼女』との同調は継続してはいないですね?」

 これは、月島からの確認の問いだ。

 月島とタクヤは繋がり易くなっている。だから、タクヤの心の状態は何となくであれ、彼は把握できているはずだった。特に、今はクライアントの深層で『浄化』をしようとしていたのだから、月島は普段よりもさらにタクヤの心の内は感じ取れていると思う。

 それなのにそのことに言及したその意は、彼の確認作業なのだろう。

「…っ。は…い…っ。」

 返答ひとつも、嗚咽が漏れるため、ひと苦労だ。

 心の痛みはない。

 痛みがないから、悲しさも辛さも感じていない。苦しくて、とても苦しくて、といった心の有り様ではない。

 その状態から、タクヤは『彼女』との繋がりは切れているはず、だった。

「なら、残像か。」

 月島は、タクヤの状態を確認するためのタクヤを覗き込む体勢のまま、そう呟く。

「もう、涙は治まると思います。」

 月島の判断。

 けれども。

 タクヤの両目からは変わらず、ぼろぼろと涙が零れ落ちるのは止まらない。

 しかもコレは。

 ぽろぽろ、ではなくて、ぼろぼろ、だ。泣き止んだあとのカオの状態が心配なくらいな、泣きっぷりだ。

 しばらく月島は跪いたまま、涙を落とし続けるタクヤを観察していたが、なかなか止まらないその涙に少し首を傾げると、

「本当に、『彼女』の心と、シンクロしていませんか?悲しさはない?」

 心配の色を、その薄茶色の瞳に浮かべ始めた。

 月島からの再度の問いに、タクヤは首を大きく横に振る。

 彼女とシンクロしてはいない。タクヤの心は、痛くも悲しくもない。涙が止まることなく次から次へと溢れ出てくることに、とても戸惑っている、という方が正直な気持ちだ。

 戸惑いだけ。心は凪いている。

「そう、なんですね。」

 と、月島は困ったような表情で、黙した。

 月島のその様子から、このまま、涙が止まるのをただ待つしかないのか、とタクヤがげんなりし始めたその時。

「…っ!」

 不意に、彼の顔がタクヤに近づいてきた。

 その距離は、近づく、なんて生易しい距離ではなく。

 口づけを、されるのかと、思った。

 唇が触れるか触れないか、のところで彼はその距離を離す。

 月島のその行為による、タクヤから月島への、瞠目。

 一瞬の出来事に驚き、時が止まったような感覚。聴覚が遮断されたように、タクヤは周囲の音が何も聞こえなくなった。

 彼はタクヤに口づけをしようとしたのだろうか。

 と、タクヤが驚きで止まってしまったのは、おそらく、ホンの数秒。そのあと、次いでタクヤの口からは、

「…僕、男なんです。月島さん。」

 間の抜けた言葉が飛び出していた。

「…存じています。」

 間抜けなタクヤの言葉に対して、タクヤが瞠目したまま見返した先のいたって真面目な表情の月島からの、返答。

「それに僕、異性愛者なんです。」

 一応、伝えていたほうが良いのか、と、混乱からヘンな方向への考えで飛び出した、タクヤの次の言葉。

「偶然ですね。私も異性愛者です。」

 そう言いながら跪いた姿勢から立ち上がった月島は、タクヤからの言葉に丁寧に答える。

 タクヤが見上げた先の月島の表情は真面目なままだ。フザケて、ではないようだ。

 そもそも、月島がふざけてこのような行為に走ることは、彼の性格上無いように思う。

 タクヤの友人の中に、酒量が一定以上超えると、キス魔になるヤツがいる。唇だけでなく頬などにキスをしてくるのだが、タクヤも彼の隣で呑んでいたときに幾度か、犠牲になったことがある。ただ、彼の場合、酒量だけがトリガーではなくて、彼女と別れたとき、が、その条件に含まれて初めて発生する、悪癖だ。それがわかったとたん、友人たちで彼を慰めるときは、一定以上呑ませることをしなくなったし、彼も酒を呑んで忘れる、という愚行に走らなくなった。おかげで、以降犠牲者は出ていない、はずだ。

 けれども、今は酒席ではないし、しかもいわゆる仕事中だ。仕事中にも関わらず、月島のその奇行の理由が、何なのか。

 ただ、彼は表面上は何事もなかったかのようにポーカーフェイスでタクヤを見下ろしているが、タクヤが感じ取れる彼の心情は千々に乱れている。かなり動揺していることが、タクヤには伝わってくる。

 つまり月島のこの心の乱れから、行動を起こした彼も、意図してや何か理屈があって起こした行動ではないように思う。

 タクヤが見上げている先の月島は無表情だが、タクヤの心が感じ取れる彼の心情は、混乱、戸惑いといったところだ。というより、これほどまでに月島の感情がタクヤが手に取るようにわかることは、初めてだった。

