第3話:影なき少年セピア
セピアが机の上の焦げた写真を指差す。
「でも、完璧じゃなかった。これは、君のおじいさんの写真の一部。何があったかは、記録が欠損していて分からない。でも、最後に何か重要な……失敗があったらしい」
セピアの声が、少し震えた。
ミルが盆を持って戻ってきた。カップが三つ。湯気が立ち上り、紅茶の香りが部屋に広がる。
「2分47秒。最適化の余地ありね」
「ありがとう、ミル」
「……別に」
でも、ミルの瞳の回路が、少しだけ嬉しそうな金色に光っていた。
「システムは不完全だった」セピアが続ける。「記録が増えすぎて、《写し世》は崩壊寸前。ポジとネガの境界が曖昧になって、価値ある記録まで歪み始めている」
「境界値エラー発生率、先月比で37%上昇」ミルがデータを空中に投影する。赤い警告表示が点滅している。「このままだと、システムクラッシュまで推定残り時間……」
「ミル」
「……言わない方がいいですね」
重い沈黙が流れる。時計の音だけが、カチコチと響く。その音が、まるでカウントダウンのように聞こえる。
「だから、私を?」
セピアが頷く。
「君のカメラには、記録を『現像』し直す力がある。忘れられてネガに堕ちかけた記録を、もう一度ポジの世界に引き戻す力が。君は新しい『写し手』として、この世界を救ってほしい」
「で、でも、私、ただの高校生で……写真部の部長って言っても、廃墟を撮ってるだけで……」
「違うよ」セピアが私の目を真っ直ぐ見つめる。琥珀色の瞳が、深い確信に満ちている。「君の撮る写真には、特別な力がある。廃墟を愛し、失われゆくものに価値を見出す君だからこそ、この世界を救えるんだ」
「過去の撮影データを解析しました」ミルが新しいウィンドウを開く。私が今まで撮った写真が、空中に展開される。「被写体選択パターン、構図、露出設定……すべてが『消失間近の記録』を保存することに最適化されています。偶然の確率、0.0003%」
「つまり?」
「あんたは生まれつきの『記録救済者』ってこと。認めたくないけど」
なんだか、最後の一言が悔しそうだ。でも、ミルの瞳の回路が、複雑なパターンを描いている。認めたくないけど認めざるを得ない、そんな葛藤が見て取れる。
「でも、どうやって? 私、この世界のこと何も知らないし……」
「大丈夫」セピアが優しく微笑む。「僕たちが、君をサポートする。ね、ミル?」
「……仕方ないですね。効率を考えれば、協力した方が最適解」
「素直じゃないなぁ」
「うるさい!」
二人のやり取りを見ていると、なんだか緊張がほぐれてきた。
でも、ふと疑問が湧く。
「あの、祖父は……どんな失敗を?」
セピアとミルが、一瞬顔を見合わせた。
「それは……」セピアが言いかけて、口をつぐむ。「正直、僕たちにも分からないんだ。記録が欠損していて。でも、君のおじいさんは最後まで、この世界を守ろうとしていた。それだけは確かだよ」
窓の外では、記録の星が静かに流れていく。美しくて、儚い世界。でも、確かにここにある世界。
「私に、何ができるかわからないけど……」
カメラを握りしめる。祖父の温もりが、まだ残っている気がした。そして、何か大きな責任も。
「やってみる。この世界を、守ってみせる」
「ありがとう」セピアの笑顔が、少し眩しかった。
「まったく、感動的ね」ミルが立ち上がる。「じゃあ、さっそく明日から特訓開始。効率的に、徹底的に、完璧に仕込んであげる」
「え、特訓!?」
「当然でしょ。素人に世界の命運は任せられません」
ミルの瞳が、なんだか楽しそうにキラキラしている。これは、大変なことになりそうだ。
でも、不思議と怖くなかった。
この二人となら、きっと大丈夫。そんな予感が、胸の奥で小さく光っていた。
