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第5話:記録の街を歩く

撮影した家族が一瞬、完全な実体を取り戻した。透明だった体に血が通い、影ができ、服の布地の質感まで蘇る。


「ありがとう」


小さな女の子が、私に向かってはっきりと手を振った。その声が、確かに耳に届いた。そして、ゆっくりとまた半透明の姿に戻っていく。でも、さっきより少しだけ、輪郭がはっきりしている気がした。


「今の……」


「記録強化現象」ミルがデータを空中に展開する。「君の写真は、記録を一時的に強化し、本来の実在性を回復させる。記録密度が通常の3.7倍に上昇。素晴らしいデータです」


歩きながら、色々な場所を撮影していく。


古い商店街。シャッターを切ると、店主たちの威勢のいい声が蘇る。 小さな公園。子供たちの笑い声が、一瞬だけ空気を震わせる。 朽ちかけた橋。若い恋人たちの囁きが、風に乗って聞こえてくる。


どれも現実世界では既に失われた風景。でも、ここでは記録として生き続けている。


撮影を続けていると、ミルが突然立ち止まった。瞳の回路が赤く点滅している。


「警告。この先は……危険です」


見ると、街の一角が黒く侵食されている。まるで、フィルムが感光したように、真っ黒に焼け焦げている。建物が飴細工みたいに歪み、空間が不安定に揺らいでいる。まるで、現像に失敗した写真のように、像がぐちゃぐちゃに溶けていた。


空気が、腐った現像液みたいな匂いを放っている。酸っぱくて、鼻が曲がりそうな刺激臭。


「あれは?」


「ノイズ汚染区域だ」セピアの表情が曇る。「記録が壊れて、正常に実体化できなくなった場所。ポジとネガの境界が崩壊している」


黒い侵食は、じわじわと広がっている。その境界線で、正常な記録が悲鳴を上げるように歪んでいく。人の顔が溶け、建物が折れ曲がり、すべてが混沌に飲み込まれていく。


その時、ノイズの中から何かが飛び出してきた。


黒い影が、ドロドロと形を変えながら、獣のような姿を作り出す。いや、獣というより、悪夢だ。無数の顔、手、足が、でたらめに組み合わさって、ありえない形を作っている。口が背中にあり、目が足の裏にあり、すべてがぐちゃぐちゃだ。


「ノイズビースト……!」セピアが叫ぶ。「記録の残骸が集まったものだ!」


獣が咆哮を上げる。それは、壊れたカセットテープを早回ししたような、耳を劈く不協和音だった。


「危ない!」


セピアが私を庇う。黒い触手のようなものが、鞭のようにしなり、セピアの腕をかすめた。


ジュッという音と共に、セピアの腕の一部が砂のように崩れる。


「セピア!」


「大丈夫、すぐに修復される」


でも、明らかに痛そうだ。琥珀色の瞳が、苦痛に歪んでいる。


「ユイ、カメラを!」ミルが叫ぶ。「ノイズの写真を撮って! 歪んだ記録の核があるはずです!」


「でも、危険じゃ――」


「信じて! データが示してる。君なら、できる!」


ミルの真剣な眼差し。セピアの苦痛に歪む顔。


心臓が口から飛び出しそうだ。指先が震えて、カメラをうまく構えられない。あの黒い獣は、明らかに私の理解を超えた存在だ。触れたら、私も記憶ごと消されてしまうかもしれない。


それでも――


私はカメラを構えた。震える手で、必死に。


「私がやらなきゃ、誰がやるの」


ファインダーを覗く。


獣の体を構成する歪んだ記録の断片が見えた。泣いている子供、燃える家、散り散りになった家族写真、最後の別れ、忘れられた約束。無数の悲しい記録が、苦しみながら絡み合っている。


「これは……壊れた記録じゃない。助けを求めてるんだ」


理解した瞬間、私は獣の中心にある、最も暗く歪んだ一点にピントを合わせた。そこには、白いワンピースを着た少女の記録があった。さっき撮影した子に似ているけど、違う。この子は、完全に忘れられて、顔も名前も失っている。


「君も、覚えていてほしかったんだね」


深呼吸。心を込めて。


閃光凍結フラッシュ・フリーズ!」


カシャリ!


