3.七年前の後悔
魔王城の玉座の間を後にすると、そこかしこに魔族と人間が倒れていた。今回の魔王領遠征には百名の精鋭が集められていたが、生きている者がいないのか、音一つなく静まり返っている。
「イレネア、大丈夫?」
むせかえるような血の匂いだ。戦場慣れしていない女の子が、平気なはずがない。しかし、そう訊ねずにはいられなかった。
「ええ。まずは生存者がいないか確認しないと。セウォンズ、ここはお願いしてもいい?私は薬をとってくるわ」
気丈に振る舞う彼女の瞳はいつのまにか乾いている。こうして俺に指示を飛ばす姿は、一緒に辺境領の森で薬草探しの冒険をしていた頃を彷彿とさせた。
本当は彼女一人を連れて魔王城を脱することだけに集中したい気持ちもあったが、薬草博士の彼女がこの瞳をしているときに、人助けを邪魔することは誰にもできない。それにこの様子では助けられる人間の数はそう多くはないはずだ。
しかし、とにもかくにも俺を置いて今にも駆け出しそうなイレネアを止めに入らなければならない。
「いや一緒に行動しよう。まだ魔族の残党がいるかもしれない」
「大丈夫よ。薬品庫はすぐ近くなの。それに分かれて行動したほうが効率がいい。助けられる人も増えるわ」
分かれて行動しようというのは、イレネアお得意の弁だったが、それに従ったのはイレネアが行方不明になったあの日だけ。
俺はそれをずっと後悔して生きてきた。彼女の提案に頷けるはずがない。
「イレネアが本当に魔王の花嫁で、魔族が襲ってくることは絶対にないって言っても、俺はイレネアを一人では行かせられない」
「セウォンズ。さっきも言ったけどそれはデマなの」
「だったら生きているか分からない人間の命よりも、自分の命を大切にして」
「でも……」
「それとも俺がいると不都合?」
俺がそう言うとイレネアは返答に困ったかのか、ただ押し黙った。
「否定しないんだね」
イレネアには薬品庫を見られたくない事情があるのではないか。そんな疑惑が確信へと変わる。
大前提として、魔族には人間とは比較にならない驚異的な自己治癒能力が備わっている。そのため魔族が薬を使うなんて話は聞いたことがない。それにも関わらず、薬品庫が玉座の間のすぐ近くにあるというのは、いささか不自然だった。
自他共に認める薬草博士のイレネアが嫁入りした際に、魔王に我儘を言って作ってもらった部屋と考えた方がしっくりくる。
「その薬品庫には何があるの?」
「……私が作った瀕死状態でも回復できる薬があるの。それに魔王に使った魔族殺しの薬もあるわ」
「それだけ?」
「そうよ。そんなに気になるならいいわ。一緒に来て」
俺の追求から逃れるように視線を逸らしたイレネアが前を歩き始めた。その背中を慌てて追いかける。
「怒った?」
「⋯⋯セウォンズがそう思うなら、そうなんじゃない?」
昔のイレネアなら怒ってない!と噛み付いてきただろう場面だが、大人になった彼女は思わせぶりな台詞を言う。
俺が知らない時間を目の当たりにしているようで、複雑な気持ちになった。
こんなことをモヤモヤと考えてしまう俺は、あの頃と同じようには、もうイレネアのことを好きでいることができないのかもしれない。
それと同時に、彼女を信じられるかも問題だと痛感してもいた。
彼女の人間性を疑ったことはない。けれどそれゆえに、魔族と過ごすうちに絆され、騙されているのではないか、悪い思想に染まってしまっているのではないか。そんな疑念が次々と湧いてくるのだ。今この瞬間も人間を裏切っている、その可能性がないとは言えなかった。
いや、魔王は間違いなく死んでいた。死を覚悟した俺を助けるための咄嗟の行動だとしても、俺がそれを疑うのは違うのではないだろうか。
「セウォンズ」
