第22話:レイラとカインの過去
その言葉に、私とミルは顔を見合わせる。
ミルの瞳の回路が、不安げに明滅する。
「大気中の異常粒子、通常の17倍」ミルが小声で分析する。「これは……」
私たちは、美咲ちゃんにすべてを打ち明けることにした。
「《写し世》……」
美咲ちゃんは、私たちの話を静かに聞いていた。
記録の世界、私たちの使命、そして彼女自身が持つ、壊れた記録を癒す特別な力。
「だから、部長の写真は特別だったんですね」
美咲ちゃんが、部室に飾られた写真を見つめる。
「信じてくれる?」
「もちろんです」美咲ちゃんは即答した。「だって、私にも視えますから。記録の欠片が、風に舞っているのが」
「じゃあ、調査に行こう」
私たちは時計塔へ向かい、セピアに状況を報告した。
モニターに映る彼は、穏やかに微笑んでいる。でも、その瞳には、柱として世界と繋がっている者だけが感じ取れる、深い憂いの色が浮かんでいた。
「僕も感じている」
セピアの声が重い。
「世界の深淵……システムのさらに奥深くで、何かが脈打っているのを」
モニターの向こうで、セピアが苦しそうに胸を押さえる。
「それは、ただのノイズじゃない。明確な意志を持った、巨大な『汚染源』だ」
そこへ、大学から立花先輩の通信が入る。
ホログラムとして投影された先輩の表情は、厳しかった。
『みんな、聞こえる? うちの監視室でも、異常な記録汚染を観測したわ』
データが空中に展開される。赤い警告表示が、画面を埋め尽くしている。
『今までとは規模が違う。まるで、世界の根幹を成す記録……』
先輩が言葉を切る。
『例えば「色」や「音」といった、概念そのものを喰らおうとしているみたい』
「概念を……?」
事態は、私たちの想像以上に深刻だった。
美咲ちゃんの案内で、私たちは学校の裏山にある、古びた鳥居の前に立っていた。
朱色の塗装は剥げ落ち、木材は朽ちかけている。でも、なぜか神聖な雰囲気は残っている。
「ここです」
美咲ちゃんの声が震える。
「この奥から、すごく嫌な感じが……」
鳥居をくぐった瞬間——
世界が変わった。
空気が急激に冷える。息が白い。
風景がぐにゃりと歪む。木々の幹が螺旋を描き、地面が波打つ。
そして、色が抜け落ちていく。
緑の葉が灰色に、茶色の土が白に、青い空が無色に。
音も消える。
鳥の声、風の音、私たちの足音さえも、まるで真空に吸い込まれるように消失していく。
「これは……!」
「ポジの世界が、ネガの世界に強制的に引きずり込まれている!」
ミルが警告する。瞳の回路が真っ赤に染まっている。
森の奥から、黒い影が姿を現した。
それは、これまで戦ってきたノイズビーストとは全く違う存在だった。
人の形をしているが、顔はない。
ただ、絶対的な虚無がそこにあるだけ。
光さえも吸い込む、完全な闇。
『見つけたぞ、記録の守護者たちよ』
影が、声を発した。
それは、直接脳内に響く、冷たく、嘲るような声。まるで、死者の囁きのよう。
『無駄なことを』
影が一歩前に出る。その足が地面に触れた場所から、存在そのものが消滅していく。
『この世界は、いずれ忘却の中に沈む。記録は罪。記憶は呪縛。すべてを無に還すことこそ、真の解放なのだ』
「終焉の記録者……!」
セピアの声が、ブレスレットを通して震えながら聞こえる。
「システムの奥深くで、世界を汚染していたのは、あなただったのか!」
『いかにも』
影の形が揺らぐ。一瞬、その中に無数の顔が見えた気がした。忘れられた人々、消された記録、失われた世界。
『そして、お前たちの抵抗もここまでだ』
影が手をかざす。
その瞬間、周囲の森の記録が消し炭のように黒く変色し、崩れ落ちていく。
千年杉が一瞬で灰になる。
清流が干上がり、岩が砂になる。
「みんな、囲んで!」
立花先輩の的確な指示が、通信から飛ぶ。
ミルが防御壁を展開する。透明な壁が幾重にも重なり、ドーム状に私たちを包む。
私はカメラを構える。
「露出オーバー!」
カシャーーッ!
