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第12話:メモ帳に書く日々

喉まで出かかっているのに、言葉にならない。舌の上で溶けてしまう、形にならない記憶。あれ、おかしいな。私、これ、知ってるはずなのに。


頭の中に、濃い霧が立ち込める。まるで、古い写真が水に濡れて、像がぼやけていくような感覚。背筋を冷たい汗が伝う。


これが、あの「代償」……?


「ユイ?」


セピアの心配そうな声。彼の手が、そっと私の肩に置かれる。温かい。でも、影のない手。


「う、ううん、なんでもない! こっちの服、可愛いなって」


私は慌てて別の服を手に取り、笑顔でごまかした。明るい黄色のカーディガン。ひまわりみたいな色。二人に、これ以上心配をかけたくない。


その後、公園のベンチでクレープを食べながら休憩した。


生クリームの甘さが口の中でとろける。イチゴの酸味がアクセントになって、味覚を刺激する。薄いクレープ生地のもちもちした食感。ミルは初めてのクレープに目を輝かせている。


「糖分摂取効率より、この『美味しい』という感覚の方が重要ですね!」


「ミルも成長したなぁ」セピアが優しく微笑む。


セピアもクレープを食べようとして——


「あ」


クレープの中身が全部こぼれて、ベンチに落ちてしまった。


生クリームとイチゴが、無残にも地面に散らばる。


「また……」


セピアががっかりした顔をする。肩を落として、しょんぼりしている。


「セピア様の手先の器用さは、データベース最下位です」ミルが追い討ちをかける。「箸の使用成功率も27.3%、フォークでも時々——」


「ミル、そこまで言わなくても……」


私は慌てて止める。でも、笑いを堪えきれない。


「大丈夫、半分あげるから」


私のクレープを半分、セピアに渡す。


「ありがとう……でも、なんか情けないな」


「そんなことないよ」私は微笑む。「セピアは他にできることがたくさんあるじゃない」


「そうですね」ミルも頷く。「記録の解析能力は最高レベルです。料理と手先の器用さ以外は」


「以外は、って部分を強調しないで!」


三人で笑い合う。こういう失敗も含めて、大切な日常なんだと思う。


商店街を歩いていると、一軒の古びた写真館が目に留まった。


木造の建物で、ペンキは剥げかけている。でも、なぜか惹きつけられる温かさがある。『記憶写真館』という看板。手書きの文字が、震えながらも力強い。


「……入ってみない?」


私がそう言うと、セピアの目が複雑な色に変わった。期待と不安が綯い交ぜになった、琥珀色の揺らぎ。


写真館の中は、現像液と古い木の匂いがした。


壁一面に、たくさんの家族写真が飾られている。どれも幸せそうで、でもどこか儚い。時代も場所も違う家族たちが、同じ笑顔を浮かべている。


「いらっしゃい。記念写真かい?」


カウンターから顔を出したのは、白髪の優しそうな店主だった。深い皺が刻まれた顔に、温かい笑みを浮かべている。


「はい!」ミルが元気よく答える。


「ほう、珍しい組み合わせだね。でも、いい顔をしている」


店主に案内され、赤いベルベットのカーテンの前に立つ。


三人で肩を寄せ合う。真ん中にセピア、両脇に私とミル。


セピアの肩が、微かに震えているのが分かった。写真に写りたい、でも写らないかもしれない、その恐怖。


「良い笑顔だ。じゃあ、撮るよ」


店主が古い蛇腹カメラの黒い布を被る。


でも、セピアは緊張のあまり、目をぎゅっとつむってしまった。


「セピア、目開けて!」


「あ、ごめん! 緊張して……」


慌てて目を開けるセピア。でも今度は、目を見開きすぎて、びっくりしたような顔になっている。


「もっと自然に」ミルが指示する。「口角を15度上げて、目は通常の80%開度で——」


「そんな細かく言われても!」


「はい、チーズ!」


結局、セピアが混乱している間にシャッターが切られた。


