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第16話:美咲の決意

本当に、そうなのだろうか?


いや、違う。


私は信じる。記憶も、記録も、すべてが人を作る大切なものだと。


たとえ、すべての人に理解されなくても。


記録解放戦線との戦いで学んだこと。


それは、心の繋がりこそが最強の武器だということ。


そして同時に、すべての心を救うことはできないという、苦い真実も。


この絆がある限り、どんな未来が待っていても、きっと乗り越えられる。


そう信じて、私たちは時計塔の扉を開けた。


夕暮れの光が、食堂を温かく照らしている。


今夜のディナーは、きっと特別なものになるだろう。


記録解放戦線との戦いから一夜が明け、私たちが写真館にあの記念写真を受け取りに行く、まさにその日の朝。


「今日だね」


セピアが朝食のテーブルで、そっと呟いた。その声には期待と不安が綯い交ぜになっている。指先が、無意識にテーブルの端を叩いている。コツ、コツ、コツ。緊張の表れ。


ミルは落ち着かない様子で、何度も時計を確認している。デジタル表示が 08:23:47 を示している。秒単位まで把握しているあたり、彼女らしい。でも、その瞳の回路が、不安な紫色に明滅している。


「写真館の開店時間は10時です。最短ルートで移動すれば、往復47分23秒で——」


ミルが計算を始めようとした、その時だった。


グラスの中の水が、円を描いて波打った。


最初は、誰かがテーブルを揺らしたのかと思った。でも違う。グラスだけじゃない。壁の写真も震えている。床も、微かに振動している。


小さな振動。でも、ただの地震じゃない。もっと根源的な、世界そのものが軋む音。まるで、巨大な歯車が噛み合わなくなったような、不協和音。


ミルの瞳が、一瞬で真っ赤に染まった。


「警告! 警告!」


彼女の声が、機械的な警報音に変わる。人間らしさが消え、純粋なAIとしての危機管理モードに入った証拠。


「《写し世》全域で、ポジ/ネガ境界の急速な崩壊が進行中!」


空中に無数のウィンドウが展開される。赤い数字が、恐ろしい速度で上昇していく。グラフが垂直に跳ね上がり、警告表示が次々と現れる。


「崩壊率、87%……89%……91%!」


窓の外を見て、息を呑んだ。


《写し世》の空に、巨大な亀裂が走っていた。


まるで、巨人が空を殴りつけたような、稲妻状の裂け目。そこから、ありえない光景が見える。


現実世界の青空と、《写し世》のモノクロの空が、パッチワークのように入り混じっている。雲が半分だけ色を持ち、もう半分は白黒。鳥が飛んでいるかと思えば、それが途中で記録の断片に変わり、砂のように崩れていく。


「こんなに急激にどうして!?」


「レイラたちとの戦いで、システムの根幹に大きな負荷がかかったようです」ミルが高速でデータを解析する。指先から光の糸が伸びて、空中のデータと繋がる。「そして……何者かが、その隙を突いて……!」


建物が砂のように崩れていく。レンガが一つずつ剥がれ落ち、粉塵となって消える。記録たちが悲鳴を上げる間もなく虚空に吸い込まれていく。半透明の人々が、恐怖の表情を浮かべたまま、粒子となって消えていく。


手を伸ばしても、すり抜ける。


声をかけても、届かない。


ただ、消えていく。


その光景は、世界の終わりそのものだった。


セピアが重い口を開く。


「やはり、その時が来たか」


「その時って……どういうこと?」


私の問いに、セピアは立ち上がる。その表情は、今まで見たことのない真剣さだった。琥珀色の瞳に、深い悲しみと、そして覚悟の色が浮かんでいる。


「来て」


セピアは私たちを時計塔の最深部へと導いた。


普段は立ち入ることのない、地下への階段。鉄の扉には、複雑な紋様が刻まれている。セピアが手をかざすと、紋様が光り、扉が重い音を立てて開く。


螺旋階段を下りていく。一段降りるごとに、空気が重くなる。湿度が上がり、温度が下がる。まるで、地下深くに潜っていくような感覚。耳がキーンと鳴る。気圧が変わっているのか。


壁には古い配管が這い、時折、蒸気が噴き出す。シューッという音。その蒸気に触れると、一瞬だけ、誰かの記憶が見える。開発者たちの記憶。必死で何かを作っている姿。そして、絶望に打ちひしがれた顔。


最下層。


重い鉄の扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


巨大な機械。


いや、機械という言葉では表現しきれない。それは、有機的でありながら無機的、古代的でありながら未来的な、矛盾の塊のような存在だった。


高さは天井まで届き、幅は部屋いっぱいに広がっている。表面は金属のようで、でも呼吸するように脈動している。生きている機械、あるいは機械化した生命体。


無数のケーブルが天井から垂れ下がり、それが脈打っている。中を流れるのは電気ではなく、光。記録そのものが、液体となって流れている。時々、その光の中に、誰かの顔が浮かんでは消える。


中央には、心臓のような球体。直径は3メートルほど。それが一定のリズムで明滅を繰り返している。


ドクン、ドクン。


まるで、生きているみたいだ。


いや、生きているんだ。これが、《写し世》の心臓。


「これが……」


「《アーカイブ》の中枢」セピアが静かに言う。「《写し世》の心臓部だ」


球体の表面に、無数の映像が流れている。誰かの誕生、初めての一歩、卒業式、結婚式、最期の時。人類のすべての記録が、ここに集約されている。


でも、よく見ると、映像にノイズが入っている。砂嵐のような乱れ。そして、時々、映像が真っ黒に染まる。


「ユイ、ミル。聞いてほしい」


セピアの表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。影のない体が、緊張で固くなっている。拳を握りしめ、震えている。


「《写し世》を救う方法は、一つだけある」


「本当ですか!?」ミルが希望の光を瞳に宿す。


「でも、それには大きな代償が伴う」


嫌な予感が、心臓を冷たい手で掴んだような感覚。背筋に冷たい汗が流れる。


「誰かが、新しい『記録の柱』になる必要があるんだ」


「記録の柱?」


私の声が震える。


「そう。この世界を支える、永遠の記録。強い想いと力を持った存在が、このシステムと完全に一体化することで、崩壊を内側から食い止める」


セピアが《アーカイブ》の心臓部を見つめる。その瞳に、複雑な感情が渦巻く。


「初代の柱は、もう限界なんだ。新しい柱が必要だ」


そう言って、セピアは球体の一部を指差す。そこには、人型の窪みがあった。誰かが、かつてそこにいた痕跡。


「初代は……誰だったの?」


セピアが、苦い表情を浮かべる。


「分からない。記録が欠損している。でも、その人は今も、この中で《写し世》を支え続けている。意識も、記憶も、すべてを失って」


「待って」私はセピアの言葉を遮る。喉が渇いて、声が掠れる。「それって、その人はどうなるの?」


セピアが、辛そうに目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落とす。


「《写し世》そのものになる」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「もう、個人としての意識も、記憶も……何もかも失って、ただ世界を支えるだけの存在になる」


それは、死よりも残酷な運命だった。


存在しているのに、存在していない。永遠に世界を支え続ける、生きた墓標。


「そんな……」


「他に方法はありません」ミルが、システムを解析しながら絶望的に呟く。「そして、適合率を計算すると、最も適しているのは……」


ミルの言葉が止まる。


データが示す答えを、口に出せない。


瞳の回路が、悲しみの青に染まる。


「僕がやる」


セピアの静かな、しかし揺るぎない声が、地下室に響いた。

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