フラッシュが炸裂し、ノイズが純白の光に包まれる。まるで、暗室で印画紙に光を当てたときのように、じわじわと像が浮かび上がってくる。歪んでいた記録が、少しずつ本来の形を取り戻していく。


黒い侵食が退いて、元の街並みが姿を現した。


「ありがとう」


小さな声が聞こえた。白いワンピースの少女が、透明な姿で立っている。顔はまだぼやけているけど、確かに笑っている。


そして、光の粒子になって、空へと昇っていった。


「すごい……」ミルが呟く。「ノイズ浄化率、89%。理論値を超えています」


「ユイ」セピアが私の肩に手を置く。傷はもう治っていた。「君は本当に、この世界に必要な人だ」


なんだか照れくさい。でも、少しは役に立てたかな。


時計塔に戻る道すがら、ミルがぽつりと呟いた。


「私、今まで効率しか考えていませんでした」


「ミル?」


「でも、ユイの作った朝食も、今の撮影も……効率じゃ測れない価値がある」


ミルが立ち止まり、自分の胸に手を当てる。


「この胸が温かくなる感覚は、何なのでしょう。データベースにない。でも、確かに存在する」


そして、小さな声で付け加えた。


「もっと、人間のこと、知りたいです」


「じゃあ、明日は一緒に料理しよう」私は提案する。「効率も大事だけど、美味しさも大事だから」


「はい!」


ミルの瞳が、初めて人間らしい好奇心で輝いたように見えた。電子回路が、まるで星座みたいにキラキラと明滅している。


夕暮れの《写し世》は、オレンジ色の光に包まれていた。モノクロの世界なのに、なぜか温かい色を感じる。それは、心が生み出す色なのかもしれない。


でも、壁に書かれた『L』の文字と、祖父の焦げた写真が、私の心に小さな不安の影を落としている。


こうして、《写し世》での二日目が終わる。


まだまだ分からないことだらけだけど、一つ確かなことがある。


私は、この世界と、ここにいる仲間たちを守りたい。


明日、ミルと一緒に作る料理は、どんな味がするだろう。今から、少し楽しみだった。


「記録崩壊警報、レベル3」


朝の食堂に、ミルの声が機械的に響いた。でも、その声には昨日までなかった震えがあった。


温かいフレンチトーストの甘い香りが漂う食堂。バニラエッセンスとシナモンの匂いが混じり合い、バターが焦げる香ばしい音。私は約束通り、ミルに料理を教えていた。


「卵液の浸透時間は両面各47秒が最適ですね」ミルが真剣な顔でパンを裏返す。「でも、なぜかもう少し焼きたくなる……これが『焼き色を見る』という感覚?」


「そうそう、きつね色になったら完成」


「きつね色……RGB値で言うと?」


「そういうのは目で見て覚えるの」


「非効率的……でも、楽しい」


ミルが小さく微笑んだ、その瞬間だった。


警報が、私たちの穏やかな朝を引き裂いた。


ミルの瞳に、赤い警告表示が激しく明滅する。電子回路が不規則なパターンを描き、今まで見たことのない複雑な感情が表れては消えていく。


「どうしたの?」


「第三記録病院で、大規模な記録消失が始まっています」ミルの声が震える。「記録がポジの世界からネガの世界へ、加速度的に堕ちていく……消失速度、通常の127倍!」


フライパンを持ったままのミルの手が、小刻みに震えている。焦げ始めたフレンチトーストから、苦い煙が立ち上る。


セピアがフォークを置き、立ち上がる。その表情は、一瞬で戦士のものへと変わっていた。影のない体が、緊張で固くなっている。


「急ごう。まだ間に合うかもしれない」


三人で時計塔を飛び出す。


外に出ると、《写し世》の空が悲鳴を上げていた。

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