第24話:セピアの覚悟
美咲ちゃんが指示通りに動く。触手が空を切る。紙一重。
「今です!」
ミルの展開する防御壁が、一瞬だけ影の動きを止めた。
ガラスが砕けるような音。でも、持ちこたえる。
私はカメラを構える。
ファインダーを覗く。
でも——
脳裏に声が響く。
(この一撃を放てば、また記憶が消えるぞ)
(次に失うのは、何の記憶だ?)
(仲間の名前か? 顔か? それとも、自分が誰なのかさえ忘れるか?)
一瞬、指がためらう。
シャッターボタンが、異様に重く感じる。
恐怖が、全身を縛り付ける。
でも——
仲間たちの顔を見る。
必死に戦っている、大切な人たち。
美咲ちゃんが祈っている。ミルが歯を食いしばって防御壁を維持している。立花先輩が的確な指示を出し続けている。
(私にはもう、失うことを恐れている時間なんてない!)
「長時間露光、最大出力!」
シャッターを開く。
私の記憶を感光剤にして、光を集める。
カメラが熱くなる。レンズが割れそうな音を立てる。金属が軋む。
そして、私の中から、何かが流れ出していく。
小学校の入学式の記憶が消える。
初めて自転車に乗れた日の記憶が消える。
でも、撃つ。
カシャリ!
光の奔流が、影を貫く。
「ぐ……おおおっ!」
影が初めて、大きくよろめいた。
『なぜだ……なぜ、記憶を失うことを恐れない!』
「失っても、また作ればいいから!」
私は叫ぶ。涙が頬を伝う。
「仲間がいれば、何度だって!」
『……愚かな』
影の体から、さらに濃い闇が溢れ出す。
それは、もはや影ではなかった。
存在そのものの否定。
すべてを無に還す、究極の虚無。
光さえも吸い込む、絶対的な闇。
『ならば、世界そのものを喰らうまで』
影が、二つの世界そのものを吸収し始めた。
空が落ちてくる。
大地が浮き上がる。
上下左右の概念が失われ、私たちの足元から無に還っていく。
重力が狂い、体が浮き上がる。いや、世界そのものが崩れている。
「もう、ダメか……」
立花先輩が膝をつく。
ミルの防御壁も、限界だ。ひび割れ、砕け、消えていく。
美咲ちゃんの光も、闇に飲み込まれそうになっている。
その時——
私の心に、直接セピアの声が響いた。
『ユイ、諦めないで』
「セピア……!」
『僕も一緒に戦う。この世界の柱として、僕のすべてを君の力に変える!』
セピアのいる《アーカイブ》の中枢から、温かい光が流れ込んでくる。
それは、純粋な記録のエネルギー。
世界を支える、根源的な力。
私のカメラが、金色に輝き始める。
でも、まだ足りない。
終焉の力が、あまりにも強すぎる。
どうすれば……。
その時、私は理解してしまった。
この世界を救う、本当に最後の方法を。
カメラを取り出す。
フィルムの、最後の一枚。
36枚撮りの、最後の一枚。
これを撮るには、最高の感光剤が必要だ。
悲しみも、喜びも、出会いも、別れも、そのすべてを焼き付けられる、究極の記憶が。
私の、一番大切な記憶。
私の脳裏に、その記憶が鮮明に蘇る。
——廃鉱山で、初めてファインダー越しにセピアを見た瞬間。
琥珀色の瞳。影のない不思議な存在。「お願い、僕を写して」という切実な声。
——時計塔で、ミルが初めて「美味しい」と言ってくれた朝。
効率しか考えなかったAIが、初めて感情を理解した瞬間。あの驚きと喜びの表情。
——三人で写真館に行った日。
セルフタイマーでの記念撮影。ぎこちない笑顔。でも、確かにそこにあった温もり。
すべての始まり。
私がここにいる理由。
私が私である、根源的な記憶。
『ユイ、ダメだ! それを失ったら、僕たちのことを!』
セピアの悲痛な叫びが聞こえる。
