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第1話:撮ってはいけない風景

「ねえ、知ってる? この世界には、撮っちゃいけない風景があるんだって」


放課後の廃墟写真部。西日が埃の粒子を金色に染め上げ、古い畳の匂いと現像液の酸っぱい香りが混じり合う。窓ガラスについた指紋が夕陽に透けて、まるで誰かの記憶の残滓みたいに光っている。後輩の美咲ちゃんが、目をキラキラさせながらスマホの画面を私に見せてきた。液晶の青白い光が、彼女の瞳に小さな星を灯している。


「はいはい、ストップ、ストップ」


私、海野ユイは愛用のフィルムカメラを磨きながら、その言葉を軽く受け流した。レンズクロスが金属ボディを撫でる、絹が鉄を愛撫するような微かな摩擦音。指先に伝わる冷たい重み。ファインダーから漂う、かすかな革の匂い。このカメラは祖父の形見で、私の目であり、心臓の延長だ。シャッターボタンに触れるたび、祖父の指紋の跡を感じる気がする。


「そんなオカルト、あるわけないでしょ。写真は記録。光と影が銀塩粒子の上で化学反応を起こす、ただそれだけのことよ」


「でも部長! この掲示板見てくださいよ。『特定のカメラで特定の場所を撮ると、別の世界に飛ばされる』って、すごい盛り上がってるんです!」


美咲ちゃんの声が熱を帯びる。スマホから漏れる青い光が、彼女の頬に不吉な影を落とした。


「だから〜、そういうのは創作だって。私たちは廃墟の美しさ――忘れられた記録の儚さをフィルムに定着させる部活なの。オカルト研究会じゃないんだから」


ふと視線を上げると、美咲ちゃんが部室の隅で、壊れかけた三脚を丁寧に修理していた。針金と接着剤を使って、折れた脚を元通りに。彼女はこういう作業が得意だ。「壊れたものを見ると、元の形が見えちゃうんです」と以前言っていた。不思議な才能だと思う。その時は気にも留めなかったけれど。


美咲ちゃんは「むー」と頬を膨らませたけど、私は相手にしない。私の興味は、忘れ去られた場所に眠る、声なき物語だけだ。壁に染み込んだ生活の匂い、階段に刻まれた足音の記憶、割れた窓から差し込む光が描く時間の地層――そういうものを、フィルムに焼き付けたい。


「あ、そうだ」私は立ち上がり、ずしりと重いカメラを首から下げる。革のストラップが首筋に食い込む感触。「今日、例の廃鉱山に行ってくるわ」


「え!? 一人でですか?」美咲ちゃんの声が裏返る。


「そう。明日から取り壊し工事が始まるらしいから、最後の一枚を撮りに。このカメラで、最後の記録を遺してあげないと」


そう言い残して部室を出た私は今、その廃鉱山の入り口に立っている。


錆びた鉄の匂いが、湿った風に乗って鼻腔を刺す。夕陽が錆びた看板を血のような赤に染めているけれど、何かがおかしい。


空気が、薄い。 音が、遠い。 そして――影が、震えている。


私の影が、まるで水面に映った像のように揺らぎ、時折二重に見える。足元の砂利を踏む音が、妙にくぐもって聞こえる。まるで、水中にいるような、あるいは古いフィルムの中に入り込んだような違和感。


取り壊し前日だというのに、重機の油の匂いも、工事の準備の気配も何もない。警備員のタバコの残り香もなければ、立ち入り禁止のビニールテープが風に鳴る音もしない。まるで、この場所だけが世界から剥がれ落ちて、陽画ポジの世界から切り離された、一枚の陰画ネガフィルムみたいに、現実との境界線が曖昧になっている。


『――やっと来たね、ユイ』


振り返る。誰もいない。風が、朽ちた鉄骨の間を寂しく吹き抜けていくだけ。錆びた金属が軋む音が、人の囁き声のように聞こえる。でも確かに聞こえた。頭の中に直接響くような、古い写真から漏れ出たような、セピア色の声が。