ただ、壁の『L』の文字と、祖父の焦げた写真が、心の片隅に小さな不安の種を植え付けていた。
「おはよう、ユイ」
優しい声で目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光が、まるで古い写真のように褐色を帯びている。セピアが部屋の入り口に立って、柔らかく微笑んでいる。モノクロの世界にあって、彼の琥珀色の瞳だけが確かな熱を持っているように感じた。
「もう朝?」
ベッドから起き上がると、シーツがさらさらと音を立てる。この世界の布は、触り心地が微妙に違う。まるで、記憶の中の感触を再現しているような、少しだけ現実からズレた感覚。綿なのに絹のような、麻なのに羊毛のような、不思議な質感。
「こちらの時間でね。朝食の準備ができたよ」
着替えを済ませて食堂に向かう。廊下を歩くたび、足音が妙に響く。壁に掛けられた写真たちが、私が通るとかすかに震える。まるで、挨拶してくれているみたいだ。中には、写っている人物が微かに動いているように見える写真もある。瞬きをしたような、手を振ったような。でも、もう一度見ると、ただの静止画だ。
食堂に入った瞬間、私は凍りついた。
そこでは、静かな戦争が勃発していた。
「さあ、ユイ。私が栄養効率を完璧に計算した朝食です」
ミルがテーブルに、芸術的とも非科学的とも言える奇妙な物体を並べている。誇らしげに胸を張る彼女の瞳の回路が、虹色に明滅していた。
灰色の栄養ペースト。それは、セメントを水で溶いたような見た目をしている。スプーンを差し込むと、ねっとりと糸を引く。 立方体に切り揃えられた緑色の何か。表面がテカテカと不自然に光っている。触ると、ゼリーのようにぷるんと震える。 そして虹色に淡く光る液体。泡立っていて、ビーカーの中で化学反応を起こしているようにしか見えない。時々、小さな火花が散る。
「これは……?」
「朝食です」ミルは胸を張り、一切の感情を乗せない声で説明を始める。「タンパク質23.7グラム、炭水化物41.2グラム、脂質15.8グラム。ビタミンA、B1、B2、B6、B12、C、D、E、K、すべて一日必要量の33.3%を含有。ミネラルも完璧に配合。摂取時間は3分15秒を推奨。咀嚼回数は一口につき32回。これで消化効率が最大化されます」
「ちょっと待って、これ、食べ物なの?」
「食べ物の定義とは?」ミルが首を傾げる。「栄養素の集合体でしょう?」
恐る恐るスプーンで灰色のペーストをすくう。震える手で口に運ぶ。
「……!」
味がない。 いや、味どころか食感すらも希薄だ。 舌の上で溶けるでもなく、固形でもなく、まるで「無」を食べているような感覚。脳が混乱して、これが食べ物なのか判断できない。喉を通る感覚すらあやふやで、胃に入ったかどうかも分からない。
「どう? 効率的でしょう?」ミルが期待に満ちた目で見つめてくる。「味覚への刺激を最小限に抑えることで、脳のリソースを他の活動に――」
「ストップ!」
私は立ち上がり、キッチンに向かった。
「効率的って……食事は栄養を摂るだけの作業じゃないのよ」
「理解不能です」ミルが後をついてくる。「なぜ非効率な行動を? あ、待って、なぜか私の演算処理に0.2秒の遅延が……これは、バグ?」
キッチンを覗くと、意外にも現実世界と変わらない食材があった。卵、ベーコン、パン、バター。でも、よく見ると、それぞれが微かに透けている。半透明の卵を手に取ると、中の黄身が光の粒子のようにキラキラしている。殻を叩くと、普通の音がするのに、どこか響きが違う。
「ちょっと、私が作るから」
「え? しかし、それは非効率的な行動では――」
「いいから見てて。料理は愛情よ」
フライパンに油を引く。ジュワッという音が食堂に響く。ミルがビクッと肩を震わせた。




