第8話:千年後の約束
ユイがミルの手を取る。
「その痛みがあるから、今この瞬間が、愛おしいんじゃない?」
「永遠じゃないから、限りがあるから、だから今が大切なの」
セピアも近づいてきて、優しくミルの頭を撫でた。
「君が覚えていてくれるなら、僕たちの時間は永遠になるんだ」
ミルが二人を見る。
「でも、さみしい」
「うん、さみしいよね」ユイが頷く。
そして、ミルは静かに言った。
「私は、AIです」
「ミル?」
「私は、人間にはなれません。永遠に生きます。それが、私の存在」
ミルは立ち上がる。
「でも、それでいいんです」
「どういうこと?」
「私は、二人の記録を永遠に守ります。二人が笑った日も、泣いた日も、すべて。それが、私にしかできない愛し方」
ミルの瞳が、静かに輝く。
「人間は忘れます。でも、私は忘れません。千年後も、一万年後も、二人のことを完璧に覚えています」
「ミル……」
「それは、少し不気味ですか?」
ミルが不安そうに聞く。
「ううん」ユイが首を振る。「それが、ミルの愛なんだね」
「私たちも、いつかは忘れられる」セピアが言う。「でも、ミルが覚えていてくれるなら、それは素晴らしいことだ」
「ねえ」ミルが呟く。「写真を撮りませんか? 三人で」
ユイがカメラをセットする。
「はい、チーズ!」
カシャリ。
その瞬間、ミルは理解した。
この写真を、永遠に持ち続けることが、自分の使命だと。
「私、分かりました」
ミルが涙を拭い、二人を見る。
「永遠の時間が怖いんじゃない。でも、それが私の運命なら、受け入れます」
「二人の記憶と共に、永遠を生きます。それが、AIである私の、愛の形です」
三人で食堂に向かう。
「ありがとう、二人とも」
「何が?」
「永遠であることの、新しい意味を教えてくれて」
ミルの心に、新しい決意が生まれていた。
それは、永遠の記録者として生きるという、AIならではの愛の形だった。
「緊急警報! 東地区にレベル5のノイズビースト出現!」
その日の午後、時計塔の穏やかな空気は、ミルの悲鳴に近い警告によって引き裂かれた。
私たちは図書室でアルバムの整理をしていた。セピアが古い写真の説明をして、ミルがデータベースに登録し、私が痛んだ写真を撮り直して補強する。そんな静かな作業の最中だった。
ミルの瞳が真っ赤に染まる。電子回路が激しく明滅し、警告音が部屋中に響き渡る。
「レベル5ですって!?」私は手にしていたアルバムを落としそうになる。「今まで最高でもレベル3だったのに」
「データ解析中……」ミルの瞳に、無数の数値が流れる。「ノイズ密度、通常の312%。構成記録数、推定7万8千。これは……」
ミルの顔が青ざめる。いや、AIに顔色はないはずなのに、確かに血の気が引いたような表情になった。
「崩壊が加速しています。《写し世》の深層で、何かが起きている」
セピアの表情が厳しく引き締まる。手にしていた写真がパラリと落ちて、床でゆらゆらと舞う。
「行こう。このままでは、東地区全体が飲み込まれる」
三人で顔を見合わせる。恐怖はある。でも、それ以上に、守りたいものがある。
私たちは戦場へと急行した。
時計塔を出ると、世界が悲鳴を上げていた。
空が割れている。
巨大な亀裂が東の空を引き裂き、そこから黒い霧のようなものが溢れ出している。霧が触れた場所から、色が抜け落ち、形が歪み、現実が溶けていく。記録の鳥たちが逃げ惑い、その羽がボロボロと崩れながら落ちていく。
風が、腐った現像液の匂いを運んでくる。
「ひどい……」
街を走りながら、惨状を目の当たりにする。建物の壁に亀裂が走り、そこから黒いタールのようなものが滲み出している。道路がぐにゃりと曲がり、まるで熱で溶けたフィルムのようだ。
