第40話:三年後の朝
老婆と、その思い出の写真を、ファインダーに収める。
「瞬間記憶」
カシャリ。
すると、団地全体に、温かい光が広がった。
それぞれの部屋に、思い出が蘇る。
家族の笑い声。
子供の泣き声。
夫婦の会話。
すべてが、優しく響き合う。
「ありがとう」
老婆が、微笑む。
「また、みんなが帰ってきたみたい」
帰り道。
私は、もう仲間の名前を思い出せない。
でも、メモを見る。
『銀髪の子=ミル』 『茶髪の子=美咲ちゃん』 『大切な仲間』
そして、新しく書く。
『名前を忘れても』 『温もりは忘れない』 『それで、いい』
時計塔に戻ると、異変が起きていた。
壁が、ボロボロと崩れ始めている。
レンガが、砂のように崩れ落ちる。
「セピア!」
私は、名前だけは覚えている。
大切な人の名前。
でも、階段を駆け上がる途中で、また忘れる。
誰に会いに行くんだっけ。
メモを見る。
『セピア=大切な人』
そうだ、セピア。
最上階。
ベッドに、透明な人影が横たわっている。
もう、顔も、ほとんど見えない。
「……ユイ」
声だけが、聞こえる。
「君は、僕を覚えていてくれる?」
「うん」
嘘だ。
もう、この人が誰か分からない。
でも、大切な人だということだけは、分かる。
「ユイ、もう時間がない」
透明な手が、私の手を探る。
触れる。
かすかに、温もりを感じる。
「ネガの世界に、行って」
銀髪の子が、データを見せる。
「時計塔の崩壊まで、あと3時間です」
「セピア様が完全に消えるまで、あと1時間」
「間に合いません」
茶髪の子が、泣いている。
「どうすれば……」
私は、メモ帳を開く。
最後のページ。
そこに、大きく書く。
『みんなが好き』 『名前は忘れても、この気持ちは本物』 『必ず帰ってくる』
そして、壊れかけのカメラを持つ。
「行こう」
「ユイ、でも——」
「大丈夫」
私は、精一杯の笑顔を作る。
「みんながいるから」
地下への階段を降りる。
一段降りる度に、記憶が薄れる。
ここはどこ?
私は誰?
でも、手には確かにカメラがある。
これだけは、忘れない。
最下層。
巨大な亀裂。
ネガの世界への入り口。
「ユイ」
透明な誰かの声が、響く。
「約束して。生きて帰ってきて」
透明な声が、懇願するように響く。
「うん、約束する」
私は、誰に約束しているのか分からない。
でも、約束は約束。
「ユイ、これを持って」
銀髪の子が、小さな装置を渡してくれる。
「緊急時の通信機です。私たちの声が、届きます」
茶髪の子も、何かをくれる。
虹色に光る、小さな石。
「お守りです。部長を守ってくれます」
部長? 私のこと?
分からない。
でも、受け取る。
温かい。
私たちは、亀裂の前に立つ。
真っ黒な、底なしの闇。
見つめていると、意識が吸い込まれそう。
「行くよ」
誰に言っているのか分からない。
でも、隣に誰かがいる。
それだけで、心強い。
一歩、踏み出す。
落下感。
胃が浮く感覚。
そして——
冷たい闇が、私たちを包み込んだ。
ネガの世界。
ここは、前に来た時とは違っていた。
もっと暗い。
もっと冷たい。
そして——
中心に、巨大な黒い玉体が脈動している。
終焉の記録者の本体。
『来たか』
声が、直接頭に響く。
『記憶も失い、仲間の名前も忘れ、それでも来たか』
巨大な目が、開く。
赤い、血のような瞳。
『哀れな写し手よ』
「私は……」
声を出そうとする。
でも、自分の名前が出てこない。
メモを見る。
『海野ユイ』
「私は、海野ユイ!」
『名前だけか。それが、お前の全てか』
終焉の記録者が、嘲笑う。
『では、教えてやろう』
『お前の仲間たちのことを』
影から、映像が浮かび上がる。
そこには——
時計塔で、消えかけている透明な少年。
『彼の名は、セピア。お前が愛した者』
『だが、もうすぐ消える』
別の映像。
銀髪の少女が、必死にデータを解析している。
『ミル。AIでありながら、お前を愛した愚か者』
『永遠にお前を記憶すると誓った、哀れな機械』
さらに別の映像。
茶髪の少女が、虹色の光を放ちながら戦っている。
『美咲。お前を守ると誓った、幼い守護者』
『だが、その力も、ここでは無力』
最後の映像。
眼鏡の女性が、遠くから必死に《視て》いる。
『立花。お前たちを導こうとする、無謀な案内人』
名前と顔が、少しずつ繋がる。
ミル、美咲ちゃん、立花先輩。
そして——セピア。
「思い出した」
私は、顔を上げる。
完全じゃない。
まだ、断片的。
でも——
「みんなが、大切だってことは分かる」
『それが何になる』
終焉の記録者が、触手を伸ばしてくる。
太い、黒い腕。
ミルが防御壁を張る。
美咲ちゃんが、虹色の結界を展開する。
でも、簡単に砕かれる。
『無駄だ』
触手が、私を捕らえる。
冷たい。
氷のように冷たい。
「でも——」
私は、壊れたカメラを構える。
「まだ、終わってない」
ポケットから、メモ帳を取り出す。
最後のページ。
『みんなが好き』
その言葉を、声に出して読む。
「みんなが、好き」
『だから何だ』
「だから——」
私は、カメラのレンズキャップを外す。
割れたファインダー。
でも、レンズは生きている。
祖父が残してくれた、最後の機能。
《完全なる記録》
「すべてを、一つにする」
『まさか——』
終焉の記録者が、初めて動揺する。
『それを使えば、お前は——』
「知ってる」
私は、微笑む。
「でも、いいの」
シャッターボタンに、指をかける。
この瞬間、すべての記憶が、一瞬だけ蘇った。
幼い頃、祖父とカメラで遊んだこと。
写真部での楽しい日々。
セピアとの出会い。
ミルの優しさ。
美咲ちゃんの笑顔。
立花先輩の導き。
そして——
世界を救った、あの日のこと。
全部、一瞬で蘇って、そしてまた消える。
でも、その一瞬で十分。
私は、確かに生きていた。
愛されていた。
そして、愛していた。
「さようなら」
小さく呟く。
「そして、ありがとう」
シャッターを——
押そうとした、その瞬間。
「待って!」
声の主は、セピアだった。
いや、正確には、セピアの最後の意識。
ブレスレットから、金色の光が溢れ出る。
『ユイ、まだ早い!』
「セピア……?」
でも、私には時間がない。
終焉の記録者の触手が、私の体を締め上げる。
骨が軋む音がする。
「ぐっ……」
『今、最後の力を送る!』
時計塔から、金色の光の柱が降り注ぐ。
それは、セピアの存在そのもの。
彼の魂、記憶、愛、すべてが込められた光。
『これで、僕は完全に消える』
セピアの声が、寂しそうに響く。
『でも、君を一人にはしない』
光が、私の体に流れ込む。
温かい。
そして、セピアの記憶が、私の中に流れ込んでくる。
初めて会った日。
影のない少年を、不思議に思いながらも受け入れた私。
一緒に過ごした日々。
写真を撮り、笑い合い、時には泣いた。
そして——
告白の瞬間。
『君を好きになって、よかった』
その言葉が、心に響く。
「セピア……」
涙が、止まらない。
でも、これは悲しみの涙じゃない。
感謝の涙。




