回帰と再起
中学生になって、また環境が変わっていった。周りの子達は先輩や同級生と交際したり、校則を破ってお洒落したり、授業中にスマホを触ったり、妙な噂が流れたりもした。単に人が増えたせいか、それとも思春期の複雑な精神性が故か。先生が大変な職業だということを、初めて本気で思った。こんな、伏魔殿みたいな教室で、本心から分かり合える味方も居なくて一人きりだから。
その頃の私は、男子と一緒に運動することは無くなった。変わらず運動は好きだったけど、さすがにそういう時期ではないなっていうのがわかった。ただ、流行りのゲームやアニメの話は男子とする方が盛り上がるので、男子とはそういう話をする関係になった。他の学区の子達とは、授業や部活を通じて良好な関係を築いた。時折、授業中に寝て怒られたり、部活に遅刻して顧問から叱責されたこともあったけど、全ては自分の責任、自業自得だと受け入れることが出来た。勉強も部活も、何の不満も無かった。二年に上がるころには、気の置ける親友も出来て、順風満帆な学校生活を過ごせていて、自分の人生を歩んでいる実感があった。
スポッチャの一室には、ローラースケートやレンタルのセグウェイで遊ぶためのリンクが設置されている。ツルツルでピッカピカの床を見れば、このフィールドがどれほどの危険地帯なのかは一目瞭然。そんな空間に投げ込まれた二人の男女。当然、何も起きないはずもなく.....。手を取り合い、颯爽とリンクを駆ける姿は、さながら....
「ちょ、ちょっと待って!ちょっと待って!ちょっ、ちょっと待って!止まって!早く止まって!」
「んー。どうしようかな。」
「ほんと、お願いします!死ぬ!まじで死ぬから!」
「そんな簡単に人は死なないからさ。大丈夫だって。」
「いや、死ぬ!俺の心が死ぬから!」
「大丈夫。こんなの自転車みたいなもんだって。死なないよー。」
「自転車と違って初めての経験だから優しくしてって言ってんの!命の危機を感じたくないの!手取り足取りやって欲しいって言ってんの!」
「それだと今日中に滑れるようにならないよー。」
「そんなことは、一言も言ってない!」
弟をシバく姉。もしくは、姉にシバかれる弟。そのものだった。
「でも、高橋君が言ったんじゃん。滑りかた教えて下さいって。」
「それとこれとは別!...あ、先輩さっき卓球で負けたこと根に持ってるんでしょ。あ!ローラースケート選んだのは、そういうことだったんだ!先輩の、卑怯者!」
言ったなこいつ。よし。当初の予定通り、いじめ倒してやる。
「いやいや。高橋君の早とちりだよ。勘違いだって。勘違い。」
「ごめんなさい謝りますから早く止めて!まじで、死んじゃう!」
「死なない死なない。ほら。風が気持ちいよー。」
私は後ろ向きでも走れるのに情けないぞ。後輩くん。
「全然気持ちよくない!怖い!マジで怖い!あ、やばい。まじでこける。あ、もう、限界。先輩。これでラッキースケベ起きても、俺は責任取りませんからね!」
高橋君の顔は、瞬時に覚悟を決めた勇ましい漢の顔に変わった。私はそれを見逃さなかった。
「じゃあ止めるね。」
「....え?」
明け方のさざ波を思わせる緩やかな減速。そして、停止。安全第一。
「はい。ゴールに到着。」
「...。」
リンクを一周した高橋君の手は、力みが抜けないままブルブルと震えていた。
「いいとこで止めんなよぉぉぉ!」
高橋君の手が、絶望で震えていた。
「そっか。じゃあもう一周。」
「あ、それは聞いてな」
小学生の頃も、こうやってたくさんの男の子で.....男の子と遊んだなぁ。
あれは、かなり楽しかった。
「誰か助けて!俺、この女に殺されるぅぅ!!」
「大丈夫。私がついてるかぎり、高橋君は死なないよ。」
「助けてぇぇ!綾〇ぃぃぃ!」
周りの人達は、暖かい眼差しで私達を見守ってくれた。
夜凪の海を思わせる、穏やかな減速。そして停止。安全第一。いのちだいじに。
高橋君の目から光が消えていた。
その後も私達は勝負をした。バドミントン対決(勝ち)、バスケのフリースロー対決(負け)、バレーボール対決(勝ち)、サッカーPK対決(勝ち)、バブルサッカー相撲対決(負け)、ダンスゲーム対決(勝ち)、車の中でゾンビ撃つゲーム対決(負け)。どの勝負も笑いあり、涙無しの白熱した(ムキになった)対決だった。高橋君が男の子で後輩だったおかげで、私は全力で勝負に挑むことが出来た。
