第35話:絶望と希望の狭間
ミルの声がノイズ混じりになる。ザザッ、ザザッ。まるで壊れかけのラジオのように。
『どうした!?』
セピアの心配する声がブレスレットから響く。
立花先輩が通信越しに分析する。眼鏡が、データの光を反射している。
『この場所の記録密度が異常に高い! 過去200年分の音楽データが圧縮されている!』
先輩の声が緊迫する。
『その膨大なデータが、ミルのシステムに無差別に流入してる! このままだと、ミルのメモリーが——』
「オーバーフローします」
ミルが苦しそうに言う。
「でも、大丈夫。私が、この場所の心を取り戻します」
ミルが、震えながら立ち上がる。
足がふらつく。私が支えようとするが、ミルは優しく手を振って断る。
「ユイ、美咲さん、少し離れていてください」
ミルが、ステージへと歩いていく。
一歩、また一歩。
足取りは重い。まるで、深い水の中を歩いているような。
ステージ上には、グランドピアノが鎮座している。
スタインウェイのフルコンサート。かつては漆黒に輝いていたはずの楽器。今は、灰色の巨大な石のよう。
「私のデータベースには、完璧な演奏が入っています」
ミルが、ピアノの前に座る。
椅子が、ギシリと音を立てる。この無音の世界で、初めて聞いた音。
「ショパンの『別れの曲』、演奏時間4分32秒、テンポは♩=69、強弱記号はすべて完璧に」
ミルが鍵盤に手を置く。
白い手。震えている。
「でも、それでは意味がない」
ミルが深呼吸をする。
AIに呼吸は必要ない。でも、彼女は確かに息を吸って、吐いた。
「私は今から、『間違える』ことにします」
「間違える?」
美咲ちゃんが、心配そうに聞く。
「はい。わざと、不完全に演奏します」
ミルの瞳が、決意の金色に輝く。
「音程を0.3ヘルツずらし、テンポを不規則に揺らし、強弱を感情のままに」
「でも、それじゃミルのシステムが——」
「壊れるかもしれません」
ミルが振り返る。微笑んでいる。
「AIにとって、不完全であることは、存在の否定です。でも——」
ミルが私を見る。
「ユイと出会って、分かったんです。完璧じゃないことの美しさを」
最初の音が鳴る。
ド。
明らかに音程がずれている。
ミルの瞳から、涙が流れる。
「エラー……エラー……でも、続けます」
たどたどしい演奏が始まった。
右手と左手のタイミングがずれる。
音が重なるべきところで重ならず、離れるべきところで繋がる。
まるで、子供が初めてピアノを弾いているような。
でも——
その音には、心があった。
悲しい音、嬉しい音、寂しい音、温かい音。
データでは表現できない、感情の揺らぎ。
「これは……」
美咲ちゃんが、涙を流している。
「ミル先輩の、本当の音楽……」
私は、カメラを構えた。
ファインダーの中に見えるのは、不完全を受け入れて、心で音楽を奏でるAIの姿。
エラーメッセージと戦いながら、それでも演奏を続ける、美しい挑戦。
瞳の回路から、火花が散り続けている。
システムが悲鳴を上げている。
でも、ミルは微笑んでいる。
カシャリ!
