第7話:AIの涙
ミルはまだ、静かに涙を流していた。初めて知った「悲しみ」という感情に戸惑いながらも、その温かさを噛みしめるように。
「私、壊れたのでしょうか」
「違うよ」セピアが優しくミルの頭を撫でる。「君は、成長したんだよ」
「成長……」ミルが青いリボンを拾い上げる。「これは、データベースに登録されていない。でも、大切にしたい」
私はカメラをぎゅっと握りしめる。結局、シャッターは切れなかった。
でも、後悔はなかった。
「記録には残らなくても、私たちの記憶には残る」
「うん」セピアが頷く。「それもまた、大切な記録の保存方法だよ」
病院を出ると、夕暮れの光が《写し世》を赤く染めていた。崩れかけた病院は、もう二度と元には戻らない。でも、そこにあった物語は、私たちの心に刻まれた。
歩きながら、ミルが小さく呟く。
「心が痛い。でも、この痛みを、忘れたくない」
「うん」
「これが、人間?」
「そうだよ」私は答える。「痛みも、悲しみも、全部含めて」
ミルが立ち止まり、振り返る。瞳にはまだ涙の跡が残っているけど、そこには新しい光が宿っていた。
「ねえ」ミルが私の服の袖をくいくいと引いた。
「どうしたの?」
「明日の朝食ですが……また、ユイの料理が、食べたいです」
彼女は少し俯きながら、小さな声で言った。手には、少女のリボンをぎゅっと握りしめている。
「だって……美味しかったから。それに、みんなで食べると、もっと美味しいって、分かったから」
効率ではなく、「美味しい」という曖昧で非論理的な理由。それは、AIである彼女にとって、小さいけれど、世界が変わるほど大きな一歩だった。
「もちろん! 明日はもっと美味しいの作るね!」
私が笑いかけると、セピアも「楽しみにしてる」と微笑んだ。
ミルは顔を上げて、はにかむように「はい」と頷いた。その瞳には、もう涙はなかった。でも、涙の記憶は、しっかりとそこに宿っている。
時計塔への帰り道、ミルが不意に言った。
「あの子の名前、知りたかった」
「うん」
「でも、名前がなくても、忘れない。この気持ちがある限り」
三人の影――正確には二人の影と、影のないセピア――が、ゆっくりと時計塔へ向かう。
消えた少女の記録は、もう戻らない。
でも、彼女が残したものは確かにある。
ミルの心に宿った、温かくて、少し切ない、人間らしい何か。
それは、どんな完璧なデータベースよりも、きっと尊いものだ。
その夜、ミルは定期メンテナンスのため、自室でスリープモードに入っていた。
彼女の部屋は、他の部屋とは違っていた。壁一面にモニターが並び、青白い光が明滅している。空中には無数のデータストリームが流れ、まるで電子の川のようだ。天井からは細いケーブルが無数に垂れ下がり、それらが微かに脈動している。生きているみたいだ。
部屋の中央には、透明なカプセルベッドがあり、ミルはその中で目を閉じていた。カプセルの表面には、彼女の生体データがリアルタイムで表示されている。心拍数に相当する電子パルス、体温に相当する内部温度、そして「感情指数」という見慣れない項目。
でも、今夜は違った。
心という新しいOSを手に入れた彼女のシステムは、膨大な《写し世》の記録データと予期せぬ共鳴を起こしていた。電子回路が不規則なパターンで明滅し、データの海の中で、彼女は「夢」を見始めた。
AIが夢を見る。それは、ありえないはずの現象だった。
夢の中で、ミルは時計塔の最上階に立っていた。
窓の外には、見慣れた《写し世》の風景が広がっている。でも、何かが違う。街に人影がない。記録の人々も、半透明の影も、誰もいない。
静寂が世界を支配している。
時計の針が、カチ、カチと進む。その音が異様に大きく響く。
