結局、何もできなかった子供の頃が一番楽しかった。
仕事に行くお母さんを見送って、集合時間の十分前に着くよう家を出た。相変わらずの堅苦しい街並みに、逆に異変はないかと目を光らせる。だが、何もない。落ち着くような、期待外れでがっかりしているような、何とも言えない気分だった。馴染みの公園も、どこか色褪せて見えた。
私は無事、石英駅の西口に到着した。
「ごめん。待った?」
駅前の横断歩道から見えた、階段前の人影。それには見覚えがあった。
「いえ。さっき来たとこです。」
彼は冷ややかに告げる。
「そっか。」
なるべく視線を動かさず、彼の様子を伺う。強いて、何かを言うとするなら、格好が非常に簡素だったこと。肌触りの良さそうな無地の白パーカー、身軽そうな黒のスラックス、靴は赤いランニングシューズで、くるぶし丈の靴下を履いている。とにかく機能的で、物寂しい感じもする。
「じゃあ、行きましょうか。」
「うん。」
彼は前を往く。凹凸の擦り切れた踵が見えた。
少々頼りない自然光のもと、私達は長い階段を登っていく。彼はスタスタと軽い足取りだが、私は踊り場のあたりで軽く息が上がっていた。階段の先には、人の往来に配慮した幅広の通路がある。他の利用客もいなかったので、私達はその右端を歩いた。構内に三つしかない改札を抜けて、ホームへと降りる。段を降りるたび増えていく。長い影を落とす柱。俯いた利用客。ひび割れた点字ブロック。地平まで続く錆びついたレールと砂利。
私達は、日陰のベンチに向かっていた。
「すみません。俺、自販機で飲み物買ってきます。先輩は飲み物大丈夫ですか?よければ俺買ってきます。」
ベンチに着いてから彼は言った。
「私は大丈夫。これ。水筒持ってきたから。」
バッグの中から500mlの水筒を取り出した。ステンレス製のピカピカのワインレッドだったのは昔の話。今はカバーで傷を隠している。
「...まじすか。先輩まめなんですね。なんか、女子って感じします。」
「そっか。ありがと。」
「いえ。全然。じゃあ、飲み物買ってきます。」
「うん。」
ほどなくして、彼が戻ってきた。緑の楓の葉が描かれた天然水を買っていた。彼は私の隣に座ると、早速ペットボトルのキャップを開けて水を飲み始めた。彼の喉が数回、上下に動いたのを見ていた。水が残り半分くらいになっていたのが驚愕だった。
「あ。電車来ましたね。」
「...ほんとだ。」
彼の視線を追うと、遠くからこちらに向かってくる電車が見えた。かたん、ことん、という可愛らしい音も聞こえてくる。やがてそれは鈍重な音をまき散らす大蛇のようになって、私達の眼前で停止した。
「さて、行きますか。」
「うん。」
私達は、大蛇の横腹に飛び乗り、長い旅が始まった。
窓の外を眺めている。等速的に流れていく景色は穏やかだ。霞みゆくパステルカラーの空。太陽の光を反射する瑠璃色の海。眼下にはおびただしい数の一軒家が広がっている。列車は小さな山の麓をなぞるように走りながら、時々何かに躓いたようにガタンと大きく跳ねた。
「先輩。」
「ん?」
「先輩は普段どこに座りますか?」
彼はフラットな様子で訪ねてきた。
「それって、電車の席の話?」
「そうです。」
「どうして?」
「帰りは先輩の希望の席に座れるようにって。」
「あぁ。そういうこと。」
「はい。」
私達は今、ベビーカー用のフリースペースに二人で寄り掛かっている。正確にはフリースペースに取り付けられた手摺であり、ラバーとレザーの中間のような質感をしている。正直吊り革より幾分ましという感じだった。数年前の車両編成の変更がなければ、こんなことにはならなかった。
「...じゃあ、あの席が良いな。入り口の近くの、仕切りのある席。」
座席にこだわりはないので、気まずくならないように二人で座れる席を指定する。
「わかりました。じゃあ、帰りは絶対あそこに座りましょう。」
彼は拳を握り、覚悟を決めたような素振りを見せる。その時、視界の端に対岸の談笑中の利用客が見えた。フカフカのシートにどっしりと座って、何が楽しいのか思い切り笑っている。暖かい日差しに包まれている彼らのことが、少し羨ましかった。
