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第11話:名前を忘れる恐怖

「私も、もっと料理の腕を上げないと」ミルが呟く。「効率だけじゃなく、心を込めることも大切ですから」


その夜、私は部屋で一人、今日のことを振り返った。


机の上には、撮らなかった写真の代わりに、スケッチブックを広げる。


記憶を頼りに、老夫婦の姿を描く。下手くそな絵。でも、心を込めて。


手を繋ぐ二人。


夕暮れを見つめる横顔。


優しい笑顔。


これが、私なりの記録の残し方。


写真じゃなくても、心に刻まれた記憶を、形にすること。


窓の外では、《写し世》の星が静かに流れている。


その中に、金色に輝く二つの星が、寄り添うように流れていくのが見えた気がした。


老夫婦の記録が、最後に見せてくれた輝き。


「ありがとう」


私は小さく呟いた。


「大切なことを、教えてくれて」


すべてを救うことはできない。


でも、出会った記録一つ一つを、大切に心に刻んでいこう。


それが、私なりの《写し手》の在り方。


明日も、新しい記録と出会えますように。


そして、いつかセピアにも、影ができますように。


そう祈りながら、私は静かに眠りについた。


夢の中で、老夫婦が手を振っているのが見えた。


「ありがとう」と、言っているような気がした。


あの丘での一件以来、時計塔には静かで、少しだけぎこちない時間が流れていた。


朝の食堂。窓から差し込む光が、テーブルの上で複雑な陰影を作っている。セピアの影だけがない、不完全な幾何学模様。でも、その不完全さも含めて、私たちの日常だった。


ミルが私の前に、湯気の立つスープを置いてくれた。野菜の甘い香り、バターのコク、そして微かにスパイスの刺激。完璧な栄養バランスと、今では「美味しさ」も両立させた、彼女の自信作だ。


「栄養素配分、最適化完了。でも、それより大事なのは……」ミルが少し照れながら言う。「ユイが元気になってくれることです」


セピアは何も言わずに、私の隣に座ってお茶を淹れてくれる。紅茶の葉が湯の中で開いていく様子を、じっと見つめる。茶葉が踊り、琥珀色に染まっていく湯。その一つ一つが、記録として存在する瞬間。


でも、お茶っ葉を入れすぎて、ものすごく濃いお茶になっている。


スプーンが立ちそうなくらい、真っ黒だ。


「セピア、それ飲めないよ」


「え? あ、あれ?」


セピアが慌てて茶葉の缶を見る。大さじ一杯のところを、そのまま大量に入れてしまったらしい。缶を傾けすぎて、ドバッと入ってしまったようだ。


「ごめん、料理とか全然ダメで……」


セピアが困ったように頭を掻く。その仕草が、妙に人間くさくて可愛い。


「データによると、セピア様の料理成功率は3.7%です」ミルが容赦なく指摘する。「昨日の味噌汁は、砂糖と塩を間違えていました」


「そ、それは言わないでよ!」


セピアが慌てる。顔が赤くなっている。記録の存在なのに、血流があるのか。


私は久しぶりに笑った。老夫婦の記録を救えなかった罪悪感で塞ぎ込んでいたけど、二人の優しさとドジな一面が、心を和ませてくれる。


「ねえ、ユイ」


セピアが新しいお茶を淹れ直しながら口を開いた。今度はちゃんとミルが見張っている。


「今日は三人で、記録商店街に行かないかい?」


「記録商店街?」


「ああ。様々な時代の、ありとあらゆるお店の記録が集まっている場所だ。きっと楽しいよ」


それは、塞ぎ込みがちな私を元気づけようとする、彼なりの優しさなのだろう。セピアの提案に、ミルも瞳を輝かせる。


「賛成です! 商業施設の記録データベース、まだ未解析でしたから!」


「……うん、行く」


私は小さく頷いた。このまま部屋に籠っていても、何も変わらない。それに、二人が心配してくれているのが分かる。


記録商店街への道は、時間の迷路のようだった。


一歩進むごとに、時代が変わる。大正ロマンの石畳から、昭和レトロなアスファルトへ。平成のインターロッキングから、令和の環境配慮型舗装へ。足音も、コツコツからペタペタ、カツカツへと変化していく。


