第28話:カインの憎しみ
そして、震える字でメモを書く。
『灰色の公園を救った日。ミルとセピアと美咲ちゃんと。忘れないで』
『家族の記録。赤いワンピースの女の子』
『ブランコに色が戻った。少しだけ』
明日になったら、このメモの意味すら分からなくなるかもしれない。
「ユイ」ミルが静かに言う。
「私は、今日のすべてを記録しています。あなたが撮った47枚の写真。その順番、構図、あなたの表情、呼吸の数まで」
ミルの瞳が、優しく、でも少し寂しげに輝く。
「あなたが忘れても、私は覚えています。永遠に」
「それって、つらくない?」
「つらいです」ミルが正直に答える。「でも、それが私の選んだ道です。AIである私の、愛の形です」
セピアも、優しく言う。
「写真は嘘をつかない。君が忘れても、写真は覚えてる」
私は、今日撮った写真を見つめる。
不完全な、でも確かな記録。
「毎日撮る」
私は決意を込めて言う。
「絶対に、毎日撮る」
カメラを抱きしめる。
これが、私の新しい生き方。
忘れることを恐れるのではなく、忘れる前に記録する。
写真は、私の不完全な記憶を補う、もう一つの記憶。
寝る前、私は枕元に今日撮った写真を並べる。
そして、大きな文字でメモを書く。
『明日の朝、最初にこれを見ること』
『あなたには大切な仲間がいる』
『ミル(銀髪)とセピア(影あり)を信じて』
『毎日、必ず写真を撮ること』
「おやすみ、ユイ」ミルが言う。
「おやすみ、ユイ」セピアも言う。
「おやすみ……」
名前が出てこない。メモを見る。
「おやすみ、ミル、セピア」
窓の外では、《写し世》の星が静かに流れている。
その中に、灰色の星が混じり始めているのが見える。
世界の褪色は、静かに、でも確実に進行している。
でも、今夜はただ、この小さな一歩を喜ぼう。
明日の朝、私はまた同じメモを読むだろう。
仲間の名前を、また確認するだろう。
そして、また写真を撮るだろう。
それが、私の祈り。
忘れても、忘れても、撮り続ける祈り。
シャッターを切るたび、世界は写真の中に保存される。
たとえ私が忘れても、写真は忘れない。
ミルは忘れない。
それが、私たちの新しい物語の形。
不完全で、切なくて、でも確かに前に進んでいく、私たちの物語。
目が覚める。
知らない天井。いや、見慣れているはずなのに、初めて見る気がする。白い天井。小さなシミが一つ。なぜかそのシミの形だけは覚えている。蝶のような形。
枕元に手を伸ばす。そこにあるのは、使い込まれたメモ帳。革の表紙が手に馴染む。なぜか、これを開くことが朝の儀式だと体が知っている。
震える手でページをめくる。私の字で書かれている。少し急いだような、でも丁寧な文字。
『あなたは海野ユイ。大学1年生。写真部』 『記憶は定着しない。毎日このメモを読むこと』 『ミル(銀髪の女の子・AI)とセピア(琥珀色の瞳の少年)は大切な仲間』『カメラは祖父の形見。大切に』 『今日も必ず写真を撮ること』
ミル?セピア?
