第17話:ポジとネガの境界
まるで、最初から決めていたかのように。
「セピア様!」
「ダメ!!」
ミルと私の声が重なる。
「絶対にダメ!」私はセピアの腕を掴む。「他の方法を探すから! 絶対に!」
「そうです!」ミルも必死だ。「私のデータベースを全検索します! きっと別の解決策が!」
でも、セピアは静かに首を振った。
その仕草が、とても優しくて、とても悲しい。
「時間がない」
天井から、粉塵が落ちてくる。世界の崩壊が、ここまで及んでいる。配管が軋み、壁にひびが入る。
「それに、僕が一番適しているんだ」
セピアが自嘲的に笑う。
「元々、記録として生まれた、不完全な存在だから。影もない、半端な存在。僕が柱になることで、僕の存在は初めて意味を持つ」
「意味なんて、そんなもの!」
私はセピアの両肩を掴んで、揺さぶる。
「セピアは、私たちの大切な仲間でしょ? ここにいるだけで、意味があるに決まってる!」
「ユイ……」
セピアの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
初めて見る、セピアの涙。
透明で、キラキラと光って、そして消えた。
その時、時計塔全体が激しく揺れた。
ゴゴゴという地鳴りと共に、天井に亀裂が走る。瓦礫が落ちてきて、ミルが防御壁で弾く。
「最終崩壊が始まります!」ミルが叫ぶ。「あと10分で、完全崩壊!」
「もう、時間がないんだ」
セピアが《アーカイブ》の中心部に向かって歩き出す。
一歩、また一歩。
その足取りは、死刑台に向かう囚人のようで、でも、どこか解放されたような軽やかさもあった。
その時、壁の引き出しが、振動で開いた。
中から、一通の手紙が落ちる。
古い封筒。宛名は——『ユイへ』
私の祖父の筆跡だった。
震える手で封を開ける。
『ユイへ
この手紙を読んでいるなら、君は柱の真実を知ったのだろう。
私も、かつて同じ選択を迫られた。友人を柱にするか、世界を諦めるか。
でも、私には勇気がなかった。友人を犠牲にすることも、世界を見捨てることもできなかった。
だから、不完全な解決策を選んだ。一時しのぎの、その場限りの延命措置。
その結果が、今の状況だ。
ミルの戸籍は用意したが、システムの更新で不整合が起きるはずだ。立花家の力を借りなさい。
すまない。完璧な計画は、私には作れなかった。
でも、君なら——』
手紙はそこで途切れていた。焦げた跡がある。何か、急いで燃やしたような。
祖父も、完璧じゃなかった。
迷い、悩み、そして不完全な選択をした。
それを知って、なぜか少し安心した。
「待って!」
私の声は届かない。いや、届いているけど、セピアは止まらない。
「さようなら、ユイ、ミル」
セピアが振り返る。
その顔には、穏やかで、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。今まで見た中で、一番美しい笑顔。
「君たちに会えて、ただの記録だった僕の人生は、本当に幸せだったよ」
「やめて!」
ミルが泣きながらセピアに抱きつく。
「私、まだセピア様と一緒にいたいです! まだ、伝えてないことがいっぱいあるんです!」
ミルの涙が、セピアのシャツを濡らす。
「料理の美味しさも、朝日の温かさも、全部セピア様と一緒に感じたいんです!」
「ミル……」
私も駆け寄る。
「約束したでしょ!? 三人で現実世界に行くって! 写真館の写真も、まだ受け取ってないじゃない!」
私の声が裏返る。
「セピアの影が写ってるかもしれないのに! それを一緒に見ないで、どうするの!?」
「ごめん」
セピアが私たち二人を、優しく、でも力強く抱きしめる。
彼の体温を感じる。影はないけど、確かにここにいる。心臓の音は聞こえないけど、震えているのが分かる。
「でも、これしか君たちを守る方法がないんだ」
システムとの接続が始まろうとしている。
《アーカイブ》から、無数の光の触手が伸びてくる。それがセピアの体に巻き付き、少しずつ引き寄せていく。
セピアの体が、淡い光に包まれ始める。
輪郭がぼやけていく。
嫌だ。失いたくない。こんな結末、絶対に認めない。
その時、三人の腕につけられたブレスレットが、強く光を放った。
銀色の光が、部屋全体を照らす。
ミルのブレスレット、私のブレスレット、セピアのブレスレット。
三つが共鳴している。
「……そうか」
私は顔を上げる。涙で歪んだ視界の中で、ある考えが形を成していく。
「一人じゃない。一人で行かせるなんて、絶対にしない」
「ユイ?」
「三人でなるんでしょ、柱に!」
私の無茶な提案に、セピアは目を見開いた。
「それは……不可能だ。システムは一人分の接続しか——」
「私たちの絆なら、きっと奇跡を起こせる!」
私はブレスレットを掲げる。
「ミルがくれたこれがある。三人の心を繋ぐ、最強の絆が!」
ミルは泣きながらも、データを高速で解析し始める。
瞳の回路が、今まで見たことのない速度で明滅する。
「理論上は……いえ、理論を超えて……」
ミルが顔を上げる。
「やりましょう! 三人一緒なら、どんな未来でも怖くありません!」
「君たち……」
セピアの瞳から、また涙がこぼれた。
今度は、悲しみの涙じゃない。
「ありがとう」
三人で《アーカイブ》の中心に立つ。
手を繋ぐ。ぎゅっと、離れないように。
ミルの手は温かい。セピアの手は優しい。
膨大なエネルギーが、奔流となって三人を包み込む。
体が引き裂かれそうなほどの痛み。
皮膚が燃えるような熱さ。骨が砕けるような圧力。意識が千々に引き裂かれそうになる。
意識が溶けて、自分が自分でなくなっていく感覚。
境界線が曖昧になっていく。
私なのか、ミルなのか、セピアなのか、分からなくなっていく。
でも、繋いだ手の温もりだけが、確かにここにある。
「ミル!」
「ここにいます!」
「セピア!」
「離れないよ!」
三人の心が完全に一つになる。
ブレスレットが共鳴し、銀色の光が螺旋を描いて上昇する。
アナログの記録者、デジタルの管理者、そして記録そのもの。
三つの異なる力が融合し、新しい『柱』が生まれる。
痛みが、急に消えた。
代わりに、温かい感覚が全身を包む。
まるで、温かいお湯に浸かっているような。
いや、違う。
私たちが、世界そのものと繋がっている。
《写し世》のすべての記録が、私たちを通して流れている。
「すごい……」
ミルの驚嘆の声。
世界の崩壊が、嘘のように止まった。
亀裂が閉じていく。崩れた建物が、まるでフィルムを逆再生するように修復されていく。消えた記録たちが、光の粒子から再構成される。
「やった……!」
私は安堵で力が抜け、倒れそうになる。
でも、ミルとセピアが両側から支えてくれた。
「成功、です!」ミルが涙声で言う。
「みんな、無事?」私が聞く。
「うん……」セピアが頷く。
私たちは、誰も犠牲にならなかった。
世界を救い、そして、三人でここにいる。
しかし、安堵したのも束の間だった。
「待ってください」
ミルの声が震える。
「崩壊は止まりましたが、これは……一時的な安定にすぎません」
新しいデータが表示される。
システムの深部で、黒い何かが脈動している。それは、ウイルスのように記録を侵食し続けている。
「私たちは、堤防の穴を三人で必死に塞いでいるだけ。本当の決壊は、いずれ……」
そして、セピアが絶望的な声で言った。
「……動けない」
「え?」
セピアが一歩踏み出そうとする。
でも、足が地面に張り付いたように、動かない。




