ごはんと聞いたときに、サ〇ヤ人が浮かぶ人。素直に手を上げなさい。怒らないから。はい。よくできました。元気没収です。
暗闇の中に赤い靄が見える。顔には、広範囲の熱を押し付けられているような感覚。布の擦れる小さい音が聞こえる。けれど、なんの感想も出てこない。そもそも思考ができない。そんな半覚醒の世界。顔面から感じる不快感を解消するために、身体は自然に寝返りを打った。途端に赤い靄は晴れて、湿度の高いひんやりとした空気に包まれる。鼻から全身に供給される涼しい空気が心地いい。このままもうひとレム睡眠行ってみようかというところだったが、今度は背中のあたりに熱が押し付けられている感覚があった。アイドリングの状態も限界が近づき、五感がどんどん活発になっていく。呼吸の心地よさは薄れ、身体の不快感が増し、凝り固まった身体に蓄積したストレスが覚醒の引き金となった。
「.....あっっつ。」
ぼぅん、と腰のあたりにずり落ちた毛布を蹴とばす。下半身には蓄積された蒸し暑さがかなり残っていた。湿度の高いもわもわとした空気に耐えられず、小さく跳ねるように熱のこもっていない新大陸へと体を避難させた。それでもまだ瞼を開く気にはならなかった。
「お。起きたかな。」
シャ、とカーテンがレールを走る音と聞きなれない声がした。
「高橋君。起きてる?」
「なに?」
「寝ぼけてる。ほら起きて。朝だぞー。」
......朝?てか今何時.....。
がバッ!!と体を起こして目を開く。黒色の髪が綺麗な女生徒、左半分が陽光に照らされているしわだらけのベッド、半分くらい開かれたカーテン、ぼんやりと暖色系になっている青空、見知らぬ天井と規則的に並んだ消灯中のLEDライト、ベッドの脇のサイドテーブル。視界があらゆる白で埋め尽くされていた。ここはどこ?私は誰?知らない天井だ。なんてふざける余裕は無く時間だけが最重要事項だった。今は何時だ!スマホはどこだ!とりあえず周囲をぎょろぎょろと見渡すも、時計もスマホも見当たらない。焦る気持ちがどんどん膨れ上がっていく。焦りが膨れ上がって思考が全然まとまらなかった。
「何か探してるの?」
見かねた女生徒が声をかけてくれた。助かった。彼女に時間を確認してもらおう。
「あの、すみません。今、何日の何時ですか⁈」
女生徒は急な問いかけに戸惑っていたが、すぐに制服のポケットからスマホを取り出して時間を確認してくれた。
「えっと.....時間は。14時30分くらいかな。日付は4月14日の月曜日。」
月曜日...なら大丈夫か。ていうか、4時半?今まで何してたんだっけ。俺。
「あの、ありがとうございます。急にごちゃごちゃと、すみませんでした。えっと...」
「........忘れちゃった?」
.....忘れちゃった?何を?と思いつつ、記憶を遡る。が、なかなかどうして思い出せない。とりあえず形からということで手で口を覆ってみたり、顎に手を当ててみたり、おもむろに右斜め上を眺めてみたり、左手を受け皿にして右の拳をポンっとやってみたり、色々試してみること数分間。彼女はぼけーっと俺の様子を伺っている。俺も彼女も居たたまれない数秒間が過ぎ、彼女は口を開いた。
「あー。」
あ?あぁ?あー?
ワンストライク。
彼女は続投する。
「だー。」
二球目は「だ」。だ?だぁ?だあー?それともあだ?あだー?あーだー?.....Murdar?
ストライットゥー!
彼女は続投する。
「ー....。」
彼女の口の形が変わっていく。なぜか時間が止まったように感じた。彼女の口の動きが、見える!ハイスピードカメラの映像を凝視しながら、彼女の口が横に開かれた。
あああああああああ!!突如として蘇る記憶。飴色のフィルムがジジジジジ、と高速で映像を投影していく。今朝から今に至るまでの膨大な情報が溢れだし、点と点が繋がるように現在と過去を結び付けていく。これもまた結びってやつか、これ!!脳内麻薬ダバダバの身体にはエネルギーが満ち満ちている。興奮冷めやらぬ状態で先輩の最後のヒントを受け取ることなく、全身全霊でバットを振るった。
「あなたは、足立先輩だぇぁぁぁぁすか!!!」
彼女は少しだけ目を見開いた。それは果たして驚愕か。呆れか。正か負か。〇か×か。真か偽か。張り詰めた空気に息を吞む。喉が閉まらなくて口の中がカラカラだった。先輩は焦らしているのか口を開かない。たった数秒の静寂がとても恐ろしい。鼓動が奏でるドラムロールが眼球にまで響いてくる。もうそろそろ教えてほしい。せめてファイナルアンサー?くらいは聞いてくれてもいいんじゃないだろうか。それがないなら、このテスト返却みたいな時間を早く終わらせてくれ!
