第10話:記録された幸せ
「疲れました」ミルが珍しく弱音を吐く。「この身体の歩行効率、もっと改善の余地があります」
「運動も大事だよ」私は励ます。「ほら、あと少し」
丘の頂上に着くと、そこには小さな家があった。
赤い屋根、白い壁、青い扉。まるで、絵本から飛び出してきたような、可愛らしい家。庭には花が咲いていて、洗濯物が風に揺れている。煙突からは、細い煙が立ち上っている。
「ここは……?」
「記録の家だよ」セピアが説明する。「特別な記録が、家の形を取って実体化している」
扉が開いて、老夫婦が出てきた。
白髪の優しそうなおじいさんと、眼鏡をかけたおばあさん。二人とも、柔らかな笑顔を浮かべている。
「あら、お客さん」おばあさんが嬉しそうに言う。「久しぶりね。お茶でも飲んでいかない?」
「こんにちは」私たちは挨拶する。
でも、よく見ると、老夫婦の姿は少し透けている。半透明で、向こう側の景色が微かに見える。そして、時々、像がぶれる。古いフィルムの傷のように。
家の中に案内される。
温かい。暖炉に火が燃えていて、部屋全体が柔らかい温度に包まれている。壁には、たくさんの写真が飾られている。若い頃の二人、子供たち、孫たち。幸せな家族の歴史。
「どうぞ、座って」
おじいさんが、ロッキングチェアを勧めてくれる。ギシギシと音を立てる、年季の入った椅子。座ると、不思議と落ち着く。
おばあさんが、お茶とクッキーを出してくれた。
紅茶は温かく、クッキーは素朴な甘さ。バターの香りが鼻をくすぐる。
「美味しい」私は素直に感想を言う。
「ありがとう」おばあさんが微笑む。「昔からの、我が家のレシピなの」
でも、その笑顔が、時々歪む。テレビの電波が乱れた時のように、顔がぶれて、二重に見える。
「あなたたちは……」ミルが遠慮がちに質問する。「どのような記録なのですか?」
老夫婦は、顔を見合わせて、優しく微笑んだ。
「私たちは、最後の夕暮れの記録よ」おばあさんが答える。
「最後の?」
「そう」おじいさんが頷く。「私たち、本当は50年前に亡くなったんだ。でも、最後に見た夕暮れがあまりに美しくて、その記憶だけが、ここに残っているんだよ」
窓の外を見ると、確かに美しい夕暮れが広がっていた。
オレンジと紫のグラデーション。雲が金色に輝き、地平線が燃えるような赤に染まっている。時間が止まったような、永遠の夕暮れ。
「きれい……」
「でしょう?」おばあさんが嬉しそうに言う。「この景色を、二人で見たのが、最後だったの」
「手を繋いでね」おじいさんが付け加える。「『きれいだね』『うん、きれいだ』って、それだけの会話だったけど」
二人は、自然に手を繋ぐ。皺だらけの手と手。でも、その繋がりは、どんな若い恋人たちよりも強く見えた。
私は、思わずカメラを構えた。
「撮ってもいいですか?」
「もちろん」二人が頷く。
ファインダーを覗く。
すると——
「!」
ファインダーの中で、老夫婦が変化した。
透明だった体が、はっきりとした輪郭を取り戻す。皺の一本一本まで鮮明に見える。服の布地の質感、髪の毛の一本一本。そして、瞳に宿る深い愛情。
でも、同時に、別のものも見えた。
彼らの周りに、黒い靄のようなものが漂っている。それは、忘却の影。時間と共に、彼らの記録を侵食していく、静かな死。
「これは……」
理解した。この老夫婦の記録は、もうすぐ完全に忘れ去られようとしている。誰も思い出す人がいなくなり、記録としても消えようとしている。
私がカメラを下ろすと、老夫婦の姿がまた透けて見える。さっきより、もっと薄く。
「私たちのこと、見えたのね」おばあさんが静かに言う。「もうすぐ、消えるって」