しばらくの間列車は海沿いの道を進み、入口から出口まで一分くらいの長めのトンネルを抜けて、山道に突入した。今は、山をえぐり取った巨大な獣道のような線路を走っている。生命力に溢れた枝葉が窓をきしゃりと鳴らし、何色かの深緑で視界が埋め尽くされている。定期的に配置されたトンネルや茂みの奥ではスマホの電波が届かず、他の利用客はじっとしている傾向にある。
「先輩。」
「...何?」
「余計な一言ゲームしませんか?」
「...ごめん。もう一回言って。」
ついさっき、列車はトンネルへと突入した。鼓膜を揺るがす程の轟音が車両全体に響き渡る。
「余計な・一言・ゲーム・です!」
彼は聞き取りやすいように言い直してくれたが、意味不明な単語しか聞き取れなかった。
「なにそれ。」
間もなく、列車はトンネルを通過した。
「しりとりをして、余計なことを言い合うゲームです。」
既存のゲームに無茶な改造を施す臨場感、ライブ感のようなものが子供の遊びのようだと思った。もしかすると、彼が小学生の頃に流行った遊びかもしれない。
「そうなんだ。初めて聞いた。」
「俺も初めてです。今思い付いたので。」
「...そっか。」
うわ。変な子。
「やることないんで。付き合ってくださいよ。」
それは、一理ある。
「わかった。でも、先にお手本を見せてほしい。」
「わかりました。じゃあ、とりあえずしりとりから始めます。まずは、りんご...とい」
「ゴリラ。」
目と目が合う。
「あ!ごめん。...続けて。」
慌てて訂正すると、高橋くんは笑っていた。お手本を見せてほしいと言ったのは自分なのに、私は何を言っているんだろう。しかも、よりによってゴリラ...。野蛮な印象を与えてしまってはいないだろうか。あぁ。顔が暑い。
「改めて説明します。自分が「りんご」と言ったら先輩は「その心は?」と合いの手を入れてください。そうしたら、俺がりんごについてコメントします。」
なるほど。ゲームをしながら互いに情報を交換できるのか。しりとりだから、話題を選べるし案外合理的....なのかもしれない。
「それ必要なの?」
「ルールです。絶対順守です。やらないとゲームが進行できません。」
「...わかった。」
しりとりって、ルール一つじゃないんだ。
「ちなみに、ちゃんと俺も合いの手入れますので、どうぞご心配なく。」
「うん。」
強制的に合いの手を入れさせることによって、互いの緊張をほぐす。そういう効果を期待しているのなら、非常に合理的だと思う。外堀を埋めるという意味でもこのゲームに不満はない。だが、一つだけ不安がある。しりとりは、終わらせる方が難しいということだ。
むしろ好都合。そう考えるしかない。
「じゃあ、改めて。りんご。」
「...その心は。」
言われた通りにやってみる。
「加熱するな。」
恨みのようなどす黒い感情を感じた。親族を皆殺しにでもされたのだろうか。
「私は、加熱したリンゴも好きだよ。」
「...。」
高橋くんは俯いている。無意識にコメントしたが、無意識にマウントを取ってしまったようだ。無意識に。
「....そこまで言うなら、今度あったかくて美味しいアップルパイ食べさせてください。約束ですよ。」
「...え?」
高橋くんの方が一枚上手だった。欲望に塗れた穢れた笑顔は、邪悪そのものだった。
「...性格悪い。」
「約束ですからねー。」
悪の手先に嵌められた。
「とまぁ、こんな感じですね。それじゃあ先輩。りんごのごです。」
「じゃあ、ごぼう。」
「その心は。」
「しばらく、五本の棒だと思ってた。」
中学生に上がるまで five stick だと思ってた。
「その心は?」
「うーん...。」
繰り返すパターンもあるのか。まぁ、強いて言うなら...
「ごぼうには、一生ひらがなのままでいてほしい。」
牛蒡とかかっこ悪いし。
「あぁ。わかります。俺もとうもころしとか、ひらがなの方が可愛いと思うんで。」
高橋くんは腕を組み、うんうん。と頷きいていた。でも、違うの。
「そっか。ありがと。」
それ、ト〇ロのやつだから...。ていうか、これわざとなの?ツッコみ待ちなの?スタンバって
「次は俺っすね。う、うー。うん。うろこ。」
「....その心は?」
「目から鱗。」
は?
