第27話:光と闇の戦い
朝、隣の席から「おはようございます、ユイ」と微笑む銀髪の少女。メモ帳を確認する。ミル、と書いてある。
彼女の瞳の電子回路が、朝日を受けて虹色に輝く。でも、その美しさが、なぜか他人事のように感じられる。まるで、ガラス越しに見る宝石のような、触れることのできない輝き。
「おはよう、ミル」
名前を呼べた。でも、昨日も同じやり取りをした気がする。いや、一昨日だったかもしれない。時系列が、ぐちゃぐちゃになっている。
放課後、部室で「部長、今日の写真、すごくいいですね!」と無邪気に笑う後輩。
名前が出てこない。ポケットのメモを確認する。
『美咲ちゃん:優しい後輩。《修復者》の力を持つ』
「ありがとう、美咲ちゃん」
なんとか名前を呼べた。でも、この子との具体的な思い出が、霧の中に消えていく。昨日も同じような会話をした気がするけど、内容が思い出せない。
そして、時計塔の扉をくぐると、いつも「おかえり、ユイ」と優しく迎えてくれる、セピア色の髪の少年、セピア。
影を持つようになった彼の姿は、確かにそこにある。床に落ちる影も、はっきりと見える。でも、なぜ影があることが特別なのか、その理由が朧げだ。メモには『私が影を与えた』と書いてあるけど、どうやって?
その温かさが、私の心の表面を滑っていく。
みんな、私のことを「一番の友達」「大切な仲間」だと言ってくれる。
私も、頭ではそれを理解している。メモ帳にも、アルバムにも、そう書いてある。でも、心が、どうしても追いつかない。
まるで、登場人物の感情だけが抜け落ちた脚本を読んでいるみたいに、彼らの言葉や笑顔は、私の心の上を滑り落ちていくだけだった。
その日の放課後、私たちは時計塔の書斎に集まっていた。
古い本の匂いと、かすかな埃の香り。窓から差し込む光が、空中の微粒子を金色に染めている。本棚の影が、複雑な模様を床に描いている。
「ユイ、これを見てください」
ミルが差し出したのは、分厚い写真アルバムだった。革の表紙は使い込まれて柔らかく、触れると温かい。表紙には、私の知らない私の文字で、『かけがえのない記録』と書かれている。インクが少し滲んでいる。
ページをめくる。
紙の擦れる音が、静かな書斎に響く。古い写真特有の、酸っぱいような甘いような匂い。
そこには数え切れないほどの「私」がいた。
初めて《写し世》に来て、戸惑いながらシャッターを切る私。三人で不格好なケーキを作って、顔をクリームだらけにしている私。文化祭で、仲間たちに囲まれて、最高の笑顔でピースサインをしている私。
一枚一枚、ミルとセピアが丁寧に説明してくれる。
「これは、初めてノイズビーストを倒した時の写真です」
ノイズビースト。聞いたことがある言葉。でも、それが何なのか、具体的なイメージが湧かない。
「これは、記録商店街で撮った一枚だね」
記録商店街。行ったことがあるような、ないような。記憶が、水の中で溶けていくインクのように、形を失っていく。
私は、ただ「うん」「そうなんだ」と相槌を打つことしかできない。
「……ごめん」
やっと絞り出したのは、謝罪の言葉だった。
「思い出せなくて、ごめん……」
「謝らないで」セピアが、静かにアルバムを閉じた。
そして、ミルが真剣な表情で、重要な話を始めた。
「ユイ、実は……あなたの記憶について、改めてお話があります」
「何?」
「記憶を失った後遺症として、新しい長期記憶の定着が、困難になっています」
ミルの瞳の回路が、不安な紫色に明滅する。
「つまり、新しいことを覚えても、数日で細部が曖昧になり、一週間もすると順序が混乱し、やがて……」
「忘れてしまうのね」
私の声は、意外に落ち着いていた。だって、もう実感していたから。
