第15話:記録解放戦線の影
透明な壁が、幾重にも重なって敵の攻撃を防ぐ。ガラスが割れるような音を立てて、一枚、また一枚と砕けていくが、なんとか持ちこたえる。
セピアが敵陣に切り込む。
記録の体である彼は、物理攻撃を受け付けない。すり抜けてしまう。でも、記録削除の力は彼にとって天敵だ。黒い光線が掠るたびに、彼の体の一部が砂のように崩れる。
「セピア!」
『大丈夫! すぐ再生する!』
でも、その声には苦痛が滲んでいる。
カインが突然、私の前に現れた。
「終わらせる」
カインの両手が黒く染まる。レイラより凝縮された、純粋な削除の力。憎しみが形になったような、漆黒の炎。
「すべての記録を、無に還す!」
カインが地面を叩く。
衝撃波のように削除の力が広がり、周囲のすべてが消えていく。
「危ない!」
ミルとセピアが、同時に私を庇う。
削除の力が二人に触れ、その体が端から消えていく。
「なんで……!」
「だって」ミルが微笑む。痛みに顔を歪めながらも、確かに笑っている。「ユイは、私たちの希望だから」
「君がいれば」セピアも優しく笑う。血は流れないけど、明らかに苦しそう。「《写し世》は救われる」
「そんな……私だけ残っても意味ないよ!」
涙が溢れる。
二人を失うくらいなら、一緒に消えたい。
その時——
三人のブレスレットが、共鳴し始めた。
銀色の光が、どんどん強くなっていく。まるで、心臓の鼓動のように、リズミカルに明滅する。
ドクン、ドクン、ドクン。
三つの心が、完全に一つになった瞬間。
奇跡が起きた。
消えかけていたミルとセピアの体が、光の粒子となって再生し始める。
崩れた部分に、新しい粒子が集まり、形を作っていく。まるで、逆再生のビデオを見ているよう。
「不可能……記録の完全再生だと!?」
レイラが初めて、驚愕の表情を見せる。
カインも、信じられないという顔で立ち尽くしている。
「記録が……再生している? そんなことが……」
「不可能じゃない」
私は涙を拭い、立ち上がる。
「これが、私たちの絆の力よ!」
三人で手を繋ぐ。
ブレスレットが共鳴し、巨大な光の柱が天を突いた。
光は螺旋を描きながら上昇し、雲を貫き、そして——
降り注ぐ。
「行くよ、二人とも」
「「はい!」」
心を一つに。想いを一つに。
それは、もはや技の名前を叫ぶようなものではなかった。
ただ純粋な、大切なものを守りたいという祈り。
その祈りが、私のカメラを通して世界に溢れ出す。
『三位一体・完全現像《トリニティ・パーフェクト・デベロップメント》』
声には出さなかったけど、心の中で、技の名前が生まれた。
圧倒的な光が、戦場を包み込む。
それは破壊の光じゃない。
記録解放戦線の面々を浄化していく、慈愛に満ちた「現像」の光。
彼らの黒いローブが剥がれ落ち、中から普通の人々の姿が現れる。老人、若者、男性、女性。みんな、悲しい顔をしている。
彼らの失った記録が、光の中で一瞬だけ蘇る。
家族の笑顔、恋人との思い出、子供の頃の夢。
そして、また消えていく。
でも今度は、穏やかに。受け入れて。
「馬鹿な……完璧な理論が……感情ごときに……」
レイラが膝をつく。
「理論じゃないよ」私は静かに言う。「心は、いつだって理論を超える」
レイラの瞳から、涙がこぼれた。
透明な、本物の涙。
「私も……かつては心を信じていた……」
レイラの声が震える。
「弟の記録が、事故で失われるまでは……あの子の笑顔も、声も、すべて消えて……私には、もう何も……」
消えゆくレイラ。
でも、その顔は少しだけ穏やかだった。
「ありがとう……思い出させてくれて……心の温かさを……」
光の粒子となって、レイラは消えていった。