「あ、めんどくさいやつはフィーリングで結構です。」
「...わかった。」
無性にボディにブローしたい気持ちになった。
「じゃあ、こま。」
「その心は。」
「止まったときに、死んじゃった感じがして好きじゃない。」
「...先輩は玩具に何を見ているんですか。」
その心はって言ってよ。
「命、かな。」
「何言ってんすか。まじで。」
その顔やめて。本当に私のことやばい人間だと思ってる顔、やめてよ。
「では。舞妓。」
京都にいる舞妓さんのことだよね。人の名前は使わないだろうし。というか、よく舞妓さんって言わなかったな。私だったらぽろっと言っちゃうかも。
「その心は?」
「どこから白くて、どこから白くないのか気になる。
確かに。言われてみれば気になる。舞妓さんは、うなじや腕も白く塗られていた記憶があるから。単純に着物から露出する箇所を塗っていると思ってたけど、伝統文化の特殊なゲン担ぎなどを考慮すると、実は全身を白く塗っていたというパターンもありそうだし、門外不出のタブーという可能性も...
あ。
「...変態。」
危ない。危ないところだった。もう少しで納得するところだった。危なかった。本当に、危なかった...。
「言い掛かりはやめてください。これは純粋な興味関心好奇心です。えろいことはこれっぽっちも考えてません。」
高橋くんはきっぱりと断言するが、語彙が足りていなかった。
「...そっか。」
探究心は、悪魔を呼び覚ます。
「じゃあ、ごま。」
ごぼう、こま、ごま。なんだか、因数分解できそうな顔ぶれである。
「その心は?」
「いらない。」
ごま油は例外として存在を認める。
「先輩最低です。一次生産者様のことを何だと思っているんですか。この、ごくつぶしが。」
雑穀だけにってことかな。それにしても、穀潰しはひどくない?私、悲しくて泣いちゃう。
「でも、日本のごまの食料自給率って、0.1%くらいなんだって。」
「...。」
「なら、無くてもいいんじゃないかなって。ごま油だけあれば、いいんじゃないかなって、私は思うの。」
「...。」
列車はトンネルへ突入し、一瞬の轟音とともに沈黙が訪れた。
「...アレルギー、とかですか?」
はい私の勝ち。
「うんうん。違うよ。」
「じゃあ、どうしてそこまで胡麻を嫌うんですか?ぶっちゃけ俺もゴマ油とゴマドレ以外に必要だと思ったことないですけど。」
そうなんだ。案外話がわかるじゃ....。いや待って。なら、さっきの罵倒は何だったの?
「小さい頃の話なんだけど、大きい飴玉くらいのごま団子を喉に詰まらせたことがあるの。」
このくらいだったかなと、指で輪っかを作って見せる。
「うわ。結構でかいっすね。」
想定外のサイズ感だったのか、高橋くんは驚いていた。引いていたとも言える。
「それ以来ごまを見ると、その時のことを思い出すの。だから嫌い。」
「あぁ。そういう。」
彼は淡々と答えた。
「呑み込むことも吐き出すこともできなくて、喉が内側から張り裂けそうだったよ。」
ごまが喉に張り付いて、めり込んでくるあの感覚。あれは、全身の毛が逆立っているのではないかと錯覚するほど気持ち悪かった。
「じゃあ、先輩はどうやって助かったんですか?」
テレビのコメンテーターのような、これっぽっちも興味が無さそうな表情をしていた。
「近くにいたおばあちゃんが私の背中を叩いてくれて、団子を吐き出せたの。」
「...いいおばあちゃんですね。」
「うん。命の恩人。」
あの時のことは、鮮明に思い出せる。おばあちゃん。最近会ってないけどどうしてるかなぁ。
「災難でしたね。」
「うん。」
なんだか、足蹴にされている気がした。
友人には、何度かこの話をしたことがある。人生最大級の危機だったが、笑い話として気兼ねなく話した。ごま団子に命を奪われかけた九歳の夏の出来事である。だが、まだ誰にも話していないことがある。それは、あの時のおばあちゃんのビンタがすっっっっっっっっっっっっっっっっっごく痛かったことだ。ありきたりな表現だけど、まるで背中に雷が落ちたような衝撃だった。肺の中の空気が水蒸気爆発を起こしたように膨れ上がって、凄まじい勢いで上がってきたそれを、団子ごと噴き出した。これは私の憶測だけど、おばあちゃんは握力100キロ、顎の力5トン、体重5トン、背筋5トン、走り幅跳び200キロ、パンチ力は1000トンくらいの化け物だと思う。多分、ド〇キーコングより強い。