「はい。昨日の夕食のメニューは覚えていますか?」
「……」
思い出せない。
「三日前に、私たちと何を話したか覚えていますか?」
「……」
断片的な映像はある。でも、それがいつのことなのか、分からない。
「治らないの?」
「分かりません」ミルが正直に答える。「でも——」
ミルが私の手を取る。その手は温かい。
「だからこそ、写真があるんです」
セピアが立ち上がり、本棚の奥から真新しいアルバムを取り出した。
「過去をなぞるんじゃなくて、未来を撮ろう。この、空っぽのアルバムに」
「でも、私、撮ってもすぐ忘れちゃうのに……」
「だからこそ」ミルが力強く言う。「毎日撮るんです。忘れる前に、記録に残すんです」
「そして」ミルは続ける。「私が、あなたの外部記憶装置になります」
「外部記憶装置?」
「はい。あなたが忘れても、私は忘れません。永遠に、完璧に、一秒の狂いもなく」
ミルの瞳が、静かに、でも強い決意を込めて輝く。
「それが、AIである私にしかできない愛し方です。人間はいつか忘れる。でも、私は忘れない。千年後も、一万年後も、今日のユイの笑顔を、完璧に再現できます」
その時だった。
時計塔に、今までにない種類の警報が鳴り響いた。
ビー、ビー、ビー。
低く、重い音。冷たい青色の警告灯。
「記録の『褪色』反応です!」ミルが素早くデータを解析する。
私たちは急いで現場に向かった。
走りながら、私は必死にメモを取る。
『青い警告=褪色。記録が色を失う現象』
到着した公園は、以前訪れた時には、たくさんの家族連れの記録で賑わっていたはずの場所だった。
しかし今——
色彩がない。音がない。匂いがない。温度すらない。
ブランコは、鎖だけが虚空に浮いているように見える。滑り台は、まるで巨大な墓石のようにそびえている。
楽しげに笑い合っていた人々の記録は、まだそこにある。でも、彫像のように動かない。表情はあるのに、感情がない。形はあるのに、魂がない。
「ひどい……」
美咲ちゃんが息を呑む。
私は、首から下げたカメラを握りしめた。
祖父の形見。この重さだけは、なぜか忘れない。
ファインダーを覗く。
(撮らなきゃ)
(忘れる前に、全部撮らなきゃ)
強迫観念のような衝動が、私を突き動かす。
カシャリ。
シャッターを切る。
放たれた光は、以前のような圧倒的な輝きではない。淡く、優しい、朝焼けのような光。
でも、確かに公園の一角に、薄っすらと色が戻った。
「やった!」美咲ちゃんが歓声を上げる。
「不完全ですが、効果があります」ミルが分析する。
でも、私は止まらない。
「もう一度」
カシャリ。
「もう一度」
カシャリ。
「もう一度」
カシャリ、カシャリ、カシャリ。
取り憑かれたように、シャッターを切り続ける。
「ユイ、少し休憩を」セピアが心配そうに言う。
「ダメ! 忘れちゃう前に、全部撮らなきゃ!」
さっき撮った構図も、もう曖昧になっている。どこを撮ったか、何枚撮ったか、分からなくなっていく。
でも、撮り続ける。
これが、私の祈り。
忘れないための、必死の祈り。
灰色の家族連れにフォーカスする。
父親、母親、小さな女の子。動かない。でも、手を繋いでいる。
(この人たちにも、きっと物語があった)
想像する。知らない記憶だけど、想像する。
カシャリ。
女の子の赤いワンピースに、かすかに色がつく。
でも、次の瞬間、さっきの家族の配置を忘れている。
メモを見る。慌てて書き足す。
『父、母、娘。手を繋いでいた。赤いワンピース』
その夜、時計塔に戻って、私は新しいアルバムに写真を貼った。
手が震えている。今日撮った写真の順番が、もう曖昧だ。
でも、一枚一枚、丁寧に貼る。