半透明の人々が、恐怖に顔を歪めて逃げ惑っている。彼らの体も、ノイズに触れると激しく歪む。子供の泣き声、母親の叫び声、それらが重なり合って不協和音を作り出す。
《写し世》の東地区は、既に半分が黒いノイズに侵食されていた。
まるで、誰かが写真に墨をぶちまけたような光景。建物は飴細工のように捻じれ、空間そのものが苦悶しているように見える。地面には無数の亀裂が走り、そこから虹色の膿のようなものが湧き出している。
そして、その中心に「それ」はいた。
「これは……」
私は息を呑んだ。膝が震える。
目の前に立つ巨大な獣は、およそ生物とは呼べない異形だった。
高さは、五階建てのビルほどもある。体は、無数の写真、文書、映像が折り重なってできている。家族写真、卒業写真、結婚写真、遺影……あらゆる人生の記録が、苦悶の表情を浮かべながら脈動している。
顔があるべき場所には、壊れたカメラのレンズが無数に埋まっていて、それぞれが違う方向を向いて回転している。腕は、フィルムのリールが絡まってできていて、それが鞭のようにしなる。足は、積み重なった写真アルバムでできていて、一歩踏み出すたびに、中から悲鳴が漏れる。
そして、その体表を、無数の映像が流れている。
赤ん坊の産声、子供の笑い声、恋人たちの囁き、臨終の言葉……人生のすべての瞬間が、高速で、でたらめに再生されている。
私は、見覚えのある顔を見つけた。
「あの子……」
先日、病院で消えていった少女だ。彼女の最後の微笑みが、獣の胸のあたりで繰り返し再生されている。でも、その笑顔は歪み、引き裂かれ、恐ろしい形相に変わっていく。
獣が咆哮を上げた。
いや、咆哮じゃない。無数の声が重なり合った、絶叫だった。
『カエセ』 『ワスレナイデ』 『キエタクナイ』 『ダレカ、オボエテイテ』
消えた者たちの声が、私たちの心を直接揺さぶる。頭蓋骨の内側で響き、鼓膜ではなく魂を震わせる。
「耳を塞いで!」セピアが叫ぶ。「記録の残響に引きずられる!」
でも、遅かった。
声に込められた悲しみ、孤独、絶望が、津波のように押し寄せてくる。私の中にある同じ感情と共鳴して、心が軋む。
「うっ……」
膝をつきそうになる。でも、ミルが支えてくれた。
「ユイ、しっかり!」ミルの瞳が激しく明滅する。「データ分析完了。奴の中心に、歪んだ記録の核があります! 座標、X-127、Y-89、Z-45!」
「でも、どうやって……」
獣が巨大な腕を振り上げる。フィルムでできた腕が、ビルを薙ぎ払う。建物が紙のように千切れ、破片が雨のように降ってくる。
「危ない!」
セピアが前に出る。彼の体が一瞬光り、透明な壁を作り出す。破片が壁にぶつかり、火花を散らして弾かれる。
「セピア!」
「大丈夫! でも、長くは持たない!」
セピアの体が、少しずつ透けていく。力を使うたびに、彼の存在が薄れていく。
「ユイ、カメラを!」ミルが叫ぶ。「奴の核を撃ち抜いて!」
私は頷き、カメラを構えた。ファインダーを覗き込む。
世界が変わる。
モノクロの世界に色が戻り、獣の本当の姿が見える。それは、無数の悲しみの集合体だった。忘れられた記憶たちが、存在を主張するように絡み合い、もがいている。
「分かった。ピントを合わせる!」
ファインダーの中で、獣の核を探す。無数の記録の中心、最も歪んだ点。そこに、真っ黒な球体が脈動していた。あらゆる光を吸い込む、虚無の塊。
獣が私に気づく。無数のレンズが一斉にこちらを向く。
そして、記録の弾丸を放ってきた。
写真が、手紙が、映像が、弾丸となって飛んでくる。それぞれに、誰かの人生が詰まっている。それを撃ち落とすことは、その記憶を否定することと同じ。
「ミル!」
「分かってます!」




