第18話:立花先輩の暗躍
まるで、見えない鎖に繋がれているような。
「体が……《写し世》と完全に繋がってしまった。ここから、一歩も外に出られない」
記録の柱として世界と一体化した代償。
それは、セピアをこの《写し世》に永遠に縛り付けるという、残酷なものだった。
「そんな……」
現実世界に行くという、私たちのささやかな約束。
それは、世界を救った代償として、永遠に果たせなくなってしまった。
その日の午後、私たちは無言で記録商店街へ向かった。
一週間前に撮った、あの写真を受け取るために。
道中、誰も口を開かない。
ミルは俯いて、時折データを確認している。私は、ただセピアの横顔を見つめている。
セピアは、空を見上げている。もう二度と、現実の空を見ることはできない。
写真館の店主は、何も言わずに茶封筒を差し出した。
まるで、すべてを知っているかのような、悲しげな表情で。
震える手で、封を開ける。
中から、一枚の写真が出てきた。
「あ……」
息を呑む。
そこに写っていたのは、満面の笑みを浮かべた三人。
ミルの屈託のない笑顔。
私の、心からの笑顔。
そして——
今まで決して写ることのなかったセピアが、確かな輪郭を持って、そこに存在していた。
さらに、信じられないことに——
「影が……ある」
セピアの足元に、はっきりと影が写っている。
他の二人と同じように、地面に濃い影を落として。
完璧な、一人の人間として。
「写ってる……」
セピアが、震える指で写真に触れる。
「僕が、本当に、ここにいる……」
《写し世》と完全に一体化したことで、彼はこの世界で「完璧な記録」になったのだ。
だから、写真に写る。
だから、影ができる。
でも、もうここから出ることはできない。
その一枚の写真は、叶えられた願いと、永遠に失われた約束が同居する、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲しい、私たちの宝物になった。
「これから、どうなるんだろう」
ミルが小さく呟く。
「分からない」セピアが答える。「でも、三人一緒だ。それだけは、変わらない」
私は写真を胸に抱きしめる。
この幸せな瞬間を、永遠に忘れない。
たとえ、私の記憶が少しずつ失われていっても。
夕日が、《写し世》を金色に染めていく。
世界は救われた。
でも、本当の戦いは、これからだ。
セピアは、もう現実世界には行けない。
私の記憶は、少しずつ失われていく。
システムの深部には、まだ黒い何かが潜んでいる。
でも、今はただ、この写真を見つめていたい。
三人の、最高の笑顔を。
セピアの、初めての影を。
「ねえ」私が言う。「この写真、大きく引き伸ばして、食堂に飾ろう」
「賛成です」ミルが頷く。
「うん」セピアも微笑む。「毎日、見られるように」
三人で、ゆっくりと時計塔に歩いて帰る。
セピアの歩みは、少し重い。
もう、ここから出られないと知りながら歩く、その一歩一歩が。
でも、私たちは一緒だ。
たとえ、どんな形でも。
時計塔の大きな扉の前で、私とミルは立ち尽くしていた。
古い木の扉。表面には無数の傷があり、それぞれが時間の記録を刻んでいる。真鍮のドアノブは、多くの手に磨かれて鈍い光を放っている。
この扉の向こうは、二週間ぶりに帰るべき現実世界。
でも、私たちの足は鉛のように重かった。
「……セピア」
振り返ると、セピアがいつものように微笑んでいた。でも、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうで、まるで水面に映った月のように儚い。
記録の柱として《写し世》と一体化した彼は、もうこの時計塔から一歩も外に出ることができない。足が、文字通り世界と融合してしまっている。歩こうとすると、床がまるで彼の一部のように引っ張る。
三人で現実世界に行くという、ささやかで、けれど何よりも大切だった約束。
それは、世界を救った代償として、永遠に果たせなくなってしまった。
「二人とも、そんな顔をしないで」
セピアが優しく言う。でも、その声には微かな震えがあった。
「僕は大丈夫。ここで、君たちの帰りを待っているから」
「ですが……」ミルの声が震える。「セピア様がいない現実世界なんて……」
ミルの瞳の回路が、不規則に明滅している。感情の処理が追いつかない時の症状だ。
「意味がありません。データが示しています。セピア様なしの世界の充実度は、67.3%も低下します」
「ミル……」
セピアは私とミルの頭を、そっと撫でた。
その手は温かいのに、どこか遠い。まるで、ガラス越しに触れているような感覚。
「だから、お願いだ」
セピアの琥珀色の瞳が、切なく輝く。
「僕の代わりに、現実世界をその目に焼き付けてきてほしい。青い空の色、風の匂い、雨の音。そして、君たちが撮った写真で、僕に新しい世界を見せてくれないか?」
それは、彼なりの強がりだった。
私たちに笑顔でいてほしいという、精一杯の願い。
「……うん。分かった」
私は涙をこらえて頷く。喉の奥が熱い。
「約束する。毎日、最高の写真を撮って、セピアに見せに帰ってくるから」
「はい」ミルも涙声で言う。「私も、学校での出来事をすべて記録して、報告します。給食の献立から、授業の内容まで、0.01秒単位で!」
三人で、そっと手を重ねる。
私の手が一番下、その上にミル、そして最後にセピア。
温度が混ざり合う。でも、セピアの手だけが、少しずつ透けていく。
扉一枚を隔てただけの、あまりにも遠い距離。
「「「行ってきます」」」
「「「ただいま」」」
「「「おかえり」」」
いつか、また三人でこの言葉を言うために。
私たちは、セピアに背を向けて、扉を開けた。
眩しい光に包まれる。
まるで、暗室から急に太陽の下に出たような衝撃。網膜が痛い。
風が吹く。本物の風。データの再現じゃない、湿度と温度と匂いを持った、生きた空気の流れ。
気がつくと、廃鉱山の入り口に立っていた。
二週間前と何も変わらない景色。蝉の声が降り注ぎ、入道雲が空高くそびえている。アスファルトから立ち上る陽炎が、景色を歪ませている。
「これが、現実世界……」
ミルが感動の声を上げる。
彼女は目を輝かせて、あらゆるものを観察している。
「気温32.7度、湿度68%、風速2.3メートル……でも、数値じゃ表せない何かがある」
ミルが深呼吸する。
「これが、生きている世界の匂い」
でも、その隣にセピアがいないことが、現実の重みとなって私たちの心にのしかかった。
振り返っても、そこには錆びた看板があるだけ。セピアの優しい笑顔は、もうない。
家への道中、ミルは初めて見る現実世界に興奮していた。
「信号機! 本物の信号機です!」
「自動販売機! 物理的な硬貨を入れて、実体のある飲み物が出てくる!」
「猫! 生きてる猫! 毛並みが不規則で、完全な非対称! 素晴らしい!」
彼女の無邪気な反応に、少しだけ心が軽くなる。
でも、家に近づくにつれて、別の不安が頭をもたげてきた。
どう説明しよう。突然消えて、二週間後に見知らぬ少女を連れて帰ってきたなんて。
家の前に立つ。見慣れた二階建ての家。でも、なんだか他人の家みたいに感じる。
「ただいま……」
ドアを開けた瞬間——
「ユイ!」
母さんが玄関に飛び出してきた。父さんも後ろから走ってくる。
「どこに行ってたの!? 警察にも連絡して、捜索願も出して……」
母さんの目が真っ赤に腫れている。泣き続けていたんだ。
「ごめん、ちょっと事情があって……」
「事情って……あら?」