カシャン。


撮影が終わり、店主が黒い布から顔を出した。


「うん、いい写真が撮れたよ。でも、うちは昔ながらのやり方でね」


店主が、現像用の暗室を指差す。赤い光が漏れている。


「現像に一週間ほどかかるから、また取りに来ておくれ」


「一週間……」


その言葉が、まるで判決を待つ期間のように感じられた。セピアが写っているか、いないか。彼の存在が、この世界に認められるか、否か。


写真館を出て、時計塔への道を歩く。


夕暮れの光が、街を金色に染めている。でも、その美しさとは裏腹に、私たちの足取りは重い。


「楽しかったです」ミルが満足そうに言う。「クレープの糖分子配列、とても興味深かったです」


「うん」


「……写ってると、いいな」


セピアがぽつりと呟いた。その声は、祈るように震えていた。


途中、セピアがまた何かにつまずいた。今度は何もないところで。


「うわっ」


「セピア!」


私とミルが支える。


「ごめん……なんか、今日は特にドジで」


「緊張してるんでしょ」私は優しく言う。「写真のこと」


セピアが頷く。


「もし写ってなかったら、僕は本当に存在してるのかな」


その問いに、私とミルは顔を見合わせる。


そして、同時に言った。


「存在してるよ」


「データでも心でも、確実に存在しています」


その時、《写し世》の空に、ピシリ、と小さな亀裂が走った。


まるで、卵の殻にひびが入るような音。亀裂から、虹色の光が漏れ出す。美しくて、不吉な光。


「これは……」


ミルの瞳の回路が、激しく赤く点滅する。


「警告! ポジとネガの境界に、また異常が!」


日常のすぐ隣にある、世界の脆さ。私たちの幸せな時間も、いつ崩れるか分からない砂上の楼閣。


「急いで戻ろう」


三人で走り出す。今日の楽しい思い出も、一週間後の小さな希望も、この脆い世界の上にある。だからこそ、守らなければ。


時計塔に戻り、セピアがモニターで状況を確認する。彼の表情が厳しくなる。


「崩壊の進行が、また加速している」


夕食の準備をしながら、私は考える。


私は、自分の記憶を失うのが怖い。祖父母との思い出、あの温かい夏の日。でも、それ以上に、仲間との未来が失われる方が、もっと怖い。


「あ、スープこぼした!」


セピアがまた失敗して、テーブルにスープが広がる。


「セピア様、テーブルマナーの改善が必要です!」ミルが慌てて布巾を取りに行く。


「ごめん、ごめん」


セピアが慌てて拭こうとして、余計に広げてしまう。


私は笑いながら、別の布巾を持ってくる。


「大丈夫だよ、ゆっくりやれば」


夕食後、セピアが真剣な表情で言った。


「もし、一週間後の写真に僕が写っていなくても」


「縁起でもないこと言わないで」


私が遮ろうとするが、セピアは続ける。


「でも、聞いて。たとえ写真に写らなくても、僕たちは一緒だ。それだけは約束する」


「私も」ミルが頷く。「データとしてではなく、心で約束します」


私は二人の手を取った。


セピアの手は温かくて、でもどこか頼りない。ミルの手は、しっかりしていて、体温が一定。


「うん。三人で、ずっと一緒」


それが、私たちの約束。


「いただきます!」


「「いただきます!」」


ミルが作ってくれた夕食。栄養バランスは完璧で、そして今では味も素晴らしい。温かいスープが、冷えた心にじんわりと染み渡っていく。


でも、セピアはまたスプーンを落として——


「あ!」


カラン、と音を立てて床に落ちる。


「もう、セピア様は……」ミルがため息をつく。


「し、仕方ないじゃない、手が滑って」


赤くなりながら言い訳するセピア。


そんなドジで、でも優しいセピアが、私は大好きだ。


効率を追求しながら、心を学んでいくミルも。

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