しかし、カインだけは違った。
光に包まれても、彼の憎しみは消えない。
黒い炎が、光を押し返している。
「くだらない」
カインが立ち上がる。削除の力で、光を押し返している。
「絆? 心? そんなものが、失われた家族を返してくれるのか!」
カインの叫びが、空気を震わせる。
「記録がある限り、偽りは生まれる。改竄される。人を傷つける」
カインの周囲に、黒い炎が渦巻く。
「だから、すべてを無に還す。それだけが正義だ」
カインの体が、黒い炎に包まれる。
「レイラ様は甘すぎた。だが、私は違う」
「忘却こそが、唯一の救済だ」
そして、カインは影の中に消えていった。
最後まで、その信念を曲げることなく。
燃えるような瞳だけが、私の記憶に焼き付いている。
*
戦いが終わって数時間後――
廃墟の片隅で、一人の人影があった。
カイン。
彼は半壊した建物の影に座り込み、手に何かを握りしめていた。
修復されたレイラの写真。
「憎しみは、消えない」
カインは写真を見つめながら呟く。声は震えている。
レイラの優しい笑顔が、写真の中から彼を見つめている。
「何があっても、誰が何と言っても――俺の怒りは消えない」
拳を握る。爪が手のひらに食い込む。痛みが走る。
でも――
「でも、レイラ。お前は……俺がこんな風になることを、望んでいなかったんだろうな」
写真の中の彼女は、今も笑っている。
カインの目から、一筋の涙が流れた。
「憎しみは消えない。痛みも消えない。でも――」
立ち上がる。
空を見上げる。
ポジとネガが調和した、新しい空。
完全な光でもなく、完全な闇でもない。両方が混ざり合った、複雑な空。
「この痛みも、俺の一部なんだな」
カインの影が、地面にくっきりと映った。
今まで黒い炎に覆われて見えなかった影が、初めて明確な形を持って、彼の足元に在る。
「レイラ。俺は、お前の記憶と一緒に生きていく」
カインは写真を胸ポケットにしまった。
「憎しみも、悲しみも、全部抱えて。それでも――前に進む」
そして、彼は歩き出した。
光と影の境界を、一歩ずつ。
完全な救いではない。完全な許しでもない。
でも、それでいい。
人は誰もが、傷を抱えて生きている。
その傷と共に、それでも歩いていける。
それが、カインが見つけた答えだった。
戦いが終わり、三人で抱き合う。
「みんな、無事?」
「ギリギリでしたけど」ミルが息を整える。
「でも、勝った……のかな」セピアが複雑な表情を見せる。
カインの最後の言葉が、胸に刺さる。
彼の憎しみは、消えなかった。いや、消せなかった。
すべての人が分かり合えるわけじゃない。
救えない心もある。
それでも——
「私たちは、信じ続けるしかない」
私は呟く。
「記録も、記憶も、大切なものだって」
ブレスレットを見つめる。
銀色の輝きは、まだ温かい光を放っている。ミルがくれた絆の証が、私たちを守ってくれた。
一つの脅威は去った。
でも、カインのような存在は、まだどこかにいるかもしれない。
《写し世》の根本的な危機は続いている。
境界の崩壊、システムの暴走、そして——
私の失われていく記憶。
それでも、今は喜ぼう。三人で、この勝利を。
「お祝いしなくちゃね」
「賛成です!」ミルが跳ねるように言う。
「今日は豪華ディナーだ」セピアも微笑む。
笑いながら時計塔に戻る。
足元の地面は、まだ侵食の跡が残っているけど、少しずつ再生し始めている。新しい草が芽吹き、小さな花が咲き始めている。記録は、生命力を持っている。
でも、心の片隅に、小さな棘が刺さったまま。
カインの言葉が、まだ響いている。
『忘却こそが、唯一の救済だ』




