第9話:忘却の獣
ミルが前に出る。瞳から光線が放たれ、空中に立体的な防御壁を展開する。幾何学模様の壁が、記録の弾丸を受け止める。
「フォトグラメトリ・シールド展開! でも、数が多すぎる!」
壁に次々とひびが入っていく。ミルの額に、汗のようなものが浮かぶ。
「ユイ、急いで!」
私は深呼吸をして、カメラの設定を調整する。
「露出を最大に! ISO感度も限界まで上げる!」
カメラが唸りを上げる。レンズが熱を帯び、ボディが震える。祖父のカメラが、限界を超えた力を引き出そうとしている。
「行くよ!」
シャッターボタンに指をかける。
カシャーーッ!
強烈な光が奔流となって獣を包み込む。まるで、太陽を直接ぶつけたような眩しさ。現像液が沸騰するような音がして、獣の体表が溶け始める。
「効いてる!」セピアが叫ぶ。
でも、獣も最後の抵抗を見せる。
体中から、黒い触手が無数に伸びてくる。それは、純粋な忘却の具現化だった。触れたものすべてを、無に還す力。
触手が、私たちを取り囲む。
「まずい!」
一本の触手が、ミルの防御壁を突き破る。そして、ミルの腕をかすめた。
「きゃあ!」
ミルの腕のデータが、一瞬で消失する。腕があった場所に、ノイズが走る。
「ミル!」
「大丈夫……自己修復プログラム、起動」
でも、明らかに苦しそうだ。瞳の光が弱まっている。
「ユイ、決めて!」セピアが叫ぶ。
彼も限界だった。体の半分が透けて、向こう側の景色が見える。それでも、私たちを守ろうと、必死に壁を維持している。
私は覚悟を決めた。
「長時間露光、開始!」
シャッターを開きっぱなしにする。レンズが世界中の光を集め始める。カメラが悲鳴を上げるように熱くなっていく。金属が焼ける匂い。レンズが割れそうな音。
「ユイ、カメラが持ちません!」ミルが警告する。「内部温度、臨界点まであと10秒!」
「あと少し……!」
獣が最後の力で、巨大な触手を振り下ろしてくる。それは、私を押し潰そうとする、忘却の槌だった。
時間が、スローモーションになる。
触手が迫る。セピアとミルが、私を守ろうと動く。でも、間に合わない。
その時、私は見た。
獣の核の中に、小さな光があることを。それは、まだ消えていない、最後の希望の欠片だった。
「お願い、思い出して」
私は核に向かって叫ぶ。
「あなたたちは、忘れられたんじゃない! 私たちが、覚えてる!」
一瞬、獣の動きが止まる。
「今だ!」
シャッターを閉じる。
溜め込まれた光が、一気に解放される。それは、ただの光じゃない。私たちの記憶、想い、そして約束が込められた光だった。
光が核を貫く。
獣が、断末魔の叫びを上げる。でも、それは苦しみの声じゃなかった。
『アリガトウ』
安堵の声だった。
獣の体が崩れていく。でも、それは崩壊じゃない。解放だった。
無数の記録が、本来の形を取り戻して、空へと昇っていく。家族写真は家族の元へ、恋人たちの写真は愛の記憶へ、子供たちの写真は幸せな思い出へ。
最後に、少女の記録が、私たちの前を通り過ぎる。
彼女は、微笑んでいた。
そして、一枚の写真が、ひらひらと舞い落ちる。
それは、獣になる前の、美しい集合写真だった。たくさんの人々が、幸せそうに笑っている。
「終わった……」
私は膝から崩れ落ちる。カメラが、ずしりと重い。
その時、私は微かなめまいを感じた。
頭の中に、一瞬だけ空白が生まれる。まるで、フィルムの一コマが切り取られたような、奇妙な感覚。
何か、大切なものを忘れた気がする。でも、何を忘れたのか、思い出せない。
「ユイ?」セピアが心配そうに覗き込む。
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れただけ」