「最後にあれやりませんか?」
彼は少し疲れた声でそう言った。表情も少しだけ固くて、機嫌が悪いのかと一瞬思ってしまった。
「やる。」
「じゃあ、ホームラン打った方の勝ちで。」
それは、私の傲慢な勘違いだった。
「了解。」
野球の経験はほとんどないから、勝機は薄い。でも、別にいい。
「じゃあ、また後で。」
今はこのまま、勝負を楽しみたかった。
「うん。」
勝負は、引き分けだった。
十六時五十六分。
まだ、陽は沈んでいない。だが、電車の都合であまり悠長は出来ず、これから石英町へ帰るところだった。
「先輩見てください。」
「...ん?」
身体の疲労と心の余韻が合わさって、頭は蕩けて、身体はドロドロに溶けてしまったみたいに重かった。
「行きの電車で話してた席、空いてますよ。」
「...ほんとだ。」
扉の真横に設置された二人用の座席が空いている。ただ、他の席もガラガラだった。彼に催促されて、赤いモケット生地の椅子に座ると、途端に身体が軽くなった。何度か呼吸をすると強烈な眠気に襲われた。試しに右の瞼を閉じてみると、それは極限の快感へと変化していく。心地よい微睡みの中で、左の瞳には大きな彼が、ぼんやりと、映っていた。
「...高橋君は、座らないの?」
隣の席を左手でポンポンした。
「ここ、どうぞ。」
「...じゃあ、失礼します。」
高橋君は、少し離れたところに座った。
「高橋くん。」
「はい。」
「寝てもいい?」
「...。」
良くないことを言っているのだと、自覚がある。
「石英で起きなかったら、置いていきますね。」
自分勝手で、身勝手で、君に迷惑を掛けてしまう。
「ちゃんと起こしてね。」
でも、私がそうしたいから、そうする。
「じゃあ、おやすみなさい。」
これでいいんだと思う。
「先輩。起きてください。」
声が聞こえる。肩を優しく揺さぶられている。灰色の床に反射した光が眩しかった。
「先輩。もうすぐ着きますよ。」
「...起きてるよぉ。起きてるから...。」
まだ、身体が起きていない。瞼に力が入らない。強烈な眠気に抗えない。
「...先輩。先輩。起きてください。」
声が聞こえる。わかってる。わかってるから。
「もうちょっとだけ、待って。」
意識をして多めに息を吸う。数回瞬きをすると、霧が晴れていくみたいに頭の中が明瞭になっていった。
「...もう大丈夫。起きたよ。ありがとね。」
「はい。」
ほどなくして、電車は停車した。見慣れた景色は、昨日ぶりくらいに感じた。
「高橋君って、最寄り石英だったの?」
「いえ。違いますけど。」
「じゃあ、なんで降りたの?」
「送っていきますよ。家の近くまで。」
えぇ。こわ。
「高橋君って律儀なんだね。」
「律儀っていうほどでもないでしょ。」
まぁ、そういうことにしてあげよう。
「じゃあ、律儀じゃないかぁ。」
「いや、それは、ちょっと、違う。ちゃうねん。そういうことじゃないねん。もっとお淑やかに......」
相変わらずよくわからんなぁ。君は。
「そしたら、家の近くに公園があるからさ。そこまで送ってくれる?」
「はい。」
私達は、駅を後にする。暗くて静かで、見慣れた道。隣り合う電灯の明かりは重ならない。連なる円錐状の光が、視界の彼方まで続いている。私が先導して、彼が着いてくる。小学校の頃の集団下校を思い出した。
「ねぇ。高橋君。」
「はい。」
「日曜日って好き?」
後ろを振り返って、後ろ向きに前へ歩く。
「なんですか。急に。」
「いいからいいから。教えて。」
高橋君は腕を組んで、首ごと右斜め上の方を見ていた。シルエットだけを見れば、へそを曲げた人みたいなポーズをしていた。
「...嫌いですね。」
どちらかと言えば。という、接続詞が足りていないふわふわした回答だった。
「どうして?」
「学校が嫌いだからですかね。」
「...そっか。」
日曜日は学校無いじゃん?って思うのは、浅いぜ。諸君。
「どうして学校嫌いなの?」
「朝がだるいじゃないですか。」
普通だ。
「だるいよね。電車通学は。」
「ほんとですよ。」
「引っ越しすれば?」