「.....正解。私のこと、ちゃんと思い出した?」
彼女は朗らかな表情で、穏やかな声音でそう言った。勝利を確信した俺はグッとガッツポーズをとる。試験に合格したかのような、この胸に宿る熱い達成感を共有したくて先輩の方を見た。太陽と勿忘草の空を背に、透き通るカーテンと陰に彩られた先輩の姿は、とても綺麗だった。でも、同時に儚い物だった。その光景をどこかで見たことがあるような気がして、手当たり次第に記憶の引き出しを漁っていたが、ピンとくる記憶を探し出せばかった。その様子に、先輩はどうかした?と声をかけてくれたが、俺はそっけない返事をするだけだった。結局、この日はその光景を思い出すことなかったけれど、3日後くらいにSNSを漁っていた時にそれに出くわした。机に置かれた花瓶と傍らに浮遊する少女のイラスト。数千のいいね!が付けられた美麗で憂鬱な作品だった。
ストライーク!バッターアウッ!!
良い感じな雰囲気のところ悪いけど、恩人のことを忘れるのはダメでーす。教えに反しまーす。死刑でーす。
それから数分。今朝から中庭での一件までの記憶を完全に取り戻した俺は、先輩に対して底知れない罪悪感を抱いていた。お前は死ぬべきだと天からのお告げのような声が聞こえる。死のう。
「やっと思い出しました。全部。ちょっと混乱してたみたいです。」
完全にコンディションが回復したので、冷静に状況を整理する。今回と昼の一件は、年に数回の頻度で起きる寝起きパニックによるものだと判断した。最近あんまねぇなーとは思っていたが、1日に2回も起こるとは想像できなかった。あの塩顔天パに殴られて気絶したせいもあるだろうけど、記憶が曖昧になったのも不思議な体験だった。あまりの濃密な体験に非日常を感じる反面、先輩に多大な迷惑を掛けてしまったことが悔やまれる。う~ん。死ぬか。
「そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ。それに記憶喪失とかじゃなくて本当によかった。」
あんなことがあったら、この人ちょっとあれな人かな?ってなるでしょ。普通。それどころか記憶喪失の心配までしてくれるなんて。もしや、この人が神なのでは?
「すみません。要らぬ心配をおかけして。話は変わりますが、昼の時も起こしてくれて助かりました。今回の一件も合わせて、ちゃんとお礼をさせてください。」
俺は馬鹿だからよ、よくわからねぇんだけどよ。お礼をさせてくださいって、ナンパになったりする?セクハラになったりする?
