第29話:レイラの浄化
金属の感触。使い込まれた革のストラップ。ファインダーに付いた小さな傷。
これが、私と世界を繋ぐ唯一の道具。
ファインダーを覗く。
以前のように、ファインダーを覗くだけで世界が色づくことは、もうなかった。
そこにあるのは、色褪せた、ありのままの世界。
灰色のブランコ。灰色の滑り台。灰色の人々。
もう、カメラの魔法には頼れない。力を生み出すのは、私自身の心。
でも——
私は、色褪せた公園ではなく、その中に立つ仲間たちに、そっとピントを合わせた。
泣きそうなミルの瞳。瞳の奥で、電子回路が複雑な感情を表現しようと必死に明滅している。
固く結ばれた美咲ちゃんの唇。でも、その端が微かに震えている。強がっているんだ。
(笑ってほしい)
心の底から、そう思った。
思い出せない過去のためじゃない。これから私たちが作っていく未来のために。
(この人たちの笑顔を、私は撮りたい)
その純粋な願いが、引き金になった。
カメラが、微かに温かくなる。
いや、温かくなったのは私の心か。
「瞬間色彩!」
カシャリ。
シャッターを切った瞬間——
フラッシュから放たれたのは、浄化や攻撃の光ではない。
まるで、春の陽だまりのような、温かくて優しい光だった。
午後の教室に差し込む光。猫が丸くなって眠る縁側の光。母親が子供を見守る時の眼差しに宿る光。
そんな、ささやかで、でも確かな温もりを持った光。
光が、仲間たちと、彼女たちが立っていたブランコ周辺を包み込む。
すると——
奇跡が起きた。
すべてが灰色だった世界の中で、ブランコとその周りの地面だけが、ふわりと、淡い色彩を取り戻したのだ。
鮮やかなフルカラーではない。
まるで、水彩絵の具でそっと色を乗せたような、柔らかくて、優しいパステルカラー。
ブランコの鎖が、薄い銀色に。
座面が、褪せた赤色に。
地面が、乾いた土の色に。
そして、何より——
ミルと美咲ちゃんの頬に、ほんのりと赤みが差した。
「すごい……!」美咲ちゃんが息を呑む。
「色が、少しだけ……!」ミルが驚きの声を上げる。
それは、完全な修復ではなかった。
でも、確かに、私たちが作り出した新しい「心」が、色を失った世界にもう一度、彩りを与えた瞬間だった。
風が、そよいだ。
ほんの微かに。でも、確かに空気が動いた。
ブランコの鎖が、かすかに揺れる。
キィ、という小さな音。
「音も……戻ってきた」
時計塔に戻った私たちは、あの真っ白なアルバムの最初のページに、今日撮った写真をそっと貼った。
糊の匂いが、鼻をくすぐる。
写真の四隅を、丁寧に押さえる。
写っているのは、ほとんどがモノクロの公園の中で、淡い色を取り戻したブランコの周りで、驚きながらも、少しだけ微笑んでいる仲間たちの姿。
ミルの瞳が、希望の光で輝いている。
美咲ちゃんの口元に、安堵の笑みが浮かんでいる。
これが、私たちの二度目の物語の、始まりの一枚。
私はメモ帳を開き、今日の出来事を忘れる前に書き留める。
『色褪せた世界に、少しだけ色を取り戻した』『瞬間色彩という新しい力』『ミルと美咲ちゃんの笑顔が撮れた』 『世界を救う方法が見つかった』
そして、最後に付け加える。
『明日も、みんなと一緒に頑張る』
「時間は、かかるかもしれません」
ミルが言う。でも、その声には確信がある。
「でも、こうやって、一つ一つ新しい思い出を撮っていけば、いつかきっと……」
「世界に、完全な色が戻る」セピアの声が、ブレスレットから聞こえる。
「うん」
私は頷く。
「いつか、このアルバムが、最高の笑顔でいっぱいになるように」
窓の外を見る。
《写し世》の空は、まだ灰色が多い。