「だれ?」


手にしたフィルムカメラが、急にじわりと熱を帯び始める。金属のはずのボディが、まるで生き物の皮膚のように脈打つ。レンズキャップが勝手に外れ、カチャリと地面に落ちる音が、異様に大きく響いた。まるで誰かの心臓みたいに、温かい鼓動がグリップから掌に伝わってくる。


『そのカメラを持つ者を、ずっと待っていた』


カメラのレンズが、カチカチと音を立てて勝手に繰り出される。絞り羽根が呼吸するように開閉を繰り返し、シャッターボタンが、まるで蛍のように青白く明滅し始めた。ファインダーから、現像液のような酸っぱい匂いが立ち上る。


美咲ちゃんの言葉が頭をよぎる。撮っちゃいけない風景。特定のカメラ。別の世界――


「まさか、ね」


でも、体が勝手に動く。磁石に引き寄せられる鉄粉のように、抗えない衝動に突き動かされて、私はファインダーを覗き込んだ。


冷たいアイピースが眼窩に吸い付く。


そこに映っていたのは、赤錆びた廃鉱山なんかじゃなかった。


白と黒だけで構成された空間に、一人の少年が立っている。セピア色の髪が、存在しない風に揺れている。琥珀色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。そして――影がない。足元にあるべき影が、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に欠落している。彼はまるで、現像されなかった写真の残像、誰かの記憶から零れ落ちた幻のようだ。


『お願い、僕を――写して』


少年の唇が動く。声が、ファインダーを通じて、直接私の鼓膜ではなく、心に響いてくる。寂しそうに、でも確かな希望を込めて。その瞬間、少年の体が一瞬透けて、向こう側の白い空間が見えた。


私の指が、シャッターボタンに触れた。 金属の冷たさが、体温で少しずつ温まっていく。 押してはいけない。本能が警鐘を鳴らしている。全身の産毛が逆立ち、鳥肌が腕を駆け上る。 なのに、指が、心が、言うことを聞かない。


人差し指に、自分の脈拍が伝わる。 一拍、二拍、三拍――


カシャリ。


乾いたシャッター音が響いた瞬間、世界が音を立てて崩れ始めた。


ミラーが跳ね上がる振動が、現実を砕く震動に変わる。地面がガラスのようにひび割れ、その割れ目から虹色の光が漏れ出す。空が写真を破くように真っ二つに裂け、重力さえもが意味を失っていく。足元の感覚が消え、上下の区別がなくなる。私の体が、ファインダーの奥の世界に、写真の中に、銀塩粒子の一つ一つに分解されながら吸い込まれていく。


髪が逆立ち、服が激しくはためき、肺から空気が奪われる。


「きゃああああ!」


喉が裂けるような悲鳴を上げても、音は虚空に吸い込まれて消えていく。


美咲ちゃん、あなたの言った都市伝説は本当だった。 この世界には、撮っちゃいけない風景がある。


そして私は今、そのシャッターの代償を、全身全霊で払おうとしている――


最後に見えたのは、白と黒の世界で微笑む少年の顔と、私のカメラから立ち上る、青白い燐光だった。


「うるさいなぁ、もう」


電子的な合成音声のようでありながら、どこか少女らしい棘のある声で目が覚めた。瞼が重い。体を起こそうとして、腕に鈍い痛みが走る。柔らかいシーツの感触、洗い立ての布地の匂い、そして鼻腔を刺す消毒液の香り。ベッドのスプリングが軋む音。どれも現実的な感覚なのに、どこか違和感がある。まるで、写真の中の風景に迷い込んだような。


「あー、やっと起きた。記録残存率97.3%、バイタル正常値。ったく、いきなり転送されてくる人間の処理なんて、マニュアルに載ってないんだから」


声の主に目を向ける。銀髪をツインテールにした少女が、ベッドサイドの椅子に座っていた。年は私と同じくらいだろうか。ただ、その大きな瞳には電子回路のような幾何学模様が淡く明滅していて、瞳孔の代わりに小さなカメラのアイリスが開閉している。明らかに、普通の人間じゃない。


「あなた、誰? ここは……」

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