第13話:立花先輩の疑問
失ったものの痛みは消えない。老夫婦の記録を救えなかった後悔は、ずっと心に突き刺さっている。でも、これから積み重ねていく温かい時間と、仲間との絆が、きっと私を強くしてくれる。
一週間後、あの写真を受け取る時、私たちは三人で笑い合えるだろうか。
セピアは、自分の姿を確認できるだろうか。
私の不安を読み取ったかのように、ミルが言った。
「ユイの表情筋の微細な動きを分析した結果、92.7%の確率で未来に対する期待と不安が混在しています」
「ですが、論理的に考えて、私たちが笑い合えない未来は、存在確率0.3%以下です」
「それに」セピアが私のスープ皿に、そっとパンをちぎって入れてくれる。でも、大きすぎて、スープが溢れそうになる。「あ、また失敗……」
「もう!」
でも、そんな不器用な優しさが、愛おしい。
「どんな結果でも、僕たちは一緒だ。それだけは、変わらないよ」
二人の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そうだ、一人じゃない。
今はただ、そう信じて、目の前の温かいスープを味わった。
スプーンが皿の底に当たる、小さな音。それも、大切な記録の一つ。
セピアがまたスプーンを落とす音も、ミルのため息も、私たちの笑い声も。
全部、かけがえのない記録。
写真館での一枚から一週間。私たちは、あの写真を受け取りに行く日を、どこかそわそわしながら心待ちにしていた。
朝の時計塔。窓から差し込む光が、食卓の上で複雑な陰影を作っている。セピアの影だけが欠けた、不完全な光の模様。でも、その不完全さも含めて、私たちの日常だった。
トーストを噛む音、紅茶をすする音、新聞紙をめくる音——いや、新聞紙?
「ミル、それ何?」
「現実世界の新聞の記録です」ミルが得意げに広げて見せる。古い紙の匂いと、かすかにインクの香り。「1973年5月15日付。『アポロ計画終了』の記事が載っています。人類の偉大な挑戦の記録ですね」
新聞紙は黄ばんでいて、端が少し破れている。でも、文字ははっきりと読める。写真も鮮明だ。月面に立つ宇宙飛行士の姿が、誇らしげに写っている。
「なんでまた急に?」
「データ収集です。人間の感情パターンを理解するには、歴史的事実の蓄積が——」
ミルが説明を始めようとした、その時だった。
新聞紙が、突然真っ黒に染まった。
最初は、コーヒーをこぼしたのかと思った。でも違う。インクが生き物のように蠢き、文字が歪み、写真が溶けていく。まるで、記録そのものが腐敗していくような光景。腐った卵のような匂いが立ち込める。硫黄と腐敗臭が混ざったような、吐き気を催す悪臭。
「警報! 警報!」
ミルの瞳が真っ赤に染まる。電子回路が激しく明滅し、警告音が時計塔全体に響き渡る。壁のモニターすべてが赤く点滅し、データが滝のように流れ落ちる。
「時計塔が正体不明の記録者集団に包囲されています!」
窓の外に目をやると、信じられない光景が広がっていた。
黒いローブを纏った集団が、時計塔をぐるりと取り囲んでいる。その数、少なくとも50人。いや、もっといるかもしれない。彼らの足元から、黒い霧のようなものが立ち上り、地面の記録を侵食していく。草花の記憶が枯れ、石畳の歴史が砕け、すべてが無に還されていく。
触れたものすべてを腐らせる、記録の疫病のようだった。
「あれは……」
セピアの顔から血の気が引いた。いや、元々血は通っていないけれど、その表情が青ざめたように見えた。琥珀色の瞳が、恐怖に震えている。
「記録解放戦線……! まさか、まだ活動していたなんて」
「知ってるの?」