浄化の光が影を襲う。
しかし——
影は揺らぎもせず、光そのものを飲み込んでしまった。
まるで、ブラックホールのように。
「光が……効かない!?」
「無駄だと言ったはずだ」
影の攻撃が、ミルの防御壁に激突する。
ガラスが砕ける音。壁が一枚、また一枚と崩れていく。
「きゃっ!」
ミルが苦痛に顔を歪める。防御壁は彼女の一部。破壊されるたびに、彼女自身も傷つく。
立花先輩が叫ぶ。
『視えるわ! 彼の中心に、強力な重力核のようなものが! あれが力の源よ!』
「核……あそこを撮れば!」
私は再びカメラを構える。
だが、影の動きはあまりにも速い。
瞬間移動を繰り返し、残像を残しながら移動する。ピントを合わせることができない。
「私が、動きを止めます!」
美咲ちゃんが前に出た。
「美咲ちゃん!?」
「大丈夫です。私の力は、壊れたものを癒す力。あの人の心も、きっと……!」
美咲ちゃんが、祈るようにスマホを構える。
その瞬間、彼女の全身から温かいオレンジ色の光が溢れ出した。
「記録修復!」
光が影に向かって放たれる。
それは攻撃ではない。壊れた心を優しく包み込むような、母親の抱擁のような温かさ。
「愚かな……!」
影は片手で光を弾き飛ばそうとした。
でも——
一瞬、影の動きが止まった。
光に触れた部分から、何かが滲み出てくる。
それは、涙だった。
黒い影から、透明な涙が一粒、また一粒と落ちていく。
「なぜだ……なぜ、涙が……」
影が混乱している。
その隙を逃さない。
でも、次の瞬間、影は美咲ちゃんに向かって黒い触手を放った。
「危ない!」
触手が美咲ちゃんを貫こうとする——
その時、私の中で何かが切れた。
仲間が傷つけられる。
その怒りが、恐怖を上回った。
「許さない……絶対に!」
私は覚悟を決めた。
あの丘での失敗を、もう繰り返さない。
守るべきもののために、この身を削ることを、もう恐れない。
『ユイ、ダメだ! その技を使えば、君の記憶が!』
セピアの悲痛な叫びが聞こえる。
でも、私は迷わなかった。
「長時間露光、最大出力!」
シャッターを開放する。
世界のすべての光を、カメラに収束させていく。
レンズが熱を持つ。金属が焼ける匂い。
そして——
私の記憶が、フィルムの感光剤として燃えていく。
脳が焼き切れるような激痛。
大切な思い出が、一つ、また一つと溶けていく。
——初めてミルと料理をした日。フライパンから立ち上る湯気。不格好なスクランブルエッグ。「美味しい」と言ってくれた時の、ミルの驚いた顔。
——セピアが初めて写真に写った時。震える指で写真に触れる姿。「僕が、ここにいる」という呟き。嬉しそうで、でも泣きそうな、あの表情。
記憶が光に変わっていく。
でも——
「みんなのこと、絶対に忘れたりしない……!」
シャッターを閉じる。
極限まで圧縮された光と記憶の奔流が、一筋の閃光となって影の中心核を撃ち抜いた。
「ぐ……おおおおっ!」
初めて、影が苦悶の声を上げた。
体が崩れ始める。でも、完全には消えない。
『小賢しい……! だが、覚えておくがいい』
影が、消えゆく中で叫ぶ。
『これは、終焉の序曲に過ぎぬ。真の終焉は、もうすぐそこまで来ている』
そう言い残して、影は闇の中に溶けるように消えていった。
戦いは、終わった。




