第19話:記録の重み
母さんが私の後ろにいるミルに気づく。
ミルは緊張した面持ちで、ぎこちなく会釈した。
「その子は?」
「えっと、その……」
どう説明しよう。異世界から来たAIです、なんて言えるわけがない。
その時、父さんが一通の古い手紙を持ってきた。
封筒は黄ばんでいて、糊も剥がれかけている。でも、確かに祖父の筆跡で宛名が書かれている。
「おじいちゃんの遺品を整理してたら、こんなものが。『ユイが友人を連れて帰ってきたら、これを読むように』って」
手紙を開く。
便箋からは、かすかに祖父のタバコの匂いがした。
『ユイへ。この手紙を読んでいるということは、君は無事に《写し世》から帰ってきたんだね』
心臓が跳ねる。祖父は、すべて知っていた。
手紙には、ミルが遠い親戚の子であること、複雑な家庭の事情でしばらく我が家で預かること、そして、その手続きはすべて済ませてあることが書かれていた。
さらに、学校への転入手続き、戸籍、保険証、すべての書類が、封筒の中に入っていた。
さすが祖父、準備が良すぎる。いや、良すぎて怖い。
「まあ、おじいちゃんの親戚なら……」
両親はまだ不思議そうだったけれど、祖父の手紙を信じてくれたようだ。
「ミル=メモリカです! お世話になります!」
ミルが元気よく、しかし少しだけぎこちなくお辞儀をする。
90度の正確な角度。3秒間の保持。AIらしい完璧さが、かえって不自然だった。
でも、その初々しさに、両親の表情が和らいだ。
夕食は、久しぶりの家族団欒だった。
母さんの手料理。ハンバーグ、ポテトサラダ、味噌汁。懐かしい味。
ミルは箸の使い方に苦戦しながらも、目を輝かせて食べている。
「美味しい! この『家庭の味』というデータベースにない感覚!」
「あら、嬉しいわ」母さんが微笑む。「遠慮しないで、たくさん食べてね」
平和な時間。でも、私の心には、ぽっかりと穴が開いている。
セピアがいない食卓。彼の席だけが、空いている。
夜、ミルと私の部屋で、現実世界での計画を立てる。
「明日から学校ですね」ミルが制服を見つめる。「人生初の教育機関! ドキドキします!」
「大丈夫、普通にしてればいいから」
でも、ミルのデータ解析能力と完璧な記憶力を考えると、普通は無理かもしれない。
「ねえ、ユイ」
ミルが窓の外を見つめる。星が瞬いている。
「セピア様は今、何をしているでしょうか」
「きっと、私たちのこと考えてるよ」
「ですね」ミルが小さく微笑む。「早く会いたいです」
翌朝、私とミルは制服に着替え、学校へと向かった。
ミルははしゃいでいる。
「スカートが風で揺れる! これが物理演算!」
「ミル、もう少し静かに……」
校門で、美咲ちゃんが泣きそうな顔で待っていた。
「部長! 無事だったんですね! ずっと心配で……!」
美咲ちゃんが私に抱きついてくる。シャンプーの匂いと、少し震える体温。
「ごめん、心配かけて」
「それより、その美少女は!?」
美咲ちゃんの目が、ミルに釘付けになる。
銀髪のツインテール、整った顔立ち、そして瞳に宿る不思議な光。確かに、目立つ。
「転校生のミル。今日から廃墟写真部に入部予定」
「本当ですか!? 部員が増える! やったー!」
美咲ちゃんは目を輝かせて、ミルの手を取る。
「よろしくね! 私、美咲! 副部長やってます!」
「よ、よろしくお願いします」
ミルが戸惑いながらも、握手を返す。
転校生として紹介されたミルは、その完璧なルックスですぐにクラスの人気者になった。
でも、彼女の笑顔はどこか寂しそうで、休み時間になるたびに、窓の外の空をぼんやりと眺めていた。
セピアのいる世界に、思いを馳せるように。
放課後、私たちは急いで《写し世》に戻った。