空気の匂いも刻々と変わる。石炭の煤、ガソリンの排気、そして電気自動車時代の無臭の空気。それらが層になって、鼻腔をくすぐる。


途中、セピアが石につまずいて転びそうになった。


「わっ!」


私とミルが両側から支える。


「ごめん、影がないから距離感が……」


セピアが苦笑いする。


「データによると、セピア様の転倒回数は月平均——」


「ミル、それ以上は言わないで!」


セピアが慌てて止める。必死な顔が、なんだか可愛い。


「到着です!」


ミルが指差した先には、想像以上に賑やかで、色彩に溢れた空間が広がっていた。


昭和レトロな駄菓子屋の隣に、平成初期のファンシーショップが建つ。きらきらしたシールやキーホルダーが、窓越しに虹色の光を放っている。その向かいには大正時代のモダンなカフェ。珈琲の香ばしい匂いが漂い、蓄音機から流れるジャズが耳に心地いい。


時代も国もバラバラな記録が、不思議な調和を保って存在していた。まるで、人類の商業の歴史が、一つの場所に凝縮されたような。


「すごい……」


私は思わず息を呑んだ。ここには、失われた日常の温かさがある。


「セピア様、これはどうですか?」


最初に飛び込んだのは、80年代ファッションの洋服屋。ミルが手に取ったのは、ショッキングピンクのシャツだった。蛍光色が目に痛いほど鮮やかで、肩パッドが異様に大きい。


「いや、ちょっと派手すぎないかな……」セピアが苦笑いする。


「では、これは?」


今度はスパンコールだらけのジャケット。光が当たるたびにギラギラと反射して、まるでミラーボールのよう。


「もっと派手になってる!」


「AIによる分析の結果、これが最もセピア様の存在感を高めると算出されました!」ミルが真剣な顔で主張する。「可視光反射率を最大化することで、影の不在を補完できます!」


「効率とファッションは関係ないから!」


セピアの困り顔を見て、私は久しぶりに、心から笑った。肺の奥から湧き上がる、温かい感覚。


「これはどう?」


私がセピアの瞳の色に合わせて選んだ、落ち着いたブルーのシャツ。深い青に、細かい白の糸が織り込まれていて、光の加減で表情が変わる。


セピアが試着して戻ってきた時、私もミルも息を呑んだ。


「素敵……」


でも、セピアはシャツを前後逆に着ていた。


タグが前に出ていて、首の部分がきつそうだ。


「あの、セピア……」


「どうかな? なんか首が苦しいんだけど」


首元を引っ張りながら、不思議そうな顔をしている。


「逆です」ミルが指摘する。「前後が反対です。視覚認識エラーですか?」


「え!? あ、本当だ!」


セピアが慌てて試着室に戻る。ガタガタと音がして、何かにぶつかったような声が聞こえる。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫! ハンガーに絡まっただけ!」


出てきた時には、髪がぼさぼさになっていた。


慌てて着直すセピアに、私たちは大笑いした。


「セピア様の空間認識能力、再調整が必要かもしれません」ミルが真面目な顔で分析する。


「そんな大げさな!」


「ユイも何か選んで」


セピアに言われ、私も店内を見て回る。古着の匂い、布地の手触り、ハンガーが擦れる音。五感で感じる、失われた時代の記録。


ふと、ショーウィンドウに飾られた、懐かしいデザインのワンピースが目に留まった。


淡い花柄のワンピース。袖口にレースがあしらわれていて、裾がふわりと広がるAライン。確か、小さい頃に祖母がよく着ていたような……。


「このワンピース、名前、なんて言うんだっけ……」

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