二十八の視線
五月三日 (晴)
十一時五十六分。
人々の雑踏と電車の行き交う音に塗れた半地下のような薄暗いホームに降りる。奔流のような人混みは足を止めることもできない。階段の手前で勢いが収まったかと思えば、エスカレーターを駆け上がる人を尻目に行軍のような無機質な移動を強いられている。向こう側の人々と合流して、検問のような改札を通り抜ける。隣の人も、向こうからやってくる人達もみんな、生気のない顔をしていた。
十二時三十二分。
「頼まないんですか?」
彼は語気を上げて言った。
「あぁ。ごめん。ちょっと迷ってて。」
「そうですか。じゃあ、俺お冷取ってきます。」
彼はゆっくりと席を立ち、奥の方に消えていった。気を遣わせてしまっただろうか。
「でも、これはちょっと...。」
タブレット端末に表示された右矢印をタップしながら、ふっと小さなため息をこぼす。少し高いお店とは聞いていたが、再安価のネタが三百円なんて聞いてない。お店には一つも文句はない。ただ自分がここに居るべきではないという緊張感が身体を強張らせた。
「...まぁ、後悔しても仕方ないか。」
納得はできなくても、理解はできている。帰ることもできないので、諦めて食べたいネタを探すことにした。
GWの大満足フェア!
鮪!大トロ・中トロ・赤身の本気三貫盛り!千円。
漁師激選!海鮮五種盛り!千五百円。
うなぎ握り寿司五貫盛り!二千円。
”特選!匠うな重!!!三千円。”
ゴールデンウィークのシーズン限定メニュー。この一品を頼むだけで外食一回分どころか、一日の食費が浮く。さすがにこれは頼めない。
「...でもなぁ、他のも全部やばいじゃん。」
他にも食欲をそそるネタの数々がタブレットに表示されている。サーモンの炙り、特大サイズの穴子一本握り、ほたて、蟹、大トロ、中トロ、真鯛...。食べたいと思ったネタはどれも高級品、ワンコインでは食べられない逸品なのである。
「美味しそうだと思ったやつ、全部高いな...。」
タブレットを机にそっと置き、両手で顔を覆い隠す。二時間を超える移動で疲労も空腹も限界に近い。もお腹クルペッコだよ。
でも、好き放題注文するのも違う気がする。マナーというか、礼儀というか、一般常識というか、私のセンスがそう言ってる。そもそも、高校生の資金力でこのお店のネタを好き放題食べることは不可能だ。数カ月分のお小遣いが飛ぶどころか、消耗品の補充すらままならなくなる。私の注文次第で高橋くんの今後の生活レベルが著しく低下してしまう。それは絶対にダメだ。というか、マナーの話をするなら、私よりも高橋くんが先に注文をするべきではないだろうか。私はご馳走になる側だし、高橋くんのお財布事情もある程度察しが付く。
でも、高橋くんの厚意を無下にしている感じがするというか、自分本位なのが良くない気がする。それでは高橋くんは満足しない。
「なら、いっそのこと私が自分で払えばいいじゃん。」
そうすれば私は好き放題注文できるし、彼も出費が半減して大喜び!一緒にご飯を食べて、美味しくてハッピーで大団円!倫理的にもおかしくない。むしろ良い!
そうと決まれば、あとはタイミングだ。彼が落胆しないような絶妙なタイミングで告白する必要がある。彼の性格的に、食事の前に言うのは悪手だ。頑固だし。あれこれ理屈をこねて私の意思をへし折りにくるはず。会計の前に話すのはどうだろう。お腹いっぱいで思考能力も鈍くなっているはず。お会計に行く前に、自分の食べた分の金額をぬるっと差し出せばアホ面で受け取るはず。
「合計で七千円になります。お会計は受付でお願いします。」
「はい。」
「うぇい。」
「高橋くん。これ、私の分のお金。」
三千五百円、ぬるっ。
「う、うぇいっす。」
いける。
あとは、計画が失敗した時のための予防策を立てる。何かの間違いで彼がお金を受け取らなかった場合の予防策。それは....。私がお会計の際にどさくさに紛れて支払うことだ。今お財布に入っているお金は、一万五千円。彼がフードファイターの系譜でもない限り、二人分の金額を払うことは可能だ。問題は彼が一瞬で支払いを完了させるスキル(万札一閃)を会得している場合だ。だが私も(万札一閃)を一度限りの条件付きで放つことができる。そして、互いに万札一閃を会得している場合、勝負はスピードで決まる。だが、私はトランプのスピードで負けたことはない。賭けスピードで何人も泣かせてきた。絶対に勝てる。レジ前では再試合も不可能だ。そうなればあとは、彼の女々しい文句を受け流すだけ。この二つの戦略で、彼の鉄壁のディフェンスを崩す。完璧だ。
いや、違う。これは、自分が楽しければいいと思ってるだけだ。勝手に一人で盛り上がって、周りのことなんて微塵も気にしていない。小さい頃からずっと治せない私の悪癖。
「...私って、なんでいつもこうなんだろう。」
自分が嫌になって机に顔を突っ伏す。視界が真っ暗になって、頭の中で声が響く。
(こんな下らないことで悩むくらいなら、最初から断っておけばよかった。)
本心ではない。はずなのに、心の影響しない部分でそう考えているのが分かる。こんな最低なことを、なんの恥ずかしげもなく思える自分が嫌いだ。自分の言動に責任がない。そのくせ問題があればすぐ誰かのせいにする。いつも他人事で自分勝手で、精神が子供のまま。
みんなに追いつかないといけないのに。もう大人にならないといけないのに。みんなが楽しそうに喋ってる流行りとか、お洒落とか恋愛とか、もっと興味を持たないといけないのに。受験とか就職とか将来の話とか、どうしてあんなに真面目に考えられるのだろう。
誰にも興味が湧かないから、誰とも仲良くできると思ってた。友達だと思っていた。友達と週末に出かけることも、チャットを送り合うことも、あんまり面白くないとは思ってたけどそれが友達だと思ってた。
でも、もう友達もいない。私の本性がバレたから。人をバージョン違いの機械みたいに見ているのがバレたから。きっと私は、この先誰とも分かり合えない。ひとりぼっちな人生を送る。だから、一つの障害もなくて、誰の干渉もなくて、何の変化もない、不自由のない自由な世界で生きたい。
だから、もう私を見ないでくれ。
「...。」
ただ、ご飯を食べるだけなのに。どうしてこんなに落ち込んでるんだろう。自分の現状に嫌気が刺して、場違いなことしてさ。机に突っ伏してる私を見て、店員さんや他のお客さんが声を掛けてきたらどうするの?なんて言い訳するの?バカなんだからしっかりしないと。高橋くんもすぐ戻ってくる。
ちゃんとしなきゃ。ちゃんと。ちゃんと...
