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第32話:記憶が消える瞬間

ミルが指し示したのは、街の歴史をすべて保存しているという、「記録中央図書館」だった。


立体ホログラムに映し出される巨大な建物。ゴシック様式の重厚な外観。尖塔が空を突き、ステンドグラスが並ぶ。かつては知識の殿堂として、多くの人々が訪れた場所。


「図書館か……」


立花先輩が通信越しに懸念を口にする。


『遊園地のように、分かりやすく『楽しい』という感情がある場所ではないわ』


先輩の眼鏡が、モニターの光を反射する。


『より知的で、静かな心の働きが記録されている場所。ページをめくる期待、物語に没入する喜び、新しい知識を得る感動。それらは派手じゃないけど、深い』


『苦戦するかもしれない』


先輩の予感は、的中した。


記録中央図書館に足を踏み入れた瞬間、私たちは息を呑んだ。


そこは、ただ色が失われているだけではなかった。


音も、匂いも、知識の重みさえもが消え失せ、完全な「静寂」と「無」が支配する空間だった。


天井まで届く本棚が、迷路のように連なっている。でも、そこに並ぶ本たちは、ただの灰色の直方体。背表紙の文字も、金箔の装飾も、すべてが消えている。


床に敷かれた絨毯は、足音を吸い込むはずなのに、今は石のように固い。


読書灯は、光を失った硝子の塊。


そして何より異様なのは——


「本から……文字が消えてる……」


美咲ちゃんが、手に取った本のページを呆然と見つめる。


厚い革表紙の本。重さはある。でも、開くと、そこにあるのは真っ白な紙の束だけ。


インクの染みすら残っていない。紙の繊維さえ見えないほど、完璧な白。


次の本も、その次の本も、すべて同じ。


「データ的にも異常です」


ミルが、こめかみを押さえながら言う。苦痛の表情。


「記録の構造データは残っています。本の形、ページ数、配置。すべて完璧に保存されています」


ミルの瞳の回路が、不規則に明滅する。


「ですが、そこに記録されていたはずの『情報』、つまり物語や知識といったコンテンツデータが、すべて欠落しています」


ミルの声が震える。


「これは……データにとっての、死です」


AIである彼女にとって、この光景は世界の終わりそのものに見えているのかもしれない。情報のない記録。それは、魂のない躯と同じ。


『ユイ、試してみてくれ』


セピアの声に、私は頷き、カメラを構えた。


前回のように、仲間たちとの温かい「今」を感じながら、シャッターを切る。


カシャリ!


瞬間色彩モーメント・カラー!」


陽だまりの光が、一番近くの本棚を包み込む。


すると、埃っぽいモノクロだった本棚は、確かに温かい木の色を取り戻した。


樫の木の深い茶色。年輪が浮かび上がり、木の匂いがかすかに漂う。


でも、それだけだった。


本の中身は、真っ白なまま。


文字は戻らない。物語は蘇らない。


「ダメ、か……」


「心が……足りない?」


どうすればいいんだろう。この場所に宿っていたはずの「心」とは、一体何なんだろう。


私が答えを見つけられずにいると、美咲ちゃんが、子供向けの絵本が並んでいたであろう一角に、そっと手を触れた。


低い本棚。子供の目線に合わせた高さ。角が丸く削られている。安全への配慮。


「ここ……すごく、温かいです」


彼女の《修復者》の力が、微かに残る記録の心の残滓を感じ取っていた。


美咲ちゃんの瞳が、虹色に輝く。


「たくさんの子供たちが、わくわくしながら、お話を聞いていた……」


美咲ちゃんが目を閉じる。


「お母さんの膝の上で、ページをめくる音を待っている子。初めて字が読めて、得意げな子。物語の続きが気になって、閉館時間まで粘る子」


「そんな声が、聞こえる気がします」


「物語を、聞く……」


その言葉に、セピアがはっとしたように言った。


『そうか! 図書館の記録の核は、個人の感情じゃない』


セピアの声が興奮している。


『『物語』そのものなんだ! 誰かが語り、誰かが聞き、その間で生まれる想像力の煌めきこそが、この場所の心なんだ!』


「物語……」


私は、自分の頭の中を探る。


私の好きだった、子供の頃の物語。


でも、何も思い出せない。


頭の中は、真っ白な本のように空っぽ。記憶の欠落は、そんな大切なものまで奪ってしまっていた。


その時、ミルが一歩前に出た。


「私に、任せてください」


ミルが一歩前に出た時、私は慌ててメモ帳を取り出した。


何か、大切なことが起きる予感がする。


『ミルが物語を語ってくれる』 『図書館の心は、物語を分かち合うこと』


「ミル?」


ミルが絵本コーナーの中央に立つ。


小さな椅子が円形に並んでいる。読み聞かせのスペース。


「私には、好きな物語の記憶はありません」


ミルが静かに言う。


「人間のように、母親に読んでもらった温かい思い出もありません」


ミルが、一番小さな椅子の前に立つ。


「ですが、この《写し世》に記録されている、すべての子供向けの物語のデータがあります」


ミルの瞳の回路が、優しい金色に光る。


そして、目を閉じて、データベースにアクセスした。


「選択中……選択中……」


ミルの表情が、少しずつ柔らかくなっていく。


「決定しました。物語番号2847。タイトル『星の王子さま』」


ミルが目を開ける。


そして、少しだけぎこちなく、でも、驚くほど優しい声で、物語を語り始めた。


「むかし、むかし、あるところに……」


ミルの声が、静寂の図書館に響く。


「いや、違います。この物語は、こう始まります」


ミルが言い直す。


「大人は、誰も初めは子供だった。でも、それを覚えている人は少ない」


それは、誰もが知っている、星の王子さまの物語だった。


でも、ミルの語り方は独特だった。


データを読み上げているのではない。


彼女なりに、言葉の意味を噛みしめながら、大切に、一つ一つの文章を紡いでいる。


「王子さまは、とても小さな星に住んでいました。その星は、家一軒分くらいの大きさしかありません」


ミルが両手を広げて、星の大きさを示す。


「でも、王子さまにとっては、それが全世界でした」


美咲ちゃんが、ミルの前に座る。


子供のように、目を輝かせて。


立花先輩も、通信の向こうで微笑んでいる。


セピアも、静かに耳を傾けている。


私は、その光景を、ファインダー越しに見つめていた。


色褪せた図書館の片隅で、一つの物語に心を寄せ合う、大切な仲間たち。


ミルの声に導かれ、みんなの心の中で、小さな王子さまが動き始める。


バラとの出会い。キツネとの別れ。そして、地球での冒険。


これだ。


私が撮るべき「今」は。


物語によって灯される、想像力の温かい光。


本当の物語は、紙の上にあるんじゃない。


それを語る人と、聞く人の間に生まれる、見えない橋の上にある。


瞬間物語モーメント・ストーリー!」


カシャリ!


シャッターを切った瞬間、私の心から溢れ出したのは、物語のページをめくる音のような、優しくて、どこか懐かしい光だった。


紙の擦れる音。インクの匂い。新しい章への期待。


そんな感覚が、光となって図書館全体に広がっていく。


光が収まると——


図書館全体が、古い羊皮紙のような、温かいセピア色に染まっていた。


そして、私たちが手に取った絵本には、消えていたはずの文字と絵が、淡い鉛筆画のように、ふわりと浮かび上がっていた。


「文字が……!」美咲ちゃんが歓声を上げる。


「物語が、戻ってきた……!」ミルも驚いている。


完全じゃない。


まだ薄い。まだかすれている。


でも、図書館は、その「心」を取り戻したのだ。

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