「瞬間共鳴!」
シャッターから放たれたのは、いつもの温かい光ではなかった。
音そのものが可視化されたような、波打つ虹色の光。
光が、ミルの不完全な演奏と共鳴する。
すると——
奇跡が起きた。
ホールのあちこちから、音が響き始めたのだ。
ヴァイオリンの調弦の音。
オーボエの物憂げな旋律。
ティンパニの低い唸り。
見えない楽器たちが、ミルの不完全な演奏に寄り添うように、音を重ねていく。
それは、完璧なハーモニーではない。
少しずれていて、少し遅れていて、でも優しい。
まるで、初心者を励ます先輩たちのような、温かい伴奏。
コンサートホールに、色が戻っていく。
客席の赤いビロード。
舞台の褐色の床。
金色の装飾。
そして、ピアノも、美しい漆黒を取り戻した。
演奏が終わる。
最後の音が、ホールに長く響いて、消える。
ミルが、鍵盤から手を離す。
そして——
「システム、再起動します」
ミルが、その場に倒れた。
「ミル!」
駆け寄ると、ミルは目を閉じている。
でも、瞳の奥で、回路が穏やかに青く光っている。
「大丈夫……ただ、少し疲れました」
ミルが薄く目を開ける。
「でも、嬉しいです。初めて、心で音楽を奏でられました」
私は、メモ帳に書く。
『ミルが不完全な演奏をした』 『それが一番美しかった』 『完璧じゃなくていい』 『心があれば』
そして、大きく書き足す。
『ミルは、私の誇り』
朝、メモ帳の文字が少しぼやけて見える。
『ミルが心で演奏した』 『今日は市場へ』 『美咲ちゃんと一緒に』
美咲ちゃん。可愛い後輩。でも、それ以上の何かを、最近感じる。
記録中央市場は、《写し世》で最も賑やかだった場所。
でも今は——
石畳の道の両側に、無数の屋台が並んでいる。
でも、すべてが死んでいた。
色のない野菜、生気のない魚、香りのないパン。
そして、何より恐ろしいのは——
人々の記録が、今にも崩れ落ちそうなほど不安定になっていること。
「この場所、他とは違います」
ミルが警戒を強める。瞳の回路が、危険を示す赤い光で点滅。
「褪色が進行しすぎて、構造自体が崩壊し始めています」
その時だった。
ゴゴゴという地鳴りのような音。
「上!」
立花先輩の警告が響く。
見上げると、市場の天井を支える巨大な梁が、音を立てて崩れ落ちてきた。
灰色の巨大な塊。
それは、真っ直ぐ私に向かって——
「部長、危ない!」
美咲ちゃんが、私を突き飛ばした。
私は石畳に転がる。膝を擦りむく。痛い。
振り返ると——
ガシャアアアン!
美咲ちゃんがいた場所に、瓦礫が降り注いでいた。
煙が立ち込める。
埃が舞う。
「美咲ちゃん!」
私は瓦礫に駆け寄る。
重い石を必死にどけようとする。でも、びくともしない。
瓦礫の隙間から、美咲ちゃんの手が見える。
小さな手。
動かない。
「いやだ……美咲ちゃん……!」
涙で視界がぼやける。
『美咲ちゃん! 応答して!』
セピアの悲痛な声。
ミルも必死に瓦礫を動かそうとする。でも、重すぎる。
その時——
瓦礫の下から、微かな光が漏れ始めた。
最初は、いつものオレンジ色。
でも、次第に色が変わっていく。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
虹のすべての色が、順番に、そして同時に輝き始める。
「これは……」
光が、どんどん強くなる。
そして——
ドオオオン!
爆発的な光と共に、瓦礫が粉々に砕け散った。
光の中心に、美咲ちゃんが立っている。
無傷で。
でも、明らかに変わっていた。
彼女の瞳が、完全な虹色に変化している。
七色が渦を巻くように、瞳の中で踊っている。
髪も、光の加減で虹色に輝いて見える。
そして、彼女の周りに、薄い虹色のオーラが漂っている。
「……部長」
美咲ちゃんの声。でも、どこか大人びている。
「無事で、よかった」
「美咲ちゃん! あなたは!?」
「大丈夫です」
美咲ちゃんが、自分の両手を見つめる。
虹色の光が、指先から溢れている。
「やっと、分かりました」
美咲ちゃんが顔を上げる。
その表情は、今までの可愛い後輩ではなく、一人の守護者の顔だった。
「《修復者》の本当の力は、壊れたものを直すことじゃない」
美咲ちゃんが、市場全体を見渡す。