不意に名前を呼ばれて、我に返った。思考の海に沈んでいて気がつかなかったが、先を歩くイレネアがいつの間にか立ち止まっている。その目の前には鉄製の扉が立ちふさがっていた。おそらくここが薬品庫なのだろう。他の扉の多くが木製なので、この部屋が魔王城の中でも特別な場所であることは明白だった。
「どうしたの?」
扉の前に立ち止まったまま動かないイレネアを不審に思い、その華奢な肩越しに扉を覗き込むと立派な南京錠がついている。
力業で壊せなくもなさそうだが、そのような真似、細腕のイレネアには到底できない。それにも関わらず、彼女は一人でここに向かおうとしていた。ならば、鍵を持ち合わせていると考えた方が自然だ。そう思ったのだが、違ったのだろうか。
「イレネア?鍵は持ってるの?」
「もちろん。鍵は持ってるわ。……でも、その前に言わせて」
イレネアがワンピースに手を入れると首から下がった鍵を取り出す。普段から肌身離さず持ち歩いていたのだろう。首紐の一部分が変色していた。
「ここで待っていてほしいという頼みなら聞けないよ」
「分かってる。ただ聞いてほしいだけ」
意を決したかのようにこちらを振り向いたイレネアが、大きく息を吸う。
「セウォンズ。私たちが最期に会った日のこと覚えてる?」
「忘れたことはないよ。あの日、魔王領の森で俺が魔物相手に怪我をして、イレネアは一人で助けを呼びに行った。程なくして大人たちが来たけど、イレネアの姿はどこにもなかった」
珍しい薬草を手に入れるために、立ち入り禁止の魔王領の森に二人で内緒で行きたいと言ったイレネアに、実力もないのに奢り高ぶっていた俺が考えなしに頷いたこと。そして、初めて魔物を相手にした時できた負傷の出血量に動揺して、よりによってイレネアを一人で行かせたこと。
俺が犯した間違い全て、鮮明に覚えている。
「あの日を後悔しなかった日は、一度もない」
けれど、例え彼女が見つかったとしても、謝るなんて烏滸がましい真似をするつもりはなかった。謝ればきっとイレネアは俺を許してしまうから。
本当は再会した時、イレネアに恨み言を言われることを覚悟していた。魔王領の魔物など相手にしたこともなかったのに、なぜあの日自信満々に『任せろ』と言ったのか、そう彼女に責められる夢をこの七年間で何度見たか分からないほどだ。
その夢のなかで何度謝って、その度に『お前の謝罪など聞きたくない』『楽になりたいだけの癖に』と、なじられる。
しかし、現実で彼女に再会を果たした今、その夢がいかに俺の独り善がりな幻想だったか自覚する。あの日のまま立ち止まっていたのは、多分俺だけだ。彼女はこの七年間には、新たな薬の制作や様々な出会いがあって、そんな毎日を楽しんだり、悲しんだりしながら、堅実に歩んできたのだ。
七年前のあの日を覚えてるかと訊ねたイレネアの顔に浮かんでいたのは、懐かしさとほんの少しの感傷。ただそれだけだった。
俺の中の一つの呪いが解けていく。
一国のお姫様で、俺の初恋であるたった一人の大事な女の子。そんな彼女を殺してしまったのではないか、生きていたとしても俺は一生の不幸に突き落としたのだと、そんなことばかりを考えていた。
しかし、目の前の彼女は大事な人の死に泣いていたにも関わらず、その涙をふいて、あの日と同じく誰かを救おうと動いている。
その事実に鼻の奥がツンとした。
「当時の俺はイレネアの護衛騎士として、何もかも未熟だった」
俺から零れ落ちたのはそんな独白。あの頃の俺には彼女の一番近くにいる、そんな自負があった。だからだろう。きっと彼女のことをどこか分かった気になっていた。けれど、イレネアは俺の想像をいつでも超えていくようなお姫様だったことを、いつの間にか忘れてしまっていたのだ。