第14話:祖父の真実
『さもなければ——』
消去された空間から、何かが溢れ出してきた。
それは、ネガの世界に堕ちた記録の残骸だった。顔のない人影、形を失った建物、意味不明な文字の羅列。それらが濁流のように噴き出し、うめき声のような音を立てながら蠢いている。
腐敗した記録特有の、甘ったるい匂いが漂ってくる。砂糖を焦がしたような、でも腐った果実のような、相反する匂い。
カインが一歩前に出た。
「選択の余地などない」カインの声は、氷のように冷たい。「記録は呪い。忘却こそが救済」
「どうしてそんなことを……」
私の問いかけに、カインがフードを少し上げる。顔の半分に、醜い火傷の跡があった。皮膚が溶けて、再生した跡。痛々しい傷跡。
「私の家族は、改竄された記録に殺された」カインが静かに語る。その声は、深い闇を湛えている。「偽りの記憶を植え付けられ、互いを敵と思い込まされて……最後は」
カインの拳が震える。爪が手のひらに食い込んで、血が滲む。
「母は父を殺した。兄は妹を。そして私は……」
言葉が途切れる。言えない何かがある。
「だから、すべての記録を消す。それだけが、真の平和をもたらす」
カインの言葉には、揺るぎない確信があった。狂気ではない。彼にとっては、それが真実なのだ。
『24時間の猶予を与える』
レイラは時計を取り出し、カチリと音を立てた。古い懐中時計。文字盤が逆回りしている。時を巻き戻すような、不吉な動き。
『カメラを渡すか、《写し世》と共に消えるか、選びなさい』
そう言い残して、レイラたちは陽炎のように揺らめき、姿を消した。
後には、侵食された大地と、不気味に蠢く記録の残骸だけが残された。
時計塔に、重い沈黙が降りる。
食堂のテーブルに、三人で向かい合って座る。さっきまでの温かい朝食の残骸が、冷たく皿の上で固まっている。トーストは石のように硬くなり、紅茶は苦い液体に変わっている。
「どうしよう……」
私の声が、震えている。
「カメラは渡せません」ミルがきっぱりと言う。「それでは《写し世》は、いずれにせよ崩壊します。記録解放戦線の目的は、世界の消去ですから」
「でも、戦うには相手が多すぎる」セピアが冷静に分析する。「50人以上。しかも、レイラは元管理者候補。その力は未知数だ」
「それに、カインという青年も……」私は火傷の跡を思い出す。「彼の憎しみは、本物だった」
私は二人を見て、そして窓の外の侵食された風景を見た。
怖い。正直、すごく怖い。
でも——
「戦うよ」
「ユイ?」
「だって、他に選択肢はないでしょ?」
私は立ち上がり、カメラを手に取る。祖父の形見。ずっしりと重い。
「それに、私たちには秘密兵器があるじゃない」
「秘密兵器?」
私は微笑んで、二人の手を取った。
ミルの手は、思ったより温かい。体温調整機能で、常に36.5度に保たれている。セピアの手は、実体があるのに、どこか頼りない。でも、確かにそこにある。
「三人の絆、でしょ?」
ミルとセピアが顔を見合わせる。
そして、同時に微笑んだ。
「論理的ではありませんが」ミルが言う。「確かに、私たちの絆は、どんなデータよりも強力です」
「うん」セピアも頷く。「三人なら、きっと勝てる」
その日は、決戦の準備に全てを費やした。
ミルは防御システムの強化。空中に無数の数式を展開し、フォトグラメトリーの新しいアルゴリズムを構築していく。指先から光の糸が伸びて、複雑な幾何学模様を描く。
セピアは記録の整理。時計塔にある重要な記録を、安全な場所に移動させる。一つ一つ、丁寧に、愛おしむように。
私は、カメラの調整と、新しい技の練習。
「集束撮影!」
カシャリ!
光が一点に収束し、標的の模型を貫く。木製の的が、真っ二つに割れる。
「うん、精度は上がってきた」
でも、まだ足りない。レイラたちを倒すには、もっと強力な技が必要だ。
夕方、訓練を終えた私たちは、食堂で遅い昼食を取っていた。
ミルが作ったサンドイッチ。ハムとチーズとレタス。シンプルだけど、絶妙なバランス。パンの焼き加減も完璧で、表面はカリッと、中はふんわり。マスタードが少しだけピリッとして、味にアクセントを加えている。
「美味しい」
「ありがとうございます。戦闘前の栄養補給は重要ですから」
その時、ミルが小さな箱を取り出した。
紺色のビロードに包まれた、手のひらサイズの箱。表面に銀の留め金がついている。
「ユイ、セピア様、手を出してください」
「何これ?」
箱を開けると、中には三つのブレスレットが入っていた。
銀色の、繊細なデザイン。よく見ると、時計塔の電子回路を模した模様が刻まれている。光の加減で、虹色に輝く。触ると、微かに温かい。まるで、脈打っているような。
「これは?」
「私の一部です」
ミルが少し照れくさそうに言う。頬が赤い。AIなのに、血流シミュレーション機能があるらしい。
「私のコアプログラムの一部を、このブレスレットに転写しました。これで、たとえ離れていても、私たちの心は繋がっています」
「ミル……」
「戦いで離れ離れになっても、互いの位置も、状態も、そして……」ミルが俯く。「気持ちも、きっと感じ取れます」
セピアが優しくミルの頭を撫でる。
「ありがとう、ミル。最高のプレゼントだ」
「大切にするね」
私もブレスレットを腕に着ける。ひんやりとした金属の感触。でも、すぐに体温に馴染んで、まるで最初からそこにあったみたいに自然に感じる。
ミルの顔が真っ赤になる。瞳の回路が、恥ずかしさのピンクに染まる。
「べ、別に、感傷的な理由じゃありません! 戦術的優位性を確保するための、論理的判断です!」
「はいはい」
でも、その瞳には強い決意が宿っていた。
仲間を守りたいという、純粋な想い。
翌日、約束の時間。
朝霧が立ち込める中、レイラたちが再び時計塔を包囲している。
黒いローブが風に揺れ、まるで死神の軍団のよう。彼らの周囲の空気が歪み、記録が悲鳴を上げている。
「答えは?」
レイラの声が、霧を突き抜けて響く。
私は時計塔の屋上に立ち、カメラを掲げた。
「私たちの答えは、これよ!」
カメラのレンズが、朝日を反射してきらめく。
レイラは残念そうに首を振った。その動作すら、計算されたように優雅。
『愚かな選択ね』
戦いの火蓋が切られた。
黒いローブの集団が、一斉に記録削除の力を放つ。
黒い光線が、四方八方から時計塔に向かって放たれる。それは光なのに、触れたものすべてを闇に染める、矛盾した存在。
周囲の建物が、次々と存在を消されていく。
レンガの一つ一つが、その歴史ごと消滅。窓ガラスが、映してきたすべての景色と共に無に還る。
「散開!」
セピアの指示で、三人でバラバラに動く。
でも、ブレスレットのおかげで、互いの存在を常に感じている。
ミルの緊張、セピアの決意、そして私の——恐怖。
全部、筒抜けだ。でも、だからこそ安心できる。
『ユイ、右から三人!』
ミルの思念が、ブレスレットを通じて直接脳内に響く。
「了解!」
振り向きざまに撮影。
「瞬間凍結・拡散!」
カシャカシャカシャ!
三連射。フラッシュの光が、右から来る敵の動きを止める。記録解放戦線の面々が、一瞬だけ彫像のように固まる。
その隙に、ミルが防御壁を展開。
「フォトグラメトリ・バリア、多層展開!」