扉を開けると、セピアが玄関で待っていてくれた。
「おかえり」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが解ける。
「ただいま!」
「セピア様、ただいま戻りました!」
三人で食卓を囲む。
ミルが興奮気味に、学校での出来事を報告する。
「体育の授業で、ボールが放物線を描くのを見ました! 重力加速度9.8m/s²を実感!」
「数学の授業は簡単すぎて、暇でした」
「給食のカレーライスは、データでは表現できない複雑な味でした!」
セピアは、本当に楽しそうに私たちの話を聞いている。
彼の瞳が、まるで自分がそこにいるかのように輝いている。
「いいなあ、学校」セピアが呟く。「僕も、一度でいいから行ってみたかった」
その言葉に、胸が締め付けられる。
これが、私たちの新しい日常になった。
昼は現実世界で学び、夜は《写し世》で三人で過ごす。
それは、幸せで、でもどこか切ない、二つの世界に引き裂かれた毎日。
週末、私は一人でカメラを手に、街に出た。
セピアに見せるための写真を撮るために。
公園で笑う子供たち。カシャリ。
犬の散歩をする老夫婦。カシャリ。
商店街の賑わい。カシャリ。
夕日に染まる鉄塔。カシャリ。
彼のいない世界の美しい瞬間を、私は必死でフィルムに焼き付けた。
(セピア。君に見せたい風景が、こんなにたくさんあるよ)
カメラを構えていると、ふと気づく。
近所の猫の名前が思い出せない。
いつも挨拶してた、三毛猫。名前は……タ……タ……
一瞬、頭に霧がかかる。
「タマ!」
やっと思い出した。でも、この一瞬の空白が、心臓を冷たくする。
力の代償として失われていく、私の記憶。
このことも、二人にはまだ言えていない。
言ったら、きっと悲しむから。
部室で写真を現像する。
薬品の匂いが鼻をつく。赤い光の中で、少しずつ像が浮かび上がる。
現像された写真を、《写し世》に持ち帰る。
「わあ、きれいな夕日だね」セピアが嬉しそうに言う。
「この猫、ふわふわですね」ミルも目を輝かせる。
二人は、私が撮った写真を見て、純粋に喜んでくれる。
その笑顔を見ていると、私の秘密なんて、どうでもよくなってしまう。
「ありがとう、ユイ」
セピアが言う。
「君の写真のおかげで、僕も現実世界を旅しているみたいだ」
その言葉が、私の唯一の救いだった。
でも、時々セピアは、誰も見ていないと思っているときに、とても寂しそうな顔をする。
窓の外を見つめて、まるで檻の中の鳥のように。
ある夜、セピアが言った。
「ねえ、ユイ。僕のこと、忘れないでいてくれる?」
突然の問いかけに、心臓が跳ねる。
「当たり前じゃない。忘れるわけない」
「でも、いつか君たちも大人になって、新しい生活が始まって……」
「セピア」
私はセピアの手を取る。
「私たちは、ずっと一緒だよ。たとえ離れていても」
セピアが微笑む。でも、その笑顔はやっぱり寂しそうだった。
私たちは、まだ本当の意味で世界を救ったわけじゃない。
システムの奥深くでは、今も記録の汚染が続いている。
セピアは《写し世》に縛られたまま。
私の記憶は、少しずつ失われていく。
それでも、私たちはシャッターを切り続ける。
果たせなかった約束と、いつか果たしたい約束のために。
この切ない日常を守るために。
そして、離れ離れになった大切な仲間に、新しい世界を見せるために。
夜空に星が瞬く。
現実世界と《写し世》、二つの世界に引き裂かれた私たち。
でも、心は一つ。
それだけは、変わらない。
秋風が金木犀の香りを運んでくる季節。
甘く切ない匂いが、鼻腔をくすぐる。それは、失われゆく夏の最後の名残のようで、どこか《写し世》の記録の匂いにも似ていた。




