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第4話:効率的な朝食と温かい記録

「警告音? いえ、違う……この音響パターンは……データベースにない……」


ベーコンを焼き始めると、香ばしい匂いが立ち上る。脂がパチパチと跳ねる音。塩を振ると、小さな結晶がベーコンの上でキラキラと光る。この世界の塩は、なぜか虹色に輝く。


「これは……嗅覚刺激? でも、栄養摂取に匂いは不要なはず……」


卵を割る。コンという音。黄身がフライパンの上でぷるんと震える。それを見て、セピアも興味深そうに覗き込んできた。


「へえ、ユイ、料理できるんだ」


「ちょっとだけね。一人暮らしが長かったから」


「一人暮らし?」


「あ、えっと……」


まだ話していなかった。私の家族のこと、祖父のこと。でも、今はそれより朝食だ。


卵をふわふわのスクランブルエッグにする。かき混ぜる音が、シャカシャカとリズミカルに響く。パンをトースターに入れると、だんだんときつね色に変わっていく。バターがじゅわっと溶ける音。それは、ただのデータではない、五感に訴える温かい記録だ。


「はい、どうぞ」


三人分の皿を並べる。


セピアが一口食べて、顔をぱっと輝かせた。


「美味しい! 温かい食事って、やっぱりいいね。心が満たされる感じがする」


「でしょ?」


「心が満たされる……?」ミルが混乱している。「栄養が満たされるの間違いでは? 心に容量は存在しません」


「ミルも食べてみて」


「私は食事の必要が……」


「いいから」


半信半疑でスクランブルエッグを口に入れたミルの表情が、みるみる変化していく。瞳の電子回路が、今まで見たことのないパターンで明滅し始めた。虹色から金色、そして温かいオレンジ色へと変化していく。


「これは……温度36.7度、塩分濃度0.9%、油脂含有量……違う、そうじゃない。この感覚は……」


「美味しい?」


「美味しい……」ミルが呆然と呟く。「定義不能。でも、確かに、美味しい」


そして突然、


「む〜!」


ミルが頬を膨らませた。その表情に、自分でも驚いたような顔をした。


「警告。私の表情筋制御プログラムが、データベース上の『不満』を示すパターンを自動生成しました。なぜ頬部が膨張? これは想定外の挙動です」


「それ、拗ねてるって言うのよ」


「拗ねる? 非論理的な感情表現……」ミルがセピアを見る。「セピア様、私のも食べてください! 栄養価は完璧なんです!」


セピアが苦笑いしながら、灰色のペーストを一口。


「うん、栄養は完璧だね」


「それだけですか!?」


「あはは、ごめんごめん」


朝から賑やかな食卓。窓から差し込む光が、テーブルの上の影を複雑に交差させている。でも、セピアの影だけがない。それでも、確かにここにいる。


なんだか、ここが自分の居場所みたいで、少しだけ嬉しくなった。


食後、セピアが提案した。


「今日は《写し世》を案内するよ。実際に撮影してもらいながら、ユイの力を確かめたい」


「本当? 楽しみ!」


「ちょっと待ってください」ミルが立ち上がる。「外は危険です。ノイズ汚染度を計測してから――」


「大丈夫だよ、ミル。僕たちがついてるから」


「でも……」


「ミルも一緒に来て。ユイの撮影データを、リアルタイムで解析してほしいんだ」


「……仕方ないですね」


時計塔の外に出ると、圧倒される光景が広がっていた。


白と黒の街がどこまでも続いている。でも、それは単純なモノクロじゃない。白にも無数のグラデーションがあり、黒にも深淵のような階調がある。建物も道路も、まるで古いゼラチンシルバープリントの中に入り込んだみたいだ。