「でも、いいの」おじいさんが微笑む。「十分、幸せだったから」
「待って」私は慌てて言う。「撮らせてください。記録として、残させてください」
そうすれば、彼らは消えない。私の写真が、彼らを《写し世》に繋ぎ止める。
でも——
老夫婦は、優しく首を振った。
「ありがとう。でも、いいの」
「どうして?」
「すべての記録には、終わりがあるのよ」おばあさんが言う。「それが、自然なことなの」
「でも、消えてしまったら——」
「消えても、私たちが生きたという事実は変わらない」おじいさんが言う。「愛し合ったことも、幸せだったことも、すべて本物だった」
二人は、窓辺に立って、夕暮れを見つめる。
手を繋いで、肩を寄せ合って。
50年前と、同じように。
「ねえ」おばあさんが、おじいさんに言う。「きれいね」
「うん」おじいさんが答える。「きれいだ」
その瞬間——
二人の姿が、光の粒子になって崩れ始めた。
足元から、ゆっくりと。金色の粒子が、風に乗って舞い上がっていく。
「ありがとう」
老夫婦が、私たちに向かって微笑む。
「訪ねてきてくれて。最後に、誰かと話せて、嬉しかった」
私は——
カメラを構えた。
シャッターボタンに、指をかける。
(撮れば、救える)
(でも、彼らは望んでいない)
(どうすればいいの?)
葛藤が、心を引き裂く。
セピアが、そっと私の肩に手を置いた。
「ユイ」
「でも、このままじゃ……」
「すべてを救うことはできない」セピアが静かに言う。「それも、《写し手》の宿命なんだ」
ミルも、データを見つめながら呟く。
「記録消失まで、あと13秒……でも、これが彼らの選択です」
老夫婦は、最後まで微笑んでいた。
「大丈夫」おばあさんが言う。「怖くないわ。だって、一緒だもの」
「そうだね」おじいさんが頷く。「一緒なら、どこへでも行ける」
そして——
完全に、光となって消えた。
後には、空っぽの家と、永遠の夕暮れだけが残った。
私は——
結局、シャッターを切らなかった。
いや、切れなかった。
彼らの最後の願いを、尊重したかったから。
でも、今でも迷っている。
あれで、本当に良かったのか。
カメラを握る手が、震えている。
「私、《写し手》失格かもしれない」
涙が、頬を伝う。
「そんなことない」セピアが言う。「君は、彼らの意志を尊重した。それも、大切な選択だよ」
「でも、セピア様の場合とは違います」ミルが論理的に分析する。「セピア様は存在を望みました。しかし、彼らは——」
「うん、分かってる」私は涙を拭く。「でも、やっぱり辛い」
帰り道、私たちは無言で歩いた。
夕日が、私たちの影を長く伸ばしている。
セピアの影だけがない、不完全な影絵。
「ねえ」私が口を開く。「記録って、なんのためにあるんだろう」
「難しい質問だね」セピアが答える。
「データベースにも、明確な答えはありません」ミルが言う。
でも、私は思う。
記録は、ただ残すためだけにあるんじゃない。
誰かの生きた証を、次に繋ぐためにある。
老夫婦は、もう写真には残らない。
でも、私の心には、確かに残っている。
手を繋いで、夕暮れを見つめる二人の姿。
「きれいね」「うん、きれいだ」
そのささやかで、美しい最後の会話。
時計塔に戻ると、食堂にセピアが用意した夕食が待っていた。
「セピア、料理したの?」私は驚く。
「う、うん。ちょっとね」セピアが照れくさそうに言う。「ミルに教わりながらだけど」
テーブルには、シンプルなスープとパン。
でも、スープは塩辛すぎて、パンは焦げていた。
「ごめん、失敗した」セピアが落ち込む。
「ううん」私は笑顔で言う。「美味しいよ」
そして、本当に美味しかった。
不器用でも、心がこもっているから。