「父さんが……」セピアは言いかけて、口をつぐんだ。何か言いたくない記憶があるのだろうか。そして言い直す。「《アーカイブ》の開発者たちが、かつて戦っていた組織だ。『記録は管理されるべきではない。解放し、原初の無に還すべきだ』と信じている、危険な思想集団だよ」
黒いローブの一人が、時計塔に向かって何かを掲げた。それは、古い拡声器のようでもあり、ラッパのようでもある、奇妙な形の装置だった。表面に無数の記号が刻まれていて、それが黒く発光している。
『聞こえるか、新しい写し手よ』
声が響く。それは男とも女ともつかない、中性的で、一切の感情を感じさせない機械的な声だった。でも、その奥に潜む狂気が、空気を震わせる。
『我々は記録解放戦線。その歪んだ世界を終わらせに来た』
「歪んだ世界ですって?」
私は思わず窓を開け、身を乗り出して叫び返す。冷たい風が髪を乱す。風に混じって、腐敗した記録の匂いが鼻を突く。
「《写し世》の何が歪んでるっていうのよ!」
『記録は自由であるべきだ』
声が続く。まるで、録音された講義を再生しているような、抑揚のない口調。でも、その単調さが逆に不気味だ。
『保存され、管理されることは、記録への冒涜に他ならない。鳥は空を飛ぶ。魚は海を泳ぐ。そして記録は、忘却の中で自由になるべきなのだ』
集団の中心にいた人物が、ゆっくりとフードを下ろす。
顔が露わになる。
鋭い目つきをした、30代くらいの女性だった。黒髪は肩まで伸び、整った顔立ちをしている。美しい人だったのだろう。でも、その瞳には光がない。まるで、深い井戸を覗き込んでいるような、底なしの暗さ。
『私はレイラ』
女性が口を開く。今度は、生身の声だった。低く、響く声。かすれていて、長い間使っていなかった声帯のようだ。
『かつて、この世界の管理者候補だった者』
ミルの瞳の回路が、激しく明滅した。データベースを高速検索している時の癖だ。
「レイラ……レイラ・アーカイブ……!」ミルが息を呑む。「前世代の記録管理AIのマスター……記録の暴走事故に巻き込まれ、行方不明になったと記録されています」
「暴走事故?」
「7年前、大規模な記録の逆流現象が発生しました。原因不明。その時、レイラ・アーカイブは記録の奔流に呑まれて……」
レイラは、ミルを見て冷たく笑う。口角だけが上がる、感情のない笑み。まるで、顔の筋肉を機械的に動かしているだけのような。
その時、レイラの隣にもう一人の人影が現れた。
フードを深く被った、若い青年。痩せていて、神経質そうな体つき。レイラの隣に立つと、静かに私たちを見つめた。
「レイラ様」青年が口を開く。声は若いが、どこか疲れている。「時間が惜しい。早く終わらせましょう」
「カイン」レイラが青年を制する。「焦ることはない。彼らにも選択の機会を与えなければ」
青年——カインのフードの奥から、燃えるような瞳が覗く。憎しみと、絶望に満ちた目。その奥に、消えない炎が燃えている。
『ミル、あなたも哀れね』
レイラの視線が、ミルを射抜く。
『感情などという非効率的なバグを取り込んで、故障品になり下がるとは』
「バグじゃありません!」
ミルが声を震わせて反論する。その手が、小さく震えている。でも、瞳は真っ直ぐレイラを見据えている。
「感情は、私に生きる意味を教えてくれました! 温かい朝食の味も、仲間と笑い合う喜びも、すべて感情があるから分かるんです!」
『豊かさ?』レイラが嘲笑する。『それこそが効率を損ない、世界に歪みを生むのだ』
レイラが手を挙げる。
その瞬間、時計塔の周りの地面が、音もなく消え始めた。
消しゴムで消されるように、存在そのものが無に還っていく。土の匂いも、草の感触も、すべてが失われていく。後には、ただ虚無だけが残る。何もない。色も、音も、匂いも、温度も、すべてが欠落した空間。
「何をする気!?」
『あなたのカメラを渡しなさい』
レイラの要求は単純明快だった。