「匠うな重二つ、お待たせいたしました。」
「ありがとうございます。」
「ごゆっくりどうぞー。」
...え?
「あ、先輩起きましたか。」
「...いつから居たの?」
サッと、髪を直しながら質問する。
「先輩が寝た少し後です。」
「...帰ってきてたなら言ってよ。」
「...言いましたよ。」
「そっか。」
君、影薄いって言われない?
「あと、これは?」
私の前に置かれたうな重に視線を向ける。
「あぁ。とりあえず一番高いやつ頼みました。それに、先輩疲れてそうだったので。」
「...。」
あぁ、この人多分、旅行先で迷わず名物料理食べられる人だ。
「うなぎ嫌いだったら、俺が食います。というか食べたい。」
高橋君の前に置かれた重箱には米一粒残っていなかった。
「食べるのはやくない?」
「いいえ。量が少ないんですよ。」
「...そう。」
どう見ても普通のサイズだけど。男の子からしたら小さいのかな。これ。
「でも、その分めっちゃ旨いっすよ。甘さがちょうどよくて、醬油風の塩味?がしっかり感じられて、めっちゃ箸が進みます。」
「...そっか。」
確かに。ウナギの香ばしい匂いがしていた。
「食べないんですか?」
「...。」
高橋君の目を見る。彼の目はひたすらにまっすぐだった。私のうな重に。
「...あげないよ。これは私のだから。」
「えぇ。めっちゃくれそうな雰囲気だったのに。」
「だめ。もう私のだから。」
重箱を手に取る。机が少し低くて、箸から落としてしまいそうだから。
「...わかりました。旨そうなの適当に頼んどくんで、適当に食べてください。」
「うん。ありがとう。」
きっと、また高いものを頼むんだろうな。そんなことを思いながら、うな重を口へ運ぶ。香ばしい香りを凝縮したタレの味が広がる。うな重特有の甘ったるい感じはなくて、身はふっくらしていて脂もほどほどに感じられる。うなぎの身とタレが絡むと旨みがグンと引き立てられて、タレの付いていない白米が欲しくなる。山椒は控えめで味変程度に抑えられていて、食べやすいうな重という印象を受けた。
私は食べるのがあまり早くない。お腹が痛くなるのが嫌いだから普段からよく嚙むことを意識していて、だいたい三十回くらいは嚙むことにしている。なのに、綺麗に食べているのに、よく嚙んでいるのに、この一口で終わってしまう。まだ食べたいのに。もう少し食べさせてほしい。そしたら満足できそうなのに。
「お待たせしました。鮪三貫盛りと、激選盛り、うなぎ握り五貫盛りになります。」
「ありがとうございます。」
「ごゆっくりどうぞー。」
...この人、ゴールデンウィーク限定の高いやつ全部頼んでる。でも、今回は一皿ずつなんだ。ふーん。まぁ、さすがに二皿ずつ頼むのは、あれだもんね。ちょっと高いもんね。さすがにね。
「先輩どれ食べますか?」
高橋くんは、私がうな重を食べ終わったのを確認して尋ねてきた。眼前にはゴールデンウィーク限定の逸品が三品も並んでいる。
「...うーん。どれにしよっかなぁ。」
どれも美味しそうすぎて直感では選べない。サシの入った大トロが輝く鮪三貫盛り。海老、サーモン、いくら、ぶり、マグロが山のように聳え立つ激選盛り。あと....うなぎ。
「....じゃあ、うなぎ。」
「そうですか。じゃあどうぞ。」
高橋くんは私の前に皿を差し出す。
「でも、俺も一つだけ、ウナギ食べたいなー。ウナギが食べたい気分だなぁ。五つもあるんだし、一つくらい俺に分けてくれても、いいんじゃないかなぁ!」
高橋くんの鋭い視線が、うなぎに突き刺さる。
「...やだ。」
「なんでなんですかあぁぁ!!!」
お笑い芸人みたいな大袈裟なリアクションが面白くて、笑ってしまった。
「あはは。冗談だって。はい。いっこあげる。」
「...はぁ!あっざすッ!!!」
私達はお寿司を堪能した。
ご馳走さま。