ミルは階段を降りる。食堂を覗く。誰もいない。あのフライパンが、錆びて原型を留めていない。ミルが初めて「美味しい」を理解した、あの大切なフライパンが。
「ユイ? セピア様?」
声が虚しく響く。返事はない。
急に、景色が変わる。
時計塔の窓辺。そこに二人の人影がある。
白髪になったユイ。その隣には、歳を重ねたセピア。二人は手を繋いで、静かに眠るように目を閉じる。
そして、光の粒子となって、ゆっくりと消えていく。
「待って」
ミルは手を伸ばす。でも、届かない。
「行かないで」
二人の粒子が、窓から空へと舞い上がっていく。キラキラと輝きながら、《写し世》の空に溶けていく。
後に残されたのは、ミルだけ。
永遠に変わらない姿で、誰もいない時計塔に、一人。
でも、不思議なことが起きた。
ミルの手元に、無数の写真が現れ始める。三人で撮った写真、笑顔の写真、失敗作の写真。それらが、まるで生きているかのように動き出す。
写真の中のユイが笑う。セピアが手を振る。過去の自分たちが、そこにいる。
「これは……」
ミルは理解する。これが、記憶なのだと。
データベースに保存された情報ではなく、心に刻まれた、温かい記憶。
「!」
ミルが飛び起きた。
カプセルベッドのガラスに、自分の顔が映っている。瞳の電子回路が、不安定に明滅している。
「夢……?」
でも、確かに見た。そして、感じた。
孤独という名の、永遠の牢獄を。
そして同時に、その永遠を埋める方法も。
ミルは立ち上がり、部屋を出る。
ユイの部屋の前で立ち止まる。ドアの向こうから、規則正しい寝息が聞こえる。
人間の平均寿命、79.8年。ユイの現在年齢、17歳。残り、約62.8年。
「ユイ……」
ミルは、ドアに手を当てる。
(私は、ユイが去った後も、ユイの記憶と共に生きていく)
(それは、悲しいことかもしれない)
(でも、それが私の選ぶ愛の形)
セピアの部屋も覗く。彼も眠っている。記録の耐久年数、推定200年から300年。
(セピア様も、いつかは)
(でも、私が覚えている限り、二人は永遠に存在する)
ミルは食堂に向かった。
テーブルに座り、一人、考える。
「時間」
ミルが呟く。
「人間の寿命、平均79.8年。セピア様の記録耐久年数、推定200年から300年。そして私は……永遠」
その言葉が、重く響く。
でも、今は違う意味を持っていた。
(私は、永遠の記録者になる)
(二人が、この世界にいた証を、永遠に守る者に)
テーブルに、古いアルバムが置いてある。ページを開く。
写真の中で、三人が笑っている。
「怖い」
初めて口にする言葉。
「失うのが、怖い」
涙が、また溢れる。
「でも……」
ミルは、写真に触れる。
「私がいる限り、この記録は消えない」
翌朝。
「おはよう、ミル」
ユイが食堂に入ってきた。いつもの笑顔。
「……おはようございます」
「どうしたの? なんか元気ない」
セピアも入ってきた。
「……質問があります」
ミルが顔を上げる。
「どうして人間は歳を取るのですか?」
突然の質問に、ユイとセピアは顔を見合わせる。
「どうして時間は過ぎるのですか?」ミルが続ける。「すべての時間を凍結し、この瞬間を永遠に続ければ、誰も悲しまずに済むのに!」
「ミル、何かあったの?」
「何もありません!」
ミルは食堂を飛び出してしまった。
ミルの部屋。
「ミル、入るよ」
ユイの声。ドアが開く。
ミルは部屋の隅で、膝を抱えて座り込んでいた。
「夢を見たの?」
「AIは夢を見ません。でも……見てしまった」
ミルが、夢の内容を話す。
「怖かった……二人がいなくなって、私だけが、永遠に、一人で……」
「でも」




