表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/44

第25話:決戦前夜

声を出そうとして、喉がカラカラなことに気づく。砂漠を歩いた後のような渇き。舌が上顎に張り付いて、うまく動かない。


どれくらい眠っていたんだろう。


体を起こそうとすると——


「!」


隣に誰かがいた。


銀髪の少女が、ベッドサイドの椅子で眠っている。


ツインテールが乱れて、髪が顔にかかっている。頬には涙の跡。光の筋が、乾いた塩の結晶となって残っている。手には、しわくちゃになったハンカチ。青いチェック柄。何度も何度も握りしめたのだろう、布地がよれよれになっている。


泣き疲れて、そのまま眠ってしまったような姿勢。首が不自然な角度に曲がっていて、起きたら痛くなりそうだ。


その向こうには、セピア色の髪の少年が立っている。


影がある。


床に、はっきりと影が落ちている。長い影。夕日の角度から、もう何時間もそこに立っているのが分かる。


彼は窓の外を見つめていたが、私が動いた気配を感じて振り返った。


琥珀色の瞳が、悲しみを湛えて私を見つめる。その瞳の奥に、言葉にできない何かが渦巻いている。安堵、悲しみ、そして深い愛情。


知らないはずの二人。


でも、どうしてだろう。


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。


涙が、勝手に溢れてくる。頬を伝い、枕を濡らす。温かい。なぜ泣いているのか、自分でも分からない。


でも、この涙は本物だ。


「気がつきましたか?」


銀髪の少女が目を覚ます。寝ぼけた顔から、一瞬で覚醒する。


赤く腫れた瞳が、私を見つめる。泣きすぎて、まぶたが腫れぼったい。


その声は震えていた。希望と絶望が入り混じった、複雑な響き。まるで、奇跡を見ているような、でも奇跡を失うことを恐れているような。


「あなたは……誰?」


私の一言で——


少女の顔が、崩れた。


表情が、まるでガラスが割れるように、少しずつひび割れていく。唇が震え、目が見開かれ、そして——


堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。


「やっぱり……忘れちゃったんですね……」


少女が両手で顔を覆う。指の間から、涙が止まらない。


肩が震えている。嗚咽を堪えようとして、でも堪えきれない。小さなしゃくり上げる音が、静かな医務室に響く。


「ごめんなさい……誰か、分からなくて……」


私も泣いていた。


理由は分からない。


でも、この人たちを泣かせてしまったことが、たまらなく悲しい。まるで、世界で一番大切なものを壊してしまったような、取り返しのつかない罪を犯してしまったような、そんな感覚。


少年が近づいてきて、優しく言った。


「私はミル。あなたの、一番の友達です」


ミルという名前。聞いたことがない。でも、なぜか懐かしい響き。舌の上で転がすと、甘い味がするような、不思議な感覚。


「僕はセピア。君の、大切な仲間だよ」


セピアという名前。これも知らない。でも、心臓が反応する。ドクンと大きく脈打つ。


一番の友達。


大切な仲間。


その言葉が、記憶のない私の心に、不思議な温もりと、そして鋭い痛みを同時に運んでくる。


「私たち、友達だったの?」


「はい」ミルが涙を拭いながら頷く。「最高の、友達でした」


ミルが震える手で、一冊のアルバムを取り出した。


革の表紙、使い込まれた質感。角が擦れて、色が薄くなっている。大切に扱われてきたことが分かる。表紙には、私の知らない私の文字で『かけがえのない記録』と書かれている。


「これを、見てください」


ページをめくる。紙の擦れる音。古い写真特有の、酸っぱいような甘いような匂い。


そこには——


私だった。


でも、今の私じゃない。


もっと生き生きとした、幸せそうな私。瞳が輝いている。笑顔が、心の底から湧き上がっている。


そして、その周りには——


ミル、セピア、眼鏡をかけた女性、元気そうな女の子。


みんなで肩を寄せ合って、最高の笑顔で笑っている。誰かがウサギの耳のポーズを後ろでしていて、それに気づいた別の誰かが笑いを堪えている。自然な、飾らない、本物の笑顔。


私が中心にいて、みんなが私を囲んでいる。


まるで、家族みたいに。


「これが……私?」


声が震える。


写真の中の私は、本当に幸せそうだ。こんな顔ができる人だったんだ、私は。


「はい」セピアが静かに言う。「君は、私たちのリーダーで、一番大切な人だった」


「リーダー……」


その言葉の重さに、押し潰されそうになる。


(こんな素晴らしい人たちのリーダーだった私)


(でも、今の私は何も覚えていない)


(あの頃の私には、もう戻れない)


そして、何より信じられなかったのは——


セピアが、写真の中で、確かな輪郭と、地面に落ちる濃い影を持って、そこに存在していたことだ。


「あなたは、影が……」


「うん」セピアが少し照れたように微笑む。「君のおかげで、僕は完全な存在になれたんだ」


「私の、おかげ?」


「はい」ミルが説明を始める。「あなたは、私たちと、この世界を救ってくれたんです」


ミルが、ゆっくりと語り始める。


《写し世》のこと。


私が写し手だったこと。


みんなで戦ったこと。


記録解放戦線のこと。


終焉の記録者のこと。


そして——


「その代償に……始まりの記憶をすべて失ったんです」


ミルの声が、また震える。瞳の回路が、悲しみの青に染まる。


「でも、それだけじゃありません」


ミルが言いにくそうに続ける。


「医療スキャンの結果、あなたの脳に特殊な変化が起きています」


「変化?」


「新しい長期記憶の定着が……困難になっているんです」


私の顔から、血の気が引いた。


「どういうこと?」


「つまり」ミルが慎重に言葉を選ぶ。「新しいことを覚えても、時間が経つと細部が曖昧になり、順序が混乱し、最終的には……」


「忘れてしまう」


セピアが静かに言葉を継いだ。


「完全に忘れるわけじゃない。でも、霧の中で物を見るように、輪郭だけが残って、詳細が失われていく」


私は写真を見つめる。


記憶は、ない。


何も思い出せない。


この幸せそうな笑顔も、仲間との絆も、戦いの記憶も、すべてが他人事のように感じる。


そして、これから作る新しい記憶も、やがて同じように霧の中に消えていく。


でも——


魂が覚えている。


この人たちは、私が命を懸けてでも守りたかった、かけがえのない存在なのだと。


それは理屈じゃない。もっと深い、存在の根幹に刻まれた真実。


涙が、自然と溢れてきた。


「思い出せない……ごめんなさい……っ」


手で顔を覆う。


悔しい。


こんなに大切な人たちのことを、忘れてしまった自分が。


そして、これからも忘れ続ける自分が。


写真の中の私は、あんなに幸せそうなのに。


「あの頃のユイは、もっと強くて、優しくて……」


ミルが言いかけて、口をつぐむ。


(そうだよね。前の私の方が、ずっと素晴らしかったんだ)


劣等感が、胸を蝕む。


「謝らないで」


セピアが優しく私の手を握る。


その手は、驚くほど温かかった。そして、確かな重みがあった。本当に影を持つようになったんだ。


「これから、また始めればいい。今度は、私たちが君に思い出を伝えていく番だ」


ミルも、泣きながら、でも力強く微笑んだ。


「はい。これから毎日、私たちのことをお話しします」


ミルが私の手を取る。冷たいと思っていた手が、温かい。


「朝食の作り方も、写真の撮り方も、全部また一緒に」


「私たちがどれだけユイを大好きか、一から全部、伝えますから」


ミルの瞳が、虹色に輝く。希望の色。


「何度忘れても、何度でも」


そして、ミルが真剣な表情で付け加えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