知らない名前。でも、文字を指でなぞると、胸の奥が温かくなる。不思議だ。頭は忘れても、心は覚えているのかもしれない。
新しいページに、震える字で書く。
『4月15日(多分)。晴れ。また忘れた。でもメモがある。これから仲間に会いに行く』
色を失った公園は、時が止まったように静まり返っていた。
風すらない。葉擦れの音一つしない。まるで、世界が呼吸を忘れてしまったような、完璧な静寂。
ブランコの鎖は、重力を無視したように中空で固まっている。座面のゴムは、子供たちの体温の記憶を失い、ただの灰色の板になっている。
滑り台の表面には、無数の小さな傷があるはずなのに、それさえも平らに均されている。楽しさの痕跡が、消しゴムで消されたように。
人々の記録は、まだそこにある。母親が子供を見守る姿勢、子供が砂場で城を作る手つき。でも、それはただの形。マネキンよりも生気がない。
記録が消滅したわけではない。ただ、そこから温もりだけが失われてしまっていた。
「ひどい……」
美咲ちゃんが息を呑む。彼女の《修復者》の瞳が、虹色に震えている。
「痛みが……記録たちの痛みが、直接伝わってきます」
美咲ちゃんが膝をつく。あまりの苦痛に、顔が青ざめている。
「美咲ちゃん!」
私は慌ててメモ帳を確認する。『美咲ちゃん=後輩、修復者』と走り書きがある。そうか、この子は私の大切な後輩なんだ。
「大丈夫です……でも、この場所の記録たちは、心を失ったことを、自覚しているみたい……」
時計塔から通信で参加しているセピアの声が、ブレスレットを通して悔しそうに響く。
『終焉の記録者の呪いが、まだこの世界を蝕んでいるというのか……』
セピアの声にも、苦痛が滲んでいる。世界と一体化した彼には、この褪色が直接的な痛みとして伝わっているのだろう。
私は急いでメモに追記する。 『セピアは世界と一体化している。時計塔から出られない』
「システムの詳細スキャンを開始します」
ミルが冷静に、しかし焦りを隠せない様子で分析を始める。瞳の回路が高速で明滅し、データの奔流が流れていく。
「ミル……」
私はメモを見る。『ミル(銀髪の女の子・AI)』。そう、彼女は私の大切な仲間。AIだけど、誰よりも人間らしい心を持っている。
空中に展開されるウィンドウ。赤い警告表示が次々と現れては消える。
「ウイルスや外部からの攻撃ではありません……」ミルの声が震える。「まるで、世界そのものが生きることをやめてしまったような……一種の、記録うつ状態です」
「記録が、うつ状態?」
「はい。生きる意味を見失った人間のように、記録たちが自ら色を手放している」
その時、美咲ちゃんが祈るように一歩前に出た。
「私、やってみます!」
彼女の全身から、温かいオレンジ色の光が溢れ出す。まるで、朝日のような優しい輝き。
光が色褪せたブランコに触れる。
一瞬、錆びついていた鎖が微かに輝きを取り戻した。赤い座面に、ほんの少しだけ色が戻る。
でも、それだけだった。
次の瞬間、色は再び抜け落ちていく。まるで、水に溶けるように。
「ダメ、です……」美咲ちゃんが悔しそうに唇を噛む。「傷は癒せても、失われた心を、もう一度灯すことは……」
どうすればいいんだろう。
記憶を失う前の「私」なら、こんな時、どうしたんだろう。
焦りと、自分の不甲斐なさに、胸が押しつぶされそうになる。
「ユイ」
セピアの優しい声が、心に直接響いた。
『無理に過去を思い出そうとしなくていい。君は、君のままでいいんだ』
「そうです、ユイ」ミルも頷く。「以前のあなたの力は、あなたの膨大な記憶と記録への愛情から生まれていました」
ミルが私の手を取る。冷たいはずの手が、今は温かい。
「ですが、今のあなたには、過去の記憶がない代わりに、誰よりも強く、純粋な『今』があります」
「私の、『今』……」
私は、目の前の光景を、そして仲間たちの顔を、もう一度見つめた。
心配そうに私を見つめるミル。瞳の回路が、不安を示す青い光で揺れている。
悔しさに涙を浮かべる美咲ちゃん。拳を握りしめ、下唇を噛んでいる。
通信の向こうで、固唾を飲んで見守るセピアと立花先輩。
記憶はない。
でも、この人たちが、私にとってかけがえのない存在だということは、心が知っている。
理由は分からない。根拠もない。でも、確かに感じる。
この人たちの悲しい顔は、見たくない。
私は、首から下げた愛用のカメラを、ぎゅっと握りしめた。