空気が、銀塩写真特有の粒子感を持っている。息を吸うと、肺の中で小さな光の粒が踊るような感覚。


「ここは記録街。様々な時代の街並みの記録が、層になって実体化した場所なんだ」


セピアが説明する間にも、建物が微かに揺らいでいる。よく見ると、同じ場所に複数の時代の建物が重なっていて、それが一定のリズムで入れ替わっている。昭和の商店が、平成のコンビニに変わり、それが大正の呉服屋に戻る。時代の地層が、目の前で生きているかのようだ。


商店街に入ると、古い写真屋があった。看板には『永遠写真館』と書かれている。ガラスのショーウィンドウには、色褪せた写真が並んでいる。どれも笑顔なのに、どこか物悲しい。


「ここに寄ってもいい?」私は提案した。「フィルムがもう少しあるかも」


店に入ると、埃っぽい匂いと現像液の刺激臭が鼻を突く。カウンターの奥から、白髪の老人が現れた。


「おや、生身の人間とは珍しい」老人は私のカメラを見て目を細めた。「そのカメラ……まさか」


「?」


「いや、そんなはずは……」老人は首を振る。「海野博士のカメラに似ていると思ったが」


「海野博士?」


私の心臓が跳ねた。それは、私の祖父の名前だった。


「ご存知なんですか?」


「この《写し世》を作った伝説の研究者さ。記録を物質化する技術の先駆者。だが、最後は……」


老人が言いかけて、口をつぐんだ。その瞳に、何か言いたげな光が宿る。


「最後は?」


「……いや、何でもない。昔の話だ」


老人は苦い表情を浮かべ、奥の棚から、古い写真の束を取り出した。その中に、焦げた写真の切れ端があった。写っているのは白衣の男性と、小さな女の子。顔の部分が焼けて判別できないが、女の子が持っているカメラは——


「これ、私のカメラと同じ……」


「持っていきなさい」老人は切れ端を私に差し出した。「いつか、意味が分かる日が来るかもしれん」


店を出ると、壁に赤いスプレーで描かれた落書きが目に入った。


『L』


その下に、かすれた文字で何か書いてある。


『記録は呪縛』


まだ新しいインクの艶。誰かが最近書いたものだ。


「これは?」


「さあ……」セピアも首を傾げる。「最近、こういう落書きが増えてるんだ。誰が何の目的で書いているのか……」


ミルがデータを解析する。瞳の回路が高速で明滅する。「『L』……該当する脅威度の高い存在は、データベースにありません。でも、何か嫌な予感がします。論理的ではありませんが」


不穏な空気を振り払うように、私たちは撮影を続けた。


歩いていると、半透明の人々とすれ違う。みんな、少し昔の服装をしている。着物の女性、学生服の少年、背広の男性。でも、その動きが妙にぎこちない。まるで、コマ送りのフィルムを見ているような。


「彼らは?」


「記録の人」ミルが端的に答える。「完全な人格はありません。記録された瞬間の感情や行動を、ループ再生しているだけ」


なんだか、物悲しい。永遠に同じ瞬間を繰り返す人々。


「撮っていい?」


「もちろん」


私はカメラを構えた。ファインダーを覗き込むと――


「!」


世界が変わった。


モノクロだった世界に、鮮やかな色彩が溢れ出す。まるで、現像液に浸した印画紙に、少しずつ像が浮かび上がってくるように。セピア色だった風景が、生き生きとしたフルカラーに変わる。


半透明だった人々が、確かな輪郭と温かい肌の色を取り戻す。笑顔で会話する家族。手を繋いで歩く恋人たち。店先で値切り交渉をする主婦。みんな、本当に生きているみたいだ。


「すごい……カメラを通すと、まるで生きてるみたい」


「それが君の力だ」セピアが静かに言う。「忘れられて色を失った記録に、もう一度命を吹き込む力。ネガの世界に堕ちかけている記録を、ポジの世界に繋ぎ止める力」


ファインダーの中で、小さな女の子が母親に手を引かれて歩いている。赤いワンピースが風に揺れ、髪留めのリボンがひらひらと舞う。その笑顔が、太陽みたいに眩しい。


カシャリ。


シャッターを切った瞬間、不思議なことが起きた。

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