1.物語の終わり
初恋の女の子が魔王領の森で行方不明になって七年。その子が魔王の花嫁に選ばれたと聞いて一年。俺はやっと魔王城に辿り着いた。仲間は全員道中に散ったのだろう。俺の隣には誰もいない。
目の前には因縁の魔王が玉座に腰をかけており、側には女が手を後ろに縛られ倒れ伏している。その長い白髪から僅かに覗く相貌は、かつて一緒に野山を駆けまわった少女の面影があった。
「なるほど。お前が勇者セウォンズか」
無言の睨み合いの末、最初に声を上げたのは魔王。頭に生える左右の角は、俺が今まで出会ったどの魔族よりも大きい。魔力が高い証拠だ。
「これはまた⋯⋯随分と背が低い」
こちらを煽るような魔王の含みのある笑いに、俺は思わず反論してしまう。
「成長期なんだよ!」
「確か勇者はイレネアと同い年の十七歳であったはずだが⋯⋯」
言葉を区切り、床に転がされたままの彼女と俺を見比べて、魔王は口の端を吊り上げる。
「イレネアの方がまだ背が高いな?」
「うるさいな!そんなこと、どうでもいいだろ!」
既についていた血ですべる剣を握り直しながら、俺は高らかに声を上げる。
「イレネアは返してもらおう!」
「ハッ。元よりお前のものではあるまい。勇者と呼ばれようが、お前は一介の辺境伯の息子に過ぎぬ」
どのような攻撃をされるか身構えるこちらを構いもせず、玉座に肘をついて俺を眺める様は不気味としか言いようがなかった。
「俺のものでなくとも、イレネアは我が国の一の姫。我が国の宝だ。魔王、貴様には断じて渡さない」
「……そっくりそのまま返そう。お前にイレネアは任せられぬ」
そう言った魔王がおもむろに手のひらをこちらに向けた。嫌な予感が働き横に飛ぶと、元いた位置に雷が落ちる。
「反射神経はいいようだな」
詠唱無しに繰り出されたその攻撃に魔王城の床は焼け焦げていた。
「……」
「恐ろしくて声も出ぬか」
「ぬかせっ」
距離をとっていても、あの雷が飛ぶのだとすれば、相手の懐が一番安全。跳躍して間合いを詰め、座ったままの魔王の喉元めがけて剣を振るう。その間、僅か一秒。
「もらった」
ピクリとも動かない魔王の様子に勝ちを確信した切っ先が喉笛をかく。そのはずだった。
「遅い」
何が起きたかは分からない。ただ、握りしめていたはずの剣が宙に舞っていた。剣が見えない何かにはじかれたように退けられた。そんな不気味な感覚を得た。
剣はそのまま後方に転がる。慌ててそれを拾うために後ろに下がろうとして、雷が真後ろに飛んだ。
「お前に必要なのは剣ではない」
焦げた剣は刀身が折れていて使いようのない代物になり果ててしまっている。こちらが唖然としているなか、魔王が悠然と玉座から立ち上がり、こちらに向かってくる。
「頭を働かせろ。お前が今ここに生きてるのは偶然か?」
「なにをっ」
なにを言っているのか。目の前に迫る魔王にそう問おうとした。しかし、その視界の隅で手を縛られたイレネアがこちらを見つめていることに気づく。
「否、偶然の産物など存在しない」
何やら説教を垂れながらこちらへ歩く魔王は、背後のイレネアが目を覚ましたことに気づいていない。
「偶然とは、生きとし生けるもの全ての考えが交差して出来た必然だ」
魔王が近づいてくる中、俺の手には折れた刀身のみ。形勢逆転出来るとは到底思えない。だが、一縷の望みは残った。
「魔王!」
「なんだ?命乞いか?」
俺が負けを確信しているように、勝ちを確信している魔王。遥か昔から、人間と魔族の間には覆らないほど、圧倒的な力の差があった。
しかし、それ故に人間には負け方というものが存在する。
「いけええええぇっ!」
腕に渾身の力をこめて、折れた刀身を目標に向かって投げた。
「ふむ。それがお前の答えか」
ぽつりと呟くような小さな声。刀身は魔王の肩をかすめたが、傷を与えることなく、玉座のそばに落ちた。
「そうだ」