でも、さっき色を取り戻した公園の上だけ、微かに青みがかっている気がする。
私たちの戦いは、まだ終わっていない。
むしろ、本当の意味で始まったばかりなのかもしれない。
失われた記憶を嘆くのではなく、新しい記憶を、この手で、このカメラで、一つ一つ作っていく。
それは、世界を救うための、そして、私自身の心を取り戻すための、長い長い旅路なのだ。
でも、一人じゃない。
そのことだけが、今の私の、確かな支えだった。
朝、目が覚めて最初にすることは、メモ帳を開くこと。
『昨日、公園に色を少し取り戻した』 『今日も世界を救う活動を続ける』 『ミル、セピア、美咲ちゃん、立花先輩と一緒に』
自分の字だけど、実感が湧かない。でも、アルバムを開くと、確かに昨日撮った写真がある。淡い色を取り戻したブランコと、笑顔の仲間たち。
これが、私の新しい一日の始まり。
時計塔の作戦室で、私たちは真っ白なアルバムの最初のページを、何度も見返していた。
写真に触れる指先。印画紙の微かなざらつき。糊の乾いた匂い。
モノクロの公園に、ぽつんと灯る、水彩絵の具のような淡い色彩。それは、私たちが踏み出した、新しい一歩の証だった。
「この『記録の褪色』現象、他の場所でも確認されています」
ミルがモニターに《写し世》の地図を映し出す。立体的なホログラムが、青い光で部屋を照らす。
私はすぐにメモを取る。
『記録の褪色=世界から心が失われる現象』 『他の場所にも広がっている』
ミルがモニターに《写し世》の地図を映し出す。立体的なホログラムが、青い光で部屋を照らす。
そこには、青い警告を示すエリアが、まるで病気の進行のように点々と広がっていた。青の濃淡が、褪色の深刻度を表している。
「データ解析の結果、褪色の速度は加速しています」ミルの声が沈む。「このままでは、3ヶ月以内に《写し世》全体が……」
「終焉の記録者の呪いは、ゆっくりと、でも確実にこの世界から『心』を奪い続けているのね」
立花先輩の通信越しの声が、悔しそうに響く。モニターに映る彼女の表情は厳しい。
「このままじゃ、世界はまた静かになっちゃう……」
美咲ちゃんの不安そうな声。手がかすかに震えている。
私は顔を上げた。
「だったら、行こう」
「え?」
「色が消えちゃう前に。私たちが、新しい色を塗りにいく」
記憶はない。でも、やるべきことは分かる。
私の言葉に、みんなの瞳に力が戻った。
私たちが次に向かったのは、かつて「夢の国」と呼ばれた遊園地の記録だった。
入り口のゲートをくぐった瞬間、異様な静寂が私たちを包んだ。
風見鶏が回らない。旗がはためかない。すべてが、写真の中で固まったように静止している。
そこに広がっていたのは、夢の抜け殻のような光景だった。
メリーゴーラウンドの木馬たちは首を垂れ、まるで処刑を待つ囚人のよう。色とりどりだったはずの鞍は、すべて同じ灰色。金色だったはずの飾りも、ただの鈍い金属片。
観覧車は巨大な骸骨のように空を突いている。ゴンドラは風もないのに微かに揺れ、軋んだ音を立てている。まるで、苦痛を訴えているかのように。
ジェットコースターのレールは、天に昇る錆びついた梯子。かつて響いていたはずの歓声の残響すら、もう聞こえない。
色彩も、音も、人々の歓声も、すべてが消え失せている。
「ひどい……」美咲ちゃんの声が震える。「ここには、たくさんの笑顔があったはずなのに」
美咲ちゃんの《修復者》の瞳が、悲しげに揺れる。彼女には、失われた喜びの残滓が見えているのだろう。
「どうすれば……」私は辺りを見回す。「この前の公園みたいに、私が写真を撮ればいいの?」
でも、と私は思う。