「でも、どうして先輩はゴマ団子を丸吞みしたんですか?」
「...え?」
「聞いた感じ結構でかい団子っぽかったし、普通丸吞みしないですよね。だから、もしかして、何かやむを得ない理由とか、あったんじゃないっすか?」
それは、これまで誰も質問してこなかった。当時のみんなはまだ十歳くらいだったから。
「そ、そんなことないって。本当に偶然だよ。」
必死に誤魔化した。だが、彼の鋭い目つきからは執念のような何かを感じる。これは、逃げ切れないかもしれない。
「じゃあ、すごい小さい頃の話だったり?五歳とか?」
「違うよ。本当に偶然なんだって。」
そんなはずがない。幼児がおばあちゃんの張り手に耐えられるはずがない。間違いなく破裂する。虐待どころの話ではない。
「じゃあ、あまりにもバカだったとか?」
失礼だな。辛辣だよ。
「じゃあ、どうして丸吞みしたんですか?」
しつこい!しつこいんだけど、どうして。どうして君は、そんな純粋な瞳をしているの。アザラシの赤ちゃんのような、深淵に引き込まれそうな無垢な瞳。でも、教えられない。これだけは。
「いや、なんかその、いけるかな~って、思って。」
「...。」
...何言ってるんだろ。私。
「子どもの頃って謎の自信ありますよね。俺もバレないと思って兄貴と姉貴のアイス食いまくってました。まぁ、母親にバレて怒られましたけど。」
「なにそれ。そんなのバレるに決まってるじゃん。」
思わず口から出た言葉は、なんだか軽くて気分が良かった。
「いや、お互い様じゃないっすか。先輩だって団子丸吞みしてるし。」
「一緒にしないでよ。私は、わざとやったわけじゃないんだから。」
「じゃあ、今から先輩のことをバカと呼びます。おいバカ。やぁバカ。おはようございます。バカ。こんにちは。バカ....」
奴は、私のことを馬鹿にしている。その薄ら笑いが何よりの証拠だ。舐めやがって。後輩のくせに。
「おい。あんま生意気なこと言ってると、ぶっ飛ばすぞー。」
「うわ、うーわ。うわうわうわうわ。こわーい。暴力はんたーい。へんたーい。」
「あーもう。喚くな。これ以上騒いだら、おばあちゃん直伝の張り手で君を殺す。」
私今殺すって言わなかった?叩くって言おうと思ってたのに。
「え?殺されんの?俺?。」
まぁ、いっか。
「うん。君消す。」
「あ、朝〇龍⁉」
「...あは、あはは。」
高橋くんがあまりにも良いリアクションをするものだから、思わず笑ってしまった。爆笑と言うほどではないが、途端に対岸の客が視線を向けてきた。だが、その冷たい軽蔑の眼差しは、あまり気にならなかった。そういえばあの日も、おばあちゃんと一緒に大笑いしたっけ。
小三の冬休みにおばあちゃんの家に行った。その時は縄跳びにハマっていて、毎日遅くまで近くの広場で練習をしていた。そんなある日のこと。ふとお腹が空いて、縄跳びの練習を途中で切り上げておばあちゃんの家に戻ったことがあった。一休みもかねて、縁側に座っておばあちゃんの部屋を覗き込むと、団子らしき物を発見した。それは高そうな包装がされていて、残りが一つしかなかった。食べてはいけないという確信と、どうしても食べたいと思う食欲の暴走。結局、私は欲望に負けてしまい、バレないようにこっそり食べようと考えた。禁忌を犯しているような極限の焦りと、痕跡を残してはいけない緊迫感。泥と汗で汚れた靴下は脱いで、踵を浮かせて足音を殺した。やっとの思いで机の上のごま団子に到着して、包装を剥がすとごま団子が出てきた。思ってたのとは少し違ったけど、もうどうでもよかった。ゴミをポケットに突っ込んで、団子を口に頬張る。今は味わう時ではない。急いでこの場から離脱しなければ。そう思って、後ろを振り向いたら....
おばあちゃん、立ってた。
あの日の絶望を、私は忘れられなsい。