「え、あぁ。それね。えっと、大丈夫だよ。そこまで大したことはしてないし。君のことを起こしただけだから...。ね。」
あぁ、やっぱりちょっと嫌そうな感じだな。ナンパだと思われてるかな?まぁ、先輩からしたら隣で寝てた人を起こしただけだし、お礼なんて言われてもピンと来ないか。でも、こういうのをほっぽかすと後々モヤモヤするから、時間があるときにはっきりさせておきたいんだよなぁ。俺が。そういえば、今更だけど先輩なんでここにいるんだろう。今、授業中だし。それに昼は元気になったって、言ってたと思うんだが.....。もしかして、先輩体が弱いのかな..。たまたま保健室に2回来た、ていうのも考えられるけど、あまりに落ち着いてるし、何かしらの事情があるべきと見た方が良さそうだ。なら、俺がやるべきことは一つだな。
「先輩。」
「どうかした?」
「俺はまだ高校生なので大したお礼はできません。」
「それは、いいよ。別に気にしてないから。」
「いえ。俺の気が済まないんです。日本一周、世界一周、宇宙旅行、天国地獄煉獄巡り、T〇L、U〇J。実際には難しいですが、それくらいの気持ちはあるつもりです。」
「あはは。そうなんだ。(地獄巡りとT〇L,U〇Jって同列でいいのかな?)」
「だから、先輩の食べたいご飯や欲しい物があれば言ってください。ファミレスでも牛丼でも、回転ずしでも回転しない寿司でも、手打ち蕎麦でも手打ちうどんでも、次郎でも家系でも、懐石料理でもジャンクでも、イタリアンでもフレンチでもトルコでも台湾でも韓国でも中華でもインドでもネパールでもタイでも.....イギリスでも!なんでも奢らせていただきます。いえ、奢らせてください!」
「...そういうことなら、いただこうかな。」
食べ物を希望すると思われてるなぁ。多分、と少し偏りがちな白の勢いに負けてしまった足立先輩であった。
「ありがとうございます!でも、どこの馬の骨とも知れない自分と二人きりで出かけるのは、不安だと思うので一つ提案があります。」
先輩が魅力的だと思うかつ、不安にならなくて俺も恩を返せてハッピーになるにはこれしか....。
「あ、ごめん。その前に少しお手洗いに行ってもいい?」
先輩は戸惑っているように見えた。急にあれこれ言われたら困惑するのも当然か。自分の悪い癖だ。
「はい。分かりました。」
「ごめんね。すぐ戻るから。」
そう言って先輩は保健室の入口へ消えていった。
洗面所の壁に寄り掛かる。今の時間は誰もこの辺を通ることは無いため、はぁ、と息を吐きながら全身の力を抜く。私は彼の話に乗り気ではない。だから逃げた。理由は単純で、私は男子と食事に行ったことがほとんどないし、私は外出もあまり好きではない。人の視線を感じることも、話を合わせることも合わせられることも、外出までのやり取りも私は苦手だから。そもそも、外出の予定がなければいいと思ってしまう。ただ、彼の言いたいことも共感できる。自分が失敗した時よりも、他人に迷惑を掛けてしまった時のほうが辛いから。心をギュッと握られたみたいな罪悪感が怖くて、その場から消えてしまいたいと思うこともある。でも、彼は私とは違って自分の失敗を取り戻しそうとしている。私にとってはそれだけですごいことなのだ。義理堅いのか、自信があるのか、優しいのか。どれを選んでも彼は私が不快感を感じないように配慮している。それに私と彼が初対面なことを踏まえると彼の提案はきっと、お友達も一緒にどうですか?と言うだろう。初対面の人と一対一で食事に行くのはハードルが高いから。他にこれといったアイデアが思いつかないし、間違いないと思う。この答えに辿り着いた時、誘いに乗ったことを心底後悔した。彼の発言を鑑みると、乾坤一擲、一球入魂の勢いで提案してくるに違いない。元気よく、力強く、一抹の不安すら残さないように。でも、私はそれに答えることが出来ない。私は知られたくないから。触れてほしくないから。かといって、はっきりと否定することも難しい。だから受験勉強が忙しいとか、親が厳しいとかそれらしい理由を並べて話を無かったことにするしかない。あなたの厚意を裏切ってしまって、本当にごめんなさい。体を起こす。なるべくゆっくり歩く。息を整えるために。息を整えたら、心の準備をする。己の罪に耐えるため。心の準備をしたら、喉の準備をする。声が掠れないように。
「ごめん。お待たせ。」
「いいえ。全然大丈夫です。」
私は、正直どうでもよくなっていた。体も心もフラットに調整して、何も感じないように準備をしてきたから。彼が話題を振らなければいいな、とさえ思っている。
「それで、お食事の提案なんですけど。」
最初の誘いでちゃんと断っていれば良かった。そう思った。思ってしまった。途端に彼の目を見ることが出来なくなった。でも、顔の向きは変えられないから、ピントを合わせずに視覚の情報を遮断した。何も感じないように準備をしてきたのに、一瞬の雑念で防壁が崩壊した。上っ面のキャラクターが保てくなりそうだ。うまく話せないかもしれない。不安は続々と恐怖を運んでくる。嫌な鼓動が聞こえる。喉が乾く、息が苦しい。いつまで私は.....。誰か、助けて...。
「えっと、ご両親も一緒にどうですか?」
「......へ?」
彼の言ったことが私には理解できなかった。