魔王の歩みが止まる。いざ目の前にしてみると、やはり見上げるほど背が高い。俺の背丈を馬鹿にするわけだ。
「やはり勇者は好かん」
「俺も背が高い男は嫌いだ」
人生最期の言葉がこれでいいのか。そう思わなくもないが、これはこれで俺らしいかもしれない。
イレネアが落ちている刀身を上手く拾って、己の手を縛る縄を器用に切るのを見守ってから、俺は迫りくる死に目を閉じた。
出口である扉から魔王を遠ざけることができなかったことだけは悔やまれるが、彼女は賢いからどうにか逃げられる。
そう楽観視するしかない。
「イレネアは任せられぬ」
それほど重要でもないことを二度話す、想像の百倍は口数の多い魔王の小言に、思わず目を開けた。
「煩い!殺すならさっさと殺せ⋯⋯」
勢いよく飛び出した台詞は、眼前の光景に尻つぼみとなった。
「任せられぬと言ってるのに、な⋯⋯」
魔王がその続きに何を言おうとしたのか、俺には分からない。いつの間にか魔王の背後に迫っていたイレネアが、俺には届かなかったその首筋になにかを刺していた。
縄を切った刀身は床に転がっている。恐らくイレネアが魔王に隠し持っていただろう別の何か。それに刺され、魔王は背後のイレネアに寄りかかるように玉座へと後退する。
イレネアはそれに逆らうことなく、崩れ行く魔王を玉座に座らせて、その耳に何かを囁いた。それはとても小さくて俺には聞こえない。
「イレネア……?」
思わず口から飛び出した俺の呼びかけにハッと彼女は振り返る。記憶の中より随分と背が伸びたが、淡い紫色の凪いだ瞳はそのままだ。
「セウォンズ。なんて言ったらいいのか」
そう言って彼女がこちらに駆けてくる。いつも華やかな色のドレスを着ていたはずの女の子が、今は知らない黒のワンピースに身を包んでいた。その姿はまるで離れていた年月を表しているかのようだ。
「セウォンズ?」
「え、あ、いや。その、久しぶり」
情けないほどに裏返った声。それに彼女はくすくすと声を上げて笑う。
「セウォンズは変わらないわね」
その言葉がチクリと胸を刺す。
「そうかな?」
「そうよ。……さて、帰りましょうか」
「えっと魔王は」
「殺した。これ、魔族への特効薬なの」
そうサラリと言って見せてきたのは空の注射針。改めて魔王を振り返り見ると、玉座から崩れ落ちて伏している。
「本当なのか……?」
「あら?私を薬草博士と呼んでいたのはどこの誰だったかしら?」
「俺だけど」
「そうでしょ。懐かしいな」
「イレネア」
「ん?なーに」
「いやその、えっと。そう、これ。使って」
そう言って懐から大事に持っていたハンカチを取り出す。それはかつて彼女からプレゼントされたものだ。
「嘘。まだ持ってたの?」
「当たり前じゃないか」
イレネアが俺の十歳の誕生日プレゼントにくれた大切な品だ。ハンカチには十種類の薬草とその名前が刺繡されている。
「でも、どうして……もういらなくなっちゃった?」
「違う!」
俺からハンカチを受け取ったイレネアがとんでもない勘違いをしているので、自分で考えたよりも大きな声が出た。
「イレネアが泣いてるから!」
崩れ行く魔王の耳元に何か囁いた後、こちらに振り返った時からずっと彼女は泣いていた。微笑みを浮かべる口元に反して、彼女の紫色の瞳から流れ落ち続ける雫。それがとても痛々しくて、胸が苦しくなる。
「無理して笑わなくていいよ」
「……何言ってるのよ!無理なんかしてないわ。セウォンズに久しぶりに会えたんだから。これはそう、嬉し泣きね」
嘘だ。そう思ったが口にはしなかった。
初恋の女の子が魔王領の森で行方不明になって七年。その子が魔王の花嫁に選ばれたと聞いて一年。決して短くはない年月。
その間に何があったのかは分からないが、読唇術を会得していた俺は、彼女が崩れ行く魔王の耳元に何を囁いたのかを知っている。
『愛してる』
かつての初恋の女の子は、本当に魔王の花嫁になっていた。