第2話:記録管理AIミル
「質問が多いわね」少女はぴくりとも表情を変えずに、まるでデータベースを読み上げるように言った。でも、その指先が一定のリズムでテーブルを叩いている――苛立ち? 「私はミル=メモリカ。この《写し世》の記録管理AI。そして、ここは時計塔の医務室。座標はポジ世界第3層、東経000、北緯000」
「写し世? AI?」
言葉の意味が頭に入ってこない。口の中がカラカラに乾いている。舌が上顎に張り付く。確か私は廃鉱山で写真を撮って、それから世界が崩れて――
「あ、カメラ! 私のカメラは!?」
慌てて周りを見回す。心臓が早鐘を打つ。あの祖父の形見が、もし――
「はいはい、そんなに暴れない。処理速度が落ちるから」
ミルが呆れたようにため息をつき、枕元を指差す。そこに、大切なフィルムカメラがそっと置かれていた。震える手で触れる。金属のひやりとした感触、使い込まれた革の手触り、そしてレンズに映る自分の顔。少しだけ、安堵の息が漏れる。でも、レンズに小さな傷が増えている気がする。まるで、長い旅を経てきたような。
「そんなに大事なの、その旧式記録装置」
ミルが不思議そうに、でもどこか計算するような目で首を傾げる。その動きが妙にカクカクしていて、まるでフレームレートが足りない動画みたいだ。
「だって、祖父の形見だから」
「ふーん、人間が持つ非効率的な感傷ね。データなら完全コピーすれば同じものが作れるのに。まあいいわ。セピア様がお待ちよ。歩ける?」
セピア様? ああ、ファインダーに映っていたあの少年か。琥珀色の瞳が脳裏に焼き付いている。影のない不思議な存在。
立ち上がると、少しふらついた。ミルが機械的な動作でさっと腕を掴む。その手が、思いのほか温かい。
「体温、36.5度に調整中。人間は温度で安心するんでしょ?」
「え?」
「……別に、あんたのためじゃないから。プロトコルよ、プロトコル」
なんだか、照れ隠しみたいな言い方だ。瞳の回路が一瞬、ピンク色に光ったような気がした。
医務室を出ると、廊下の異質さに息を呑んだ。白と黒のタイルが市松模様に無限に続き、天井には古い写真のフレームが螺旋状に浮遊している。壁は半透明で、向こう側に別の時代の廊下が幾重にも重なって見える。足音が妙にこだまして、まるで複数の自分が歩いているような錯覚を覚える。
壁の一角に、赤いスプレーで描かれた文字が目に入った。
『L』
古い落書きのようだが、妙に新しく見える。インクが、まだ乾いていないような艶がある。
「これは?」
「さあ? 昔からある落書きよ」ミルが素っ気なく答える。「管理者権限でも消せないバグみたいなもの。データベースにも該当する記録がないの」
その瞬間、カメラが一瞬だけ熱を帯びた。ほんの一瞬――でも確かに、グリップから指先に伝わる温度が上がった。振り返ると、誰もいない廊下の奥から、かすかに壁を引っ掻くような音が聞こえた気がした。
「今の……」
「何か?」ミルが不思議そうに首を傾げる。
「いえ、なんでも」
でも、『L』の文字が、一瞬だけ脈打ったように見えた。
でも、ミルの瞳の回路が、一瞬だけ不安な紫色に染まったのを、私は見逃さなかった。
窓の外に目をやると、さらに奇妙な光景が広がっていた。空には無数の写真が、まるで回遊魚の群れのように流れている。家族写真、証明写真、風景写真――どれも端から砂のように崩れ、キラキラと光の粒子になって消えていく。美しくも悲しい、記録の川。
「きれい……でも、なんだか切ない」
「新規データ流入量、毎秒約3.7テラバイト。削除量、毎秒約3.9テラバイト」ミルが無感情に数値を読み上げる。「この世界のストレージは有限。新しい記録が現実世界から流入するたび、古いものから容量を明け渡すために消去される。完全に忘れられた記録はネガの世界に堕ちる。それがこの世界のガベージコレクション」