「ユイ、やめてください! それだけは!」
ミルの泣き声も。瞳から涙が溢れている。
「部長! お願い、やめて!」
美咲ちゃんの懇願も。
でも——
私は決めた。
これは、誰かに強制されたわけじゃない。
私自身の、選択だ。
私は涙で歪むファインダーを覗きながら、静かに微笑んだ。
「大丈夫」
声が、不思議と落ち着いている。
「たとえ私が忘れても、みんなが覚えていてくれるでしょ?」
仲間たちを見る。
泣いている。みんな、泣いている。
「そしたら、また、きっと友達になれるから」
ありがとう、ミル。
私に心の温かさを教えてくれて。
ありがとう、セピア。
私に居場所をくれて。
ありがとう、美咲ちゃん、立花先輩。
私に、守りたい世界をくれて。
さようなら、私の、始まりの記憶。
でも、これは犠牲じゃない。
これは、私が選んだ、最高の一枚を撮るための、必要な選択。
「究極記録創造——」
シャッターボタンに指をかける。
最後の力を込めて。
「インフィニット・アーカイブ!」
カシャリ。
シャッターを切った瞬間——
世界が、止まった。
音が消える。
色が消える。
すべてが、一枚の写真の中に収束していく。
ファインダー越しに見えたのは、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、私を信じてくれる仲間たちの顔だった。
ああ、これが、私の撮りたかった写真。
最高の、最後の一枚。
フィルムに焼き付けられた私の始まりの記憶が、世界を救う光に変わっていくのを感じる。
光は螺旋を描きながら上昇し、影を包み込む。
終焉の影が、光に包まれて消えていく。
しかし——
完全には消えない。
『覚えておくがいい』
消えゆく影が、最後に呟く。
『記憶は呪縛。その真理は、永遠に変わらない』
『いつか、また……』
『私の一部は、世界のどこかに必ず残る』
影は消えた。
でも、その言葉は、世界のどこかに、小さな棘として残った。
呪いの残滓。
完全には払拭できない、疑念の種。
二つの世界が、正しい形で分離していく。
崩壊が止まる。
そして——
私の意識も、ゆっくりと、暗闇に沈んでいく。
もう、怖くない。
みんながいるから。
たとえ忘れても、きっとまた——
最後に見えたのは、ミルとセピアの顔だった。
二人とも、泣きながら、私の名前を呼んでいる。
「ユイ! ユイ!」
でも、もう声は聞こえない。
ただ、温かい光に包まれて——
(みんな、また会おうね)
(今度は、もっといい写真を撮るから)
私の意識は、安らかな満足感と共に、静かに途切れた。
世界は救われた。
でも、完璧じゃない。
呪いの残滓は、どこかに潜んでいる。
それでも、今は——
光が、勝った。
目が覚めると、私は時計塔の医務室のベッドにいた。
天井が見える。木目の模様が、ゆらゆらと揺れている。いや、揺れているのは私の視界か。古い木材の節目が、まるで誰かの顔のように見えて、すぐに崩れて、また別の形になる。
鼻腔に消毒液の匂い。でも、それだけじゃない。ラベンダーの香りもする。誰かが、私のために芳香剤を置いてくれたのか。シーツの肌触りは柔らかくて、洗い立ての布地の清潔な香り。点滴の針が腕に刺さっている鈍い痛み。冷たい液体が、血管を通って体に流れ込む感覚。
五感が、少しずつ戻ってくる。
窓から差し込む光。
以前のモノクロではなく、温かい色彩を帯びている。オレンジ色の夕日が、部屋を優しく照らしている。光の粒子が、空中でゆらゆらと踊っている。埃のようでもあり、記録の欠片のようでもある。
世界の崩壊は、本当に止まったんだ。
でも、何か大切なものと引き換えに。
「……あれ?」