 つまり、ソレほどまでに月島は己が起こした行動に、混乱しているのだろう。

 このように、月島の心が乱れている状況こそ、珍しい。橘の困っている感よりも、レアな状況ではないだろうか。なにせ、彼は常に安定感があり、それがデフォルトだ。感情を顕にしたときもあったが、それは最初の頃だけであって、タクヤが月島の手伝いを始めてからは、彼が感情を大きく乱したことは、ない。

 これ以上に、彼に対して揺さぶりをかけたなら、彼はどのように変化するのだろうか。

 このような場面なのだが。否。このような場面だからこそ、悪戯心がタクヤの中でひょこり、と顔を出した。

 月島の心情は、かなり乱れている。タクヤと月島の心が今は繋がっているため、それは確実なこと。けれども彼の表面上はポーカーフェイスのままであり、焦っている感じは全くない。

 確かに、カウンセリング時の爽やかな笑顔でも、静かな笑顔でもないので、かなり心穏やかではないとは思う。が。

 この、すました表情が彼の心情のまま崩れたら、どんなカオを彼は見せるのだろうか。

 タクヤの単純な、好奇心。

 思い付いたとたん、タクヤはその思い付いた行動に移したいといった思いが我慢できず、

「月島さん。」

 と、月島の名を呼びながら椅子から立ち上がると、おもむろに月島の肩を引き寄せ、月島が先程タクヤに対して行った行為、つまりタクヤの顔を月島の顔に近づける、といった行動を起こした。そして、もう少しでタクヤの唇と月島の唇が触れるか、といった距離のところで、タクヤは近づけた己が顔を少しだけ、離した。

「…永良さん。私は男、なんです。」

 近距離での、月島からの放たれた言葉。

「知っています。」

 タクヤのソレに対する返答。

「…それに私、異性愛者なんです。」

 月島はポーカーフェイスのままだ。

「そのことは、先ほどうかがいましたし、僕もです。」

 変化するであろうし、そしてその変化はどのようなものなのか、といったタクヤの期待を彼は無表情で裏切ってくる。

 それに。

 その裏切りは、表情だけではない。

 今の今までタクヤが感じ取れた月島の混乱、乱調、困惑といった感情が、一切失くなってしまった。

「期待に添えず、申し訳ない。」

 と、月島がタクヤの眼前で笑む。

 その彼の静かな笑顔から、すっかり普段の月島に戻ってしまったようだった。

 それに、タクヤの悪戯心も、知られてしまっている。

 しかも、

「感情が一周して、落ち着きました。」

 ありがとうございます、と月島はタクヤへ礼まで述べる。

「しゃっくりを止める要領で、驚かせれば、と思っての行動だったんですが、よくよく考えてみればセクハラになる行為だったと気づきまして。」

 それで狼狽してしまいました、と乱調した感情だった理由を口にする。

 タクヤを驚かせるためといった理由とはいえ、先ほどの月島の行動は斜め上のものではないだろうか。タクヤ基準のフツウなら、思いつかない行為だ。

「だから、セクシャルハラスメントで、永良さんから訴えられる、また、嫌われる案件だと、と思い至り、焦りました。」

 申し訳なかった、と月島が口にしたそのタイミングで、

「センセたち、もしかして喧嘩、ですか?」

 と、橘がマグカップを載せたトレイを手に、給湯室から出てきてタクヤたちにそう声をかけてきた。

 橘から声をかけられ、改めて現体勢を客観的に見てみれば、確かに、タクヤは月島の肩に手を置き月島を引き寄せる格好であり、お互いが顔を近づけて睨み合っているように捉えられなくもない。

「まさか。違います、橘さん。」

 タクヤが月島の肩にかけていた手を、慌てて離す。

「永良さんの涙を、止める処置をしていたのです。喧嘩ではありませんよ。」

 しれっと、月島は橘の問いに、そう答える。

 確かに、月島のその答えは間違いではないが、まるっきりの正解でもないけれども。

「あら、ホントウに。永良さんの涙が止まったようで、良かったですね。」

 さすがセンセです、と橘は普段のふわふわとした微笑みで事務机にトレイを置き、それぞれに紅茶の入ったマグカップを手渡してくれる。残念ながら、彼女のそこに困惑の色は、全く残っていなかった。

 ふわふわとした橘の言葉を受け、

「ホントだ。」

 タクヤは今、自身が先ほどまでぼろぼろと涙を流し、嗚咽まで溢していたその状態がなくなっていることに初めて気づいた。

「私のショック療法は、ある意味正解だったということですね。」

 そう言いながらタクヤへ見せた月島の笑顔は、悪戯に成功したときに見せる悪戯っ子のような笑顔だった。


 ー了ー


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