「ガベージ……ゴミ扱いなの?」
「効率的でしょ?」
「でも、その一つ一つに、誰かの思い出が――」
「センチメンタルね」ミルが肩をすくめる。でも、その瞳の回路が一瞬、青く明滅した。「……まあ、私には理解できない感覚だけど」
重厚な木の扉の前で立ち止まる。扉には無数の写真が貼られていて、それぞれが微かに脈動している。生きているみたいだ。
「セピア様、連れてきました」
「入って」
優しい声が中から聞こえた。あの時、頭の中に響いた声と同じだ。でも今度は、ちゃんと耳で聞こえる。
扉を開けると、古い図書館のような部屋だった。本棚には写真アルバムがびっしり。でもよく見ると、アルバムの背表紙が呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。生きているみたいだ。空気中に、古い紙とインクの匂い、そして微かに現像液の香りが漂っている。
机の上に、焦げた写真の切れ端が無造作に置かれていた。写っているのは白衣の男性のようだが、顔の部分が黒く焼け焦げている。端が炭化して、触れたら崩れそうだ。
「その写真……」
私が近づこうとすると、セピアが慌てて切れ端を引き出しにしまった。
「ああ、これは……まあ、後で話すよ」
窓際に、あの少年が立っていた。
セピア色の髪が、モノクロの世界で唯一色彩を持つ窓から差し込む光に透ける。振り返った顔は、ファインダーで見たときよりも優しげで、そしてどこか儚げだった。やっぱり、影がない。足元にあるべき黒い形が、完全に欠落している。
「初めまして、ユイ。僕はセピア=レコード」
近づいてきた彼から、かすかに古い本の匂いがした。
「あの、どうして影が……」
「ああ、これ?」セピアは自分の足元を見下ろし、苦笑いを浮かべた。「僕は『記録された存在』だから。実体はあるけど、この世界の光に対して、完全じゃないんだ。光は通り抜けちゃうというか……まあ、要するに、半分幽霊みたいなものかな」
「幽霊……」
「あはは、驚かせちゃった? でも触れるよ、ほら」
セピアが手を差し出す。恐る恐る握手すると、確かに温かい手の感触があった。でも、どこか頼りない。強く握ったら、すり抜けてしまいそうな。
「ごめんね、君を巻き込んでしまって。でも、君じゃなきゃダメだったんだ」
「どういうこと?」
「まず、お茶でも飲みながら話そうか。ミル、準備できる?」
「は? 私、給仕プログラムなんてインストールされてませんけど」
「じゃあ、僕が――」
「……やりますよ、もう。効率的に3分で準備します」
ミルがぷりぷりと怒りながら部屋を出ていく。扉が閉まる間際、「なんで私がお茶くみなんか……ブツブツ」という愚痴が聞こえた。
「ミルって、AIの割に感情豊かなのね」
「そうなんだ」セピアが楽しそうに笑う。「プログラム上は感情はないはずなんだけど、なぜか時々、ああやって『不機嫌プロトコル』を発動するんだよ。本人は認めないけどね」
ソファに座ると、ふかふかのクッションに体が沈み込む。でも、妙な感覚だ。沈み込んでいるのに、底がない感じ。まるで雲の上に座っているような。
「さて、説明しないとね」セピアが向かいに座る。「君のカメラ――それは特別製なんだ。《写し世》と現実世界を繋ぐことができる、唯一のインターフェース」
祖父の形見を見つめる。ただ古いだけのフィルムカメラだと思っていたのに。レンズに映る自分の顔が、少し歪んで見える。
「君のおじいさんは、《アーカイブ》の開発者の一人だった」
「アーカイブ?」
「この世界を作り出したシステム。すべての記録を保存し、永遠に残すための。『人類の記憶を、一枚たりとも失わせない』――それが、開発者たちの理想だった」