「出来たらやってますよ。」
「それもそっか。」
普通だ。でも、悪くない。
「高橋君。一つ発表があります。」
「何ですか?」
高橋君を待って、前を向いて、一緒に歩く。
「私の辞世の句を、発表致します!」
「....。」
歓声とは言わずとも、小粋な拍手くらいはあると思っていたのになぜだろう。そこには想定外の沈黙があった。
「座右の銘じゃくて?」
.....。
「ごめん。さっき私、何て言った?」
「...辞世の句を発表しますって。」
そのあとのことは記憶から消した。彼のことをポコポコしていたことを、朧げに記憶している。
「と、いうわけで。目的地に着きました。」
東石英公園。小さい頃はお母さんと。小学生の頃は、友達と何度も遊びに来た。懐かしい場所。
「ここまでで大丈夫ですか?」
「うん。ありがとう。」
最近では、通学の時に視界の隅に移るだけの、なんでもない場所。
「今日は楽しかったですか?」
「楽しかったよ。」
「じゃあ、これでお礼は完了したと、そう思ってもいいですか?」
「..うん。ばっちりだよ。」
「...そうですか。それは良かったです。」
ほっとしたのだろうか。高橋君は、力みの取れた自然な表情をしていた。君が、このときのために頑張っていたのだと、分かった。
「俺行きますね。」
「うん。」
彼の姿が小さくなる。光の中に入っては、闇に消える。それを繰り返す。私も、もう振り向かなかった。
走る。走る。髪がすごく揺れて、息が喉の奥を裂く。胸のあたりからは血の匂いが漂ってくる。ふくらはぎが、太股が痙攣する。鼻の奥がジンジンと痛む。でも、足を止めたくない。今すぐに、私は、動きたいのだ。
ドアノブに手をかけて、最低限、息を整える。扉を開けて、靴を脱ぎ捨てた。
「お母さん、はぁ、ただいま。」
「ん?あぁ。かなちゃんか。お帰り。」
お母さんは台所で晩御飯を作っていた。
「ただいま。でね、お母さん。お願いがあるの。」
「う~ん。ご飯作ってからでもいい?」
「うん。大丈夫。」
でも、このままやりきらないと、この胸の熱が消えてしまう。今じゃないとだめだ。後で言おうとしても、まごつくだけだから。
「髪切ってほしいの。バッサリ。肩くらいまで。」
お母さんは、とんとん拍子で野菜を切っていく。
「別にいいけど。どうしたの?失恋でもした?」
「違うよ。ただ、邪魔だなって思っただけ。」
「そっか。じゃあ、先にシャワー浴びてきなさい。ご飯食べ終わったら切ってあげる。」
「ありがとう。お母さん。」
「はい。どういたしまして。」
お母さんは、黙々と調理を続けていた。
「じゃあ、あとでよろしくね!」
私は、バッグを部屋に放り投げた。
五月七日(水)
午前八時三十二分。
扉の前に、私は立っている。初めて見た扉。初めて踏み入れる階層。胸はざわつき、鼓動が全身に轟く。当然だ。つい先日まで、ここは自分にとっての禁則地だった。でも、もう大丈夫。私はもう一人になれる。一人で生きていける。このドアを開いてしまえばもう戻れなくても、そもそも戻る気なんて微塵もないのだから。ここはもう、私の新天地なのだ。
「入っていいよ。」
新藤先生の声。久しぶりに聞いた。
「はい。失礼します。」
こういうやり取りも久しぶり。さぁ、踏み入ろう。土足で駆け回ってやろう。
ん?
扉が、開かない。ふっ!ふんっ!ふんぬっ!
力の入れ方を色々試してみる。ドアを少し浮かせるように力を入れると、壁のようだった扉が多少動くことが分かった。つまり、ドアを少し浮かせてから、思い切り引くのが正解なのだろう。仕組みが分かれば大したことはない。というわけで、
いくそー。せーの、えい!
瞬間、気付く。扉がやけに軽いことに。
扉は既に、レールの窪みから正規のルートへと乗り上げていた。
「バアァァァン!!!」
轟音が鳴り響く。まぁ、いっか。
扉を閉めて、教壇の辺りまで歩を進める。さぁ。挨拶の時間だ。
「初めましての人は初めまして。お久しぶりの人は、おはようございます。足立 彼方です。半年くらい前に体調を崩してしまって、教室に足を運ぶことが出来なかったのですが、無事回復しましたので、今日から復帰します。これからよろしくお願いします。」
私は、真っ当な人間には変われなかったみたいだ。




