第33話:最後の決断
耳をすませば、遠くの本棚から、誰かがページをめくる、かすかな音が聞こえる。
サラ、サラ。
紙のささやき。
そして、どこからか、子供の笑い声が——図書館に淡い色が戻った後、私は大切そうにメモを書いた。
『星の王子さまの話を聞いた』 『ミルの語りが優しかった』 『物語は、語る人と聞く人の間に生まれる』『瞬間物語成功』
そして、一番下に大きく書く。
『また、ミルの物語が聞きたい』
美咲ちゃんが覗き込む。
「部長、毎日メモ書いてて大変じゃないですか?」
「うん、でも」私は微笑む。「これがあれば、大切なことを忘れない」
ミルが優しく言う。
「私も、すべて記録しています。ユイが忘れても、私たちが覚えています」
その言葉に、胸が熱くなる。
メモ帳を閉じて、次の冒険へ。
記憶は失っても、仲間がいる限り、私は前に進める。
真っ白なアルバムの、4ページ目。
そこに新しい写真を貼る。
小さな椅子を囲んで、一つの物語に夢中になっている仲間たちの、優しい横顔が写った写真。
ミルの真剣な表情。
美咲ちゃんの輝く瞳。
そして、画面の端に小さく映る、色を取り戻し始めた本たち。
「ミル、ありがとう」私が言う。
「私も、王子さまの物語、久しぶりに聞けて嬉しかった」
「本当ですか?」ミルが嬉しそうに微笑む。「では、次は別の物語を」
「うん、聞きたい」
記憶を失った私でも、新しい物語を、こうして仲間たちと紡いでいくことができる。
その事実が、私の心を、温かい光で満たしてくれた。
窓の外を見る。
図書館の尖塔に、微かに夕日が当たっている。
ステンドグラスが、少しだけ色を取り戻している。
赤、青、緑。
まだ薄いけど、確かな色。
物語は、続いていく。
七月の終わり。
朝、目覚めてメモ帳を開く。いつもの日課。
『あなたは海野ユイ。大学1年生(夏休み中)』『ミル(銀髪のAI)とセピア(影を持つ少年)は大切な仲間』『美咲(後輩)と立花先輩も仲間』 『今日も必ず写真を撮ること』
そして、今日は特別な一行が追加されていた。
『今日はみんなで海に行く。水着を忘れないこと』
海? 私が書いた文字だけど、なぜ海に行くのか思い出せない。
「おはよう、ユイ」
寮の前で、ミルが待っていた。いつもの制服ではなく、白いワンピースを着ている。麦わら帽子も被っていて、まるで本物の人間の女の子みたい。
「今日は特別な日です」ミルの瞳の回路が、期待の金色に輝いている。「あなたと海に行くのは、記憶喪失後、初めてです」
「そうなの?」
「はい。正確には、あなたが記憶を失ってから247日目の、初めての海です」
ミルの几帳面なデータに、少し笑ってしまう。
「でも、私、泳げるのかな」
「大丈夫です。あなたの体は、きっと覚えています」
時計塔に集合すると、セピアと美咲ちゃんが待っていた。
セピアは、薄いブルーのシャツに短パン。影がしっかりと地面に落ちている。当たり前のことなのに、それが特別に感じる理由を、メモ帳で確認する。
『セピアは元々影がなかった。今は影がある』
「ユイ、久しぶり」セピアが微笑む。「覚えてないと思うけど、前に一度、みんなで海の話をしたんだ」
「そうなの?」
「うん。その時、『記録の海岸』っていう場所があるって話したら、ユイがすごく行きたがって」
美咲ちゃんが、大きなバッグを抱えて飛び跳ねる。
「部長! 今日は最高の海日和ですよ!」
その笑顔が眩しくて、私も自然と笑顔になる。
《写し世》の片隅にある、記録の海岸。
そこは、誰かの「完璧な夏の思い出」が結晶化した場所だった。
エメラルドグリーンの海が、どこまでも続いている。波の音が、規則正しくリズムを刻む。ザザーッ、ザザーッ。白い砂浜は、素足で歩くとキュッキュッと音がする。潮の香りが、鼻腔をくすぐる。しょっぱくて、でも爽やかな匂い。
