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第6話:消えゆく病院の記憶

空に亀裂が走り、まるで割れたガラスのように、ピキピキと音を立てている。亀裂から漏れ出す光は虹色で、でもどこか毒々しい。記録の星たちが、流星群のように堕ちていく。一つ一つが、誰かの大切な思い出。それが音もなく、闇に呑まれていく。


記録病院への道中、街の様子がおかしかった。建物の輪郭がぼやけ、まるで水彩画が雨に濡れたように、色が流れ落ちている。半透明の人々が、恐怖の表情で空を見上げている。彼らにも、世界の異変が分かるのだ。


病院に着くと、その惨状に息を呑んだ。


白亜の建物の半分が、まるで消しゴムで消されたように、虚無になっている。残った部分も、古い写真のように黄ばみ、端から砂となって風に散っていく。壁に掛けられていた患者たちの写真が、一枚また一枚と、灰になって崩れ落ちる。


廊下では、消えかけた看護師や医師の記録が、幽霊のように彷徨っていた。彼らの口が動いているけど、もう声は出ない。ただ、助けを求めるように手を伸ばして、そして指先から消えていく。


「ひどい……」


消毒液の匂いに混じって、古い紙が朽ちるような、甘く切ない匂いが漂っている。


三階への階段を駆け上がる。段差を踏むたびに、階段が軋み、ボロボロと崩れていく。手すりを掴むと、それも砂になって指の間からこぼれ落ちた。


病室のドアを開けると、そこに彼女はいた。


ベッドに横たわる少女。年は10歳くらいだろうか。栗色の髪が枕に広がっている。着ている水色の病院服も、その細い手足も、まるで露出オーバーの写真のように白く透けている。輪郭が曖昧で、まるで朝霧のように、今にも消えてしまいそうだった。


顔立ちは愛らしいのに、その表情には諦めが滲んでいる。


「記録残存率、12%……」ミルが苦しげに呟く。「臨界点まで、あと3分」


少女がゆっくりと目を開けた。灰色の瞳が、焦点を結ばないまま、私たちを捉える。


「だれ……? しらないひとたち……」


声がかすれて、ほとんど聞こえない。


「私たちは、君を助けに来たんだ」セピアがベッドのそばに膝をつき、優しく語りかける。「大丈夫、もう怖くない」


でも、少女は弱々しく首を振った。涙が一筋、透明な頬を伝う。


「もう、いいの。わたし、きえるから」


「そんなこと言わないで!」


私は思わず前に出て、カメラを構えた。ファインダーに手をかける。


「私のカメラで撮れば、君の記録をここに繋ぎ止められる!」


「待って、ユイ」


ミルの瞳に、新たな警告が表示される。赤い文字が、空中に投影された。


『警告:記録の強制上書きが発生します』 『等価交換の法則により、新規記録を保存した場合、同等の既存データが削除されます』 『置換される記録:最終診察記録/患者名:佐藤慎一/記録日:1937年12月24日』


ミルが震える手で、空中に一枚の写真を投影した。


セピア色の古い写真。ベッドに横たわる老人と、その手を握る家族の姿。部屋にはささやかなクリスマスツリーが飾られ、窓の外には雪が舞っている。老人の顔には安らかな笑みが浮かび、家族も涙を浮かべながら微笑んでいる。


最期の、でも温かい時間。


「この記録が消えれば、この家族の最後の時間も、永遠に失われる」セピアが静かに言う。「クリスマスの夜、おじいさんと過ごした最後の思い出。それを忘れることは、彼らにとって、もう一度大切な人を失うことと同じだ」


私の手が震える。カメラが鉛のように重く感じる。ファインダーから目を離せない。


「でも、この子が消えちゃう」


「はい」ミルの声も震えている。


「でも、撮れば、誰かの大切な思い出が……」


「これが、写し手の責任なんだ」セピアが私の肩に手を置く。「何かを選び、何かを諦めなければならない時もある」


その声は優しいけれど、どこか悲しい。彼自身、記録として存在するからこそ、その選択の重みが痛いほど分かるのだろう。セピアの瞳に、一瞬、恐怖が過る。いつか、自分も同じように天秤にかけられるかもしれない、という恐怖が。