私は笑顔でごまかした。
でも、心のどこかで分かっていた。この力には、代償が必要なのだと。使うたびに、私の記憶のフィルムが、一コマずつ失われていくのだと。
「さ、帰ろう」セピアが私に肩を貸してくれる。
「はい!」ミルも、ボロボロになりながら嬉しそうに頷く。「今日は、お祝いにケーキを作りましょう! 効率は度外視で、美味しさ重視です!」
「いいね」
三つの影が、夕日を浴びて時計塔へと向かう。
長い影、短い影、そして影のないセピア。
でも、確かに三人で歩いている。
失われた記録たちの悲しみ、戦いの痛み、そして、得体の知れない小さな喪失感。
でも、それら全てを包み込むように、仲間との絆が、今はただ温かかった。
「ねえ」歩きながら、ミルが言う。「私、思ったんです」
「何を?」
「戦うって、怖いですね。でも、守りたいものがあるから、戦えるんですね」
「うん」
「それって、とても人間らしい」
ミルが微笑む。その笑顔が、夕日に照らされて、本物の人間みたいに見えた。
時計塔に着く頃には、空は茜色に染まっていた。
今日も、世界を少しだけ守れた。
でも、これは始まりに過ぎない。
もっと大きな戦いが、私たちを待っている。
そんな予感が、胸の奥で小さく疼いていた。
朝の時計塔は、いつもより静かだった。
窓から差し込む光が、食堂のテーブルに複雑な陰影を描いている。セピアの影だけがない、不完全な幾何学模様。でも、その不完全さが、なぜか美しく見える朝だった。
「今日は、ちょっと遠出してみない?」
セピアが朝食の席で提案した。パンを千切りながら、少し緊張した様子で私たちを見る。
「遠出?」
「うん。《写し世》の郊外に、古い記録の丘があるんだ。そこには……」
セピアが言葉を濁す。何か、言いにくいことがあるような表情。
「危険度の判定が必要です」ミルが即座に反応する。「座標を入力してください。脅威レベルを算出します」
「危険じゃないよ」セピアが苦笑いする。「ただ、少し切ない場所なんだ」
切ない場所。その言葉が、胸に小さな波紋を作る。
「行ってみたい」私は言った。「カメラの練習にもなるし」
実を言うと、時計塔での訓練に少し疲れていた。ミルの効率的すぎる特訓メニュー。朝5時起床、基礎訓練3時間、実践訓練4時間、データ解析2時間。体は鍛えられているけど、心が少し枯れそうだった。
「では、効率的なルートを算出します」ミルがデータを展開し始める。「最短距離なら徒歩47分23秒——」
「ミル」セピアが優しく遮る。「今日は、のんびり行こう。効率じゃなくて、景色を楽しみながら」
「景色を楽しむ……?」ミルが首を傾げる。「非効率的行動の意義が理解できません」
でも、その瞳の回路が、好奇心を示す金色に光っていた。
時計塔を出て、記録街の外れへと向かう。
道中、様々な時代の記録が混在する不思議な風景が続く。大正時代の石畳から、昭和のアスファルト、平成のインターロッキング。それぞれが層になって、歴史のミルフィーユのように重なっている。
歩いていると、時々、記録の断片が風に舞う。桜の花びらのような薄紅色の欠片。手に取ると、一瞬だけ、誰かの春の記憶が脳裏に浮かぶ。入学式、花見、新しい出会い。そして、すぐに消える。
「きれい……」
「でも、哀しいでしょ?」セピアが言う。「これらは全部、忘れられた記憶の欠片なんだ」
街を抜けると、なだらかな丘陵地帯が広がっていた。
草原は、モノクロなのに、なぜか温かみを感じる。風が吹くと、草がさざ波のように揺れる。その音が、まるで記憶の海の潮騒のようだ。
丘を登っていく。
一歩一歩、足を進めるたびに、空気が変わっていく。都会の喧騒から、田舎の静けさへ。そして、もっと深い、時間が止まったような静寂へ。