「すごい……」
私は息を呑んだ。
記憶にはない。でも、この景色を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
「ユイ、昔の水着、持ってきました」
ミルが、紙袋から黒いビキニを取り出す。
「これ、あなたが以前選んでいたものです。データベースに記録があります」
布地が少なくて、大人っぽいデザイン。確かに、似合うかもしれない。でも——
「ごめん、今日はこっちにする」
私が選んだのは、シンプルな青いワンピース型の水着。安心感のあるデザイン。
ミルが少し意外そうな顔をした後、優しく微笑んだ。
「今のユイの選択を、記録します」
更衣室で着替える。
美咲ちゃんは、ピンクのフリル付きワンピース。年相応で可愛い。
ミルは、白のセパレート。少しフリルがついていて、AIとは思えないほど女の子らしい。
「ミル、その水着似合ってる」
「ありがとうございます。327種類のデザインから、最適なものを選択しました」
「そんなに検討したの!?」
「はい。ユイに、可愛いと言ってもらいたくて」
その素直な言葉に、胸がきゅっとなる。
浜辺に出ると、セピアが一人、波打ち際に立っていた。
素足を海水が洗う。彼は、じっとそれを見つめている。
「セピア?」
「あ、ユイ」
振り返った彼の目が、少し潤んでいるように見えた。
「どうしたの?」
「初めてなんだ」セピアが、足元の砂を見つめる。「現実世界の海に、素足で立つのは」
そうか。セピアは、ずっと《写し世》に閉じ込められていた。現実世界の海は、初めての体験なんだ。
「冷たい?」
「うん。でも、気持ちいい」
セピアが、子供のような笑顔を見せる。
「しょっぱいのも、本当なんだね」
「部長! 泳ぎましょう!」
美咲ちゃんが、私の手を引っ張る。
「でも、私、泳げるか分からない」
「大丈夫です」ミルが断言する。「あなたの筋肉の付き方、肺活量、すべてのデータが、あなたが泳げることを示しています」
恐る恐る、海に入っていく。
足首、膝、腰。少しずつ深くなっていく。水は冷たいけど、すぐに慣れる。
そして——
体が、自然に動いた。
腕が水をかき、足が水を蹴る。呼吸のタイミングも、体が覚えている。
「泳げてる!」
美咲ちゃんが歓声を上げる。
私も驚いた。頭では何も覚えていないのに、体は完璧に泳ぎ方を覚えている。
「すごいです、ユイ」ミルが感心する。「身体記憶は、脳の記憶とは別の場所に保存されているんですね」
四人で、水をかけ合う。
「えい!」
セピアが、両手で水をすくって、私にかける。
「つめたい!」
私も仕返しする。水しぶきが、太陽の光でキラキラと輝く。虹色のプリズムができる。
ミルは、水をかけられるたびに、
「水温18.7度、塩分濃度3.5%、衝撃値は——」
と分析しようとして、
「ミル先輩、今日は分析禁止です!」
美咲ちゃんに怒られていた。
「で、でも、データが——」
「楽しむことが、今日のデータです!」
昼過ぎ、浜辺でお弁当を広げる。
ミルが作ってきたサンドイッチ。具材の配分が完璧で、どこから食べても同じ味。
「さすがミル、正確だね」
「はい。誤差は0.1グラム以内です」
でも、セピアが作ってきたおにぎりは、形がいびつで、具が偏っている。
「ごめん、料理苦手で」
「ううん、美味しいよ」
本当に美味しかった。不格好だけど、心がこもっている味。
午後は、砂浜でビーチバレー。
私とセピアのチーム対、ミルと美咲ちゃんのチーム。
「負けませんよ!」
ミルの瞳に、珍しく闘志が燃える。