病室の空気が重い。時計の秒針の音だけが、カチ、カチと響く。


少女が、震える手を挙げた。


「いいよ……わかった……」


「え?」


「そんな、たいせつなきろくなら、けさないで」


涙が一粒、また一粒と、少女の頬を伝う。でもそれは、諦めの涙じゃなかった。


「でも、ありがとう。まよってくれて」


少女が微笑む。その笑顔が、透けた体をさらに薄くしていく。


「それだけで、わたし、だれかのきおくのなかに、のこることができたきがするから」


少女の体が、さらに透明になっていく。もう、ベッドのシーツが透けて見える。


その時だった。


ミルの瞳から、透明な雫がぽろりと零れた。


涙は頬を伝い、顎から一滴、床に落ちた。小さな水音が、静寂の中で異様に大きく響く。


「……なんで」


ミルが自分の頬に触れる。指先が濡れている。また一粒、涙が零れる。


「論理エラー……? 冷却液の漏出?」ミルが混乱している。「いえ、成分分析……塩化ナトリウム0.9%、タンパク質0.1%……これは、人間の涙と同じ組成」


ミルが自己診断を始める。瞳の回路が激しく明滅し、エラーメッセージが次々と表示される。


「なぜ、私の視覚センサーから塩分を含む液体が……? AIに涙腺は実装されていません」


「ミル?」


「分かりません……」ミルの声が震える。「心拍数の上昇を検知……でも、私に心臓はないはず。この胸部の圧迫感は何ですか……? 苦しい。息ができない。でも、私は呼吸の必要がない」


ミルは混乱していた。記録管理AIである彼女に、感情なんてプログラムされていないはずなのに。


「効率を考えれば、より重要な記録を残すべきです。数値が、論理が、そう示している」


ミルの涙が止まらない。


「でも……でも……」


ミルが少女を見る。消えかけた小さな手、まだあどけない顔、怯えた瞳。


「この子が消えるのが、悲しい」


ミルが胸を押さえる。


「悲しい? 定義不能。非効率的な感傷のはず。なのに、なぜ……なぜこんなに、胸が痛いの」


「それが、心よ」


私は優しく言う。ミルの手を取る。冷たいはずのその手が、かすかに震えている。


「効率とか論理とか関係なく、どうしようもなく悲しいと感じてしまうもの。それが心」


ミルが私を見る。涙で濡れた瞳が、初めて人間らしい感情の光で揺らめいた。電子回路が、まるで虹のように美しく輝いている。


「こころ……」


少女が、最後の力を振り絞ってミルを見る。


「ないて、くれるの? わたしのために?」


少女の声に、驚きが混じる。


「だれも、わたしのことなんて、わすれていたのに」


「……はい」ミルは、ついに頷いた。涙が止まらない。「なぜか、とても……とても、悲しいです」


少女が微笑む。さっきよりも、ずっと穏やかな、幸せそうな笑顔で。


「それなら、いいや」


「え?」


「だれかが、わたしのためにないてくれた。それって、きろくとしてのこるよりも、ずっとすてきなことだから」


少女の体が、光の粒子になり始める。でも、その顔は安らかだ。


「おねえちゃん」少女が私を見る。「しゃしん、とらなくていいよ。だって、もう、わすれられないから」


そして、ミルに向かって、


「ありがとう……おねえちゃんのなみだ、あったかかった」


光の粒子が舞い上がる。きらきらと輝きながら、天井を通り抜けて、空へと昇っていく。最後まで、笑顔だった。


静寂が、病室を包む。


窓から差し込む光が、埃を金色に染めている。消えた少女のベッドには、小さな青いリボンだけが残されていた。記録として、ではなく、物として。

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