第25話:決戦前夜
声を出そうとして、喉がカラカラなことに気づく。砂漠を歩いた後のような渇き。舌が上顎に張り付いて、うまく動かない。
どれくらい眠っていたんだろう。
体を起こそうとすると——
「!」
隣に誰かがいた。
銀髪の少女が、ベッドサイドの椅子で眠っている。
ツインテールが乱れて、髪が顔にかかっている。頬には涙の跡。光の筋が、乾いた塩の結晶となって残っている。手には、しわくちゃになったハンカチ。青いチェック柄。何度も何度も握りしめたのだろう、布地がよれよれになっている。
泣き疲れて、そのまま眠ってしまったような姿勢。首が不自然な角度に曲がっていて、起きたら痛くなりそうだ。
その向こうには、セピア色の髪の少年が立っている。
影がある。
床に、はっきりと影が落ちている。長い影。夕日の角度から、もう何時間もそこに立っているのが分かる。
彼は窓の外を見つめていたが、私が動いた気配を感じて振り返った。
琥珀色の瞳が、悲しみを湛えて私を見つめる。その瞳の奥に、言葉にできない何かが渦巻いている。安堵、悲しみ、そして深い愛情。
知らないはずの二人。
でも、どうしてだろう。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。
涙が、勝手に溢れてくる。頬を伝い、枕を濡らす。温かい。なぜ泣いているのか、自分でも分からない。
でも、この涙は本物だ。
「気がつきましたか?」
銀髪の少女が目を覚ます。寝ぼけた顔から、一瞬で覚醒する。
赤く腫れた瞳が、私を見つめる。泣きすぎて、まぶたが腫れぼったい。
その声は震えていた。希望と絶望が入り混じった、複雑な響き。まるで、奇跡を見ているような、でも奇跡を失うことを恐れているような。
「あなたは……誰?」
私の一言で——
少女の顔が、崩れた。
表情が、まるでガラスが割れるように、少しずつひび割れていく。唇が震え、目が見開かれ、そして——
堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「やっぱり……忘れちゃったんですね……」
少女が両手で顔を覆う。指の間から、涙が止まらない。
肩が震えている。嗚咽を堪えようとして、でも堪えきれない。小さなしゃくり上げる音が、静かな医務室に響く。
「ごめんなさい……誰か、分からなくて……」
私も泣いていた。
理由は分からない。
でも、この人たちを泣かせてしまったことが、たまらなく悲しい。まるで、世界で一番大切なものを壊してしまったような、取り返しのつかない罪を犯してしまったような、そんな感覚。
少年が近づいてきて、優しく言った。
「私はミル。あなたの、一番の友達です」
ミルという名前。聞いたことがない。でも、なぜか懐かしい響き。舌の上で転がすと、甘い味がするような、不思議な感覚。
「僕はセピア。君の、大切な仲間だよ」
セピアという名前。これも知らない。でも、心臓が反応する。ドクンと大きく脈打つ。
一番の友達。
大切な仲間。
その言葉が、記憶のない私の心に、不思議な温もりと、そして鋭い痛みを同時に運んでくる。
「私たち、友達だったの?」
「はい」ミルが涙を拭いながら頷く。「最高の、友達でした」
ミルが震える手で、一冊のアルバムを取り出した。
革の表紙、使い込まれた質感。角が擦れて、色が薄くなっている。大切に扱われてきたことが分かる。表紙には、私の知らない私の文字で『かけがえのない記録』と書かれている。
「これを、見てください」
ページをめくる。紙の擦れる音。古い写真特有の、酸っぱいような甘いような匂い。
そこには——
私だった。
でも、今の私じゃない。
もっと生き生きとした、幸せそうな私。瞳が輝いている。笑顔が、心の底から湧き上がっている。
そして、その周りには——
ミル、セピア、眼鏡をかけた女性、元気そうな女の子。
みんなで肩を寄せ合って、最高の笑顔で笑っている。誰かがウサギの耳のポーズを後ろでしていて、それに気づいた別の誰かが笑いを堪えている。自然な、飾らない、本物の笑顔。
私が中心にいて、みんなが私を囲んでいる。
まるで、家族みたいに。
「これが……私?」
声が震える。
写真の中の私は、本当に幸せそうだ。こんな顔ができる人だったんだ、私は。
「はい」セピアが静かに言う。「君は、私たちのリーダーで、一番大切な人だった」
「リーダー……」
その言葉の重さに、押し潰されそうになる。
(こんな素晴らしい人たちのリーダーだった私)
(でも、今の私は何も覚えていない)
(あの頃の私には、もう戻れない)
そして、何より信じられなかったのは——
セピアが、写真の中で、確かな輪郭と、地面に落ちる濃い影を持って、そこに存在していたことだ。
「あなたは、影が……」
「うん」セピアが少し照れたように微笑む。「君のおかげで、僕は完全な存在になれたんだ」
「私の、おかげ?」
「はい」ミルが説明を始める。「あなたは、私たちと、この世界を救ってくれたんです」
ミルが、ゆっくりと語り始める。
《写し世》のこと。
私が写し手だったこと。
みんなで戦ったこと。
記録解放戦線のこと。
終焉の記録者のこと。
そして——
「その代償に……始まりの記憶をすべて失ったんです」
ミルの声が、また震える。瞳の回路が、悲しみの青に染まる。
「でも、それだけじゃありません」
ミルが言いにくそうに続ける。
「医療スキャンの結果、あなたの脳に特殊な変化が起きています」
「変化?」
「新しい長期記憶の定着が……困難になっているんです」
私の顔から、血の気が引いた。
「どういうこと?」
「つまり」ミルが慎重に言葉を選ぶ。「新しいことを覚えても、時間が経つと細部が曖昧になり、順序が混乱し、最終的には……」
「忘れてしまう」
セピアが静かに言葉を継いだ。
「完全に忘れるわけじゃない。でも、霧の中で物を見るように、輪郭だけが残って、詳細が失われていく」
私は写真を見つめる。
記憶は、ない。
何も思い出せない。
この幸せそうな笑顔も、仲間との絆も、戦いの記憶も、すべてが他人事のように感じる。
そして、これから作る新しい記憶も、やがて同じように霧の中に消えていく。
でも——
魂が覚えている。
この人たちは、私が命を懸けてでも守りたかった、かけがえのない存在なのだと。
それは理屈じゃない。もっと深い、存在の根幹に刻まれた真実。
涙が、自然と溢れてきた。
「思い出せない……ごめんなさい……っ」
手で顔を覆う。
悔しい。
こんなに大切な人たちのことを、忘れてしまった自分が。
そして、これからも忘れ続ける自分が。
写真の中の私は、あんなに幸せそうなのに。
「あの頃のユイは、もっと強くて、優しくて……」
ミルが言いかけて、口をつぐむ。
(そうだよね。前の私の方が、ずっと素晴らしかったんだ)
劣等感が、胸を蝕む。
「謝らないで」
セピアが優しく私の手を握る。
その手は、驚くほど温かかった。そして、確かな重みがあった。本当に影を持つようになったんだ。
「これから、また始めればいい。今度は、私たちが君に思い出を伝えていく番だ」
ミルも、泣きながら、でも力強く微笑んだ。
「はい。これから毎日、私たちのことをお話しします」
ミルが私の手を取る。冷たいと思っていた手が、温かい。
「朝食の作り方も、写真の撮り方も、全部また一緒に」
「私たちがどれだけユイを大好きか、一から全部、伝えますから」
ミルの瞳が、虹色に輝く。希望の色。
「何度忘れても、何度でも」
そして、ミルが真剣な表情で付け